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自分の国の言葉や方言を醜いと思って過小評価しないで。どの言葉も等しく美しいのだから。

私は、ことばが好きだ。

私は好きなことがある。それは語学学習だ。

ことばを学ぶことは、その土地の文化や歴史や誇りにしているものを学ぶことにつながる。

ことばというのは、こんなにも深くその土地やその国と結びついているんだ。

そう、私はいつもことばを学ぶと思う。

ことばを紐解くと、その国がたどった運命が手に取るようにわかる。

それは語源でも良いし、言語政策の影響によって得られたものでも良いし、方言でも良いし、地方による語彙やアクセントの違いでも良いし、とにかくあらゆるものだ。

誰もことばを奪えない

誰もひとからことばを奪えない。

たとえその国が他国から侵略されても、ことばを変えられる政策(たとえば、ある国に住んでいるひとが他国に併合され、その他国の言語を話すよう強制された場合など)のもとに置かれても、いちど覚えた言葉は決してそのひとのこころからは消えやしない。たとえそのことばを話すことを忘れてしまっても、そのことばが持っているアイデンティティはそのひとのなかで確実に生きている。

国によっては、英語をもっと広めるために、自分の国のことばをあまり大切にしない国がある。

たとえば、福祉とIKEAで有名なスウェーデンでは、英語が良く通じて、スウェーデン人も娯楽などは英語で楽しむこととなっている。

私がスウェーデン語を学んでいるというと、「英語ができないとスウェーデンにはスウェーデン語で楽しめる映画や音楽といった娯楽はないから、英語さえできれば苦労しないよ」と言われた。すごく寂しい気分になった。スウェーデン語だって美しいことばなのに、彼のことば(母語)なのに、それを適当にあしらってしまうなんて。

日本語は美しい、というときに忘れてはいけないのは、どの国のことばもその国と深くかかわりがあって、とても美しいということだ。

美しくない言葉などない。醜い言葉などない。どの言葉も等しく綺麗で、美しくて、尊い。

方言は醜い、と言ってしまわないで

方言も同じだ。

方言は醜いとか、かっこ悪いとか、下品だとか、そういったことを言うひとは残念ながら世界のどこにでもいる。

実際に日本でも「私の方言は強いからなるべく『標準語』で話すね」と言われたことが何度もある。

イタリアに留学していたときでも、「方言なんて覚えなくて良いよ。時間の無駄だから」と言われたことが数えきれないほどある。

こんなナポリ方言なんか覚えなくていいから「標準語」を覚えたほうがいい。ナポリ方言はイタリアのひとつの州(カンパニア州)でしか通じないけれど、イタリア語を学べばイタリアのどこに行っても苦労しないから。そのほうが君にとって便利だし、将来に役立つはずだ。

そうイタリア人に言われた。

彼はナポリのひとで、ナポリにはナポリ方言(dialetto napoletano)がある。ナポリ方言はとてもコミカルで、笑いが多くて、滑稽で、元気が出ることばだ。それはナポリの気質を良く表している。

ナポリがあるカンパニア州は、仕事が少ない南イタリアに位置している。生活水準は北部と比べて低いし、貧しいし、はっきり言ってしまえば治安も悪い。

それでも、ひとは気楽に、おおらかに、笑顔がたくさんあるような日々を生きている。

南イタリアはたいがいいつも晴れていて、明るくて、空は青くて、気温はあったかくて、太陽はいつもまぶしい。

そういったものをナポリ方言は深く反映している。

「フニクリフニクラ」などはナポリ方言で書かれた音楽だ。歌詞の意味はわからなくていいから、いちど聞いてみてほしい。

ナポリという土地がいかに明るくて、陽気で、はつらつとしているか、方言を聞いてみるときっとわかるはずだ。

大学や国などを英語公用語化するのは良いことか、良くないことか

悲しいのは、言語政策だけではない。

私は大学の公用語を英語にするのは賛成だが、それは「すべての」大学であってはならない。

たとえば、ある大学(たとえば大阪公立大学)が英語化する。それは良いことだ。海外の大学院に行ったり海外の大学に留学したりするときには、英語で授業を受けないといけないからだ。海外の論文を読むときも、たいがいは英語だ。国際標準は英語と決まっている。そして、そのほうが留学生もたくさん来て、キャンパスがインターナショナルになって、学生(日本人学生も)の人生がより豊かになる。

