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ハードボイルド書店員日記【102】

「ない? ないかなあ」

珍しく平和な木曜日。週末に備えたカバー量産の好機だ。カウンター脇に置かれたPCの前に小柄な老紳士が立っている。「少々お待ち下さいませ」アルバイトの女の子が戸惑い気味にキーを叩く。折る手を止め、もうひとりのレジ担当に断りを入れて救援に向かった。「大丈夫?」「あ、すいません。この雑誌をお探しなんですけどヒットしなくて」折り畳まれた正方形の紙片に「棋道」と記されている。しばし筆跡を眺めた。ワイシャツと背の隙間に物差しを通された気分だった。

「他にも囲碁の雑誌があればってことなんですけど出てこなくて」店の端末に「囲碁」と打ち込んでもキーワード検索ゆえ、タイトルに入っていなければヒットしない。「ウチで置いているのは『NHK囲碁講座』『碁ワールド』かな。いいよ。代わります」「お願いします」

「棋道」をグーグルで検索し、ウィキペディアのページをお客様に見せた。「お待たせして申し訳ございません。こちらはずいぶん前に休刊となっています」「え、そうなの?」「いまは『囲碁クラブ』と合併して『碁ワールド』という雑誌に」「時々見掛けるね。ここにもある?」「お調べします」以前はあった。

「申し訳ございません。『碁ワールド』はいまは入れてないようです。NHKのものなら」「ありがとう、それを頂くよ。昔はもっとあったよね」「当店ではお取り扱いがなかったのですが、今年の2月に『囲碁未来』が休刊になりました」「へえ」「あと『囲碁』という雑誌もけっこう前に」「ああ小さいやつだ。『将棋世界』と同じぐらいの」「さようでございます」「新聞は置いてない?」「たしか『週刊碁』ですよね? 申し訳ございません」過去に何度か訊かれた。「いや、いいよ。いろいろ教えてもらって助かった」「ありがとうございます」

レジで会計を済ませる。「あ、そうそう。碁で思い出したんだけど」「はい」「ハードボイルド小説で、西新宿に事務所を構える囲碁の好きな探偵が出てくるやつわかる?」「ハヤカワ文庫の沢崎シリーズですね。『そして夜は甦る』とか。お持ちしましょうか?」「いや、それは全部読んだんだ。詳しいね」「たまたまです」「それの作者がレイモンド・チャンドラーから影響を受けてるって友達から聞いてさ。その人は原書で読む人なんだけど、オススメはこれって言うんだ」使い込まれた黒革の手帳を開いてみせる。真ん中付近の見開きに跨って『The Lady in the Lake』と記されていた。書体からお酒が強く、アイロン掛けの上手い女性を連想した。

「翻訳を図書館で探したんだ。でもそれらしいものがいくつかあって」「わかります」ご安心ください。心の中でつぶやき、該当する3冊のデータを呼び出す。

「まず清水俊二訳の『湖中の女』と村上春樹訳の『水底(みなぞこ)の女』。同じ作品です。いずれも、お友達の方が推薦している長編小説『The Lady in the Lake』の翻訳になります。なお清水訳の方が先です」「なるほど」「もうひとつ。『レイディ・イン・ザ・レイク』というカタカナ題の短編集がございます」「ややこしいなあ」「こちらには件の作品の短いバージョンが収録されています」「え、同じ小説の短い版ってこと?」ややこしいねえと繰り返す。まったく同じタイトルの長編と短編。早川書房的にも苦肉の策だったはずだ。

「チャンドラーは短編版の『レイディ~』を『ベイシティ・ブルース』という別の短編とミックスさせ、長編バージョンへ改変しました」「昔はそんなことができたんだね」「なので、長編を先に読んでからこちらの短編集へ向かうのがオススメです。『ベイシティ・ブルース』も入ってます」老紳士はしばし首を傾げ、やがて小刻みに何度か頷いた。「そうかそうか。先に短編ふたつを読んだら、長編の結末が予想できてしまうわけだ」「仰る通りです」

春樹訳と短編集が棚にあった。買ってもらえた。清水訳は客注。伝票を作ってお渡しした。「入荷したらご連絡を差し上げます」「ありがとう。ところで村上春樹の訳、あなたはどう思う?」「スタイリッシュでリズムが心地いいです。一方、元々の文体が持つしつこさや陰鬱なムードにより忠実なのは」「なるほどね。ちょうど読み終わる頃に入るかな? 比べるのが楽しみだよ」「お待ちしております」心と言葉が連動し、自ずと頭も下がった。

事務所の椅子に座り、メモを2枚書いた。1枚は雑誌担当に向けて。「『碁ワールド』の配本を復活させた方がいい」という趣旨を朝まで飲んだ中原中也の筆跡で綴った。もう1枚は文庫担当宛。「『水底の女』旧訳の返品は早すぎるようだね」破り捨てた。これで通じる職場なら無給でも文句はない。

今度来たら「ロング・グッドバイ」を勧めてみよう。清水訳の「長いお別れ」と一緒に。「ハードボイルド道」みたいな雑誌が出ていたらなおいい。

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