そして、英語公用語化や9月入学が嫌ならその大学に入らなければいいだけの話だ。人生は選択肢が多いほうがいい。

だからといって、英語公用語化はあくまで学生の選択肢を増やすためにやるべきものであって、すべての大学がそうしなきゃいけないわけではない。

英語を使おう。

英語で学べる環境をつくろう。

そういった動きは、世界に合わせることになるから、一部ならやっていい。

ただ、それもやりすぎると英語帝国主義になってしまう。

また、母語で学ぶほうが効率が良いし、そのために先人たちは苦労して翻訳してきたのだから、母語をもっと大事にしたほうが良いというのも同感だ。

英語帝国主義の末路は、自分のアイデンティティを持てない人間をつくってしまう

英語は素晴らしい。日本語はだめだ。

そうはっきり言ってしまった世界があるとして、その先に、日本の未来はない。

日本語なんてなんの役にも立たないから、学生にはもっと英語を勉強させるべきだ。

そう言ってしまったら、そこには未来はない。

日本語のベースがあるからこそ英語を学べるし、英語を学んだらそのつぎに学ぶ外国語へのハードルが低くなる。

私はフランス語を学びたいのであって英語を学びたいのではありません、といった学生も当然いるだろう。私が彼にかけるアドバイスとしては、とりあえず英語を学んで、それで外国語学習とはこういうものだとある程度分かってからフランス語に入れば良いということだ。

それなのに、たとえば日本語教育を怠って、たとえば幼稚園生から英語を教えて日本語教育をほとんどしないとしたら、そこには同じように未来はない。

その結果生まれるのは日本語も英語もろくにできないセミリンガルと決まっている。

英語が世界共通語でなくなる可能性

英語は世界共通語かもしれないが、それはあくまでも2024年現在の話だ。

これから英語だけでは不利益を被るといってエスペラント語やトキポナ(いずれも人工言語といって人間がつくった言語)が世界共通語化するかもしれない。

みんなが等しくわかるようにと、ラテン語を世界共通語とする時代が来るかもしれない。

もしくは、たとえば日本や中国やロシアが世界の中心になったら日本語や中国語やロシア語が世界共通語になる。

また、もっと身近な例でいうと、たとえば目の前にフランス人とトルコ人とインドネシア人がいたとして、彼らがもし日本語学校に通っていたとしたら、3人の共通語は日本語になるはずだ。

英語はたまたま世界共通語になったのだから、英語母語話者は傲慢になってはいけない

たまたま英語が世界共通語になったのであって、英語ができないひとは非国民だといった一部の英語母語話者の傲慢な考え方は私は本当に嫌いだ。

実際、知り合いがイギリスに語学留学していたとき、たまたま行使の母語が英語だからと、彼女が日本語というアイデンティティを持っているのをひどくばかにされたという話を聞いた。

そんな役に立たない言葉忘れなさい。英語ができないあなたはここでは生きていけないよ。英語を学びたいならイギリス人と結婚しなさい。イギリス人は完璧な英語を話すけれど、あなたは一生そうはならないだろうね。私は英語が母語だから、通訳の仕事をして時給100ユーロ程度稼いだこともあった。あなたには無理だろうね。日本語なんて無意味なのだから。

こういったことを言われて、彼女はその語学留学を中断して帰国して、しばらくは英語が嫌いになったと言っていた。

歴史にifはないけれど、もしかしたら日本語が世界共通語になっていた世界戦だってあったのだから。

「日本語なんて」という日本人が失っているもの

そして、他人や自分のことばというのは、そのままアイデンティティにつながる。

たとえば、「日本語なんて」と言う日本人がいるとする。

綺麗じゃないです。難しすぎて意味が分からないです。学ぶ意味ないです。汚い言葉です。役に立たない言葉です。排他的な言葉です。家父長制が身についた醜い言葉です。

どんなことだっていい。

今日から、そうやって日本語を卑下するのを辞めよう。

その先に待っているのは、自分を卑下することだからだ。

「日本語なんて」と言うことは、「自分なんて」と言うことにつながる

自分なんて。どうせ自分なんて。

不細工です。優しくないです。かかわる意味ないです。役立たずです。人間なんて嫌いですから。

そういった先に待っているのは、メンタルヘルスへの悪影響だ。

アイデンティティを卑下するとメンタルヘルスは簡単に悪化する

私なんて生きていて仕方ない人間ですから。はっきり言って、私が存在していることで得するひとはいないと思います。迷惑ばっかりかけてしまいますからね。

そういったことに、極端に言えばつながってしまう。

美しくない言葉なんてない。美しくないひとがいないように

不細工なひとというのは、たしかにいるかもしれない。

ただ、「美しくないひと」は存在しない。

言葉のあや、机上の空論、絵空事、お世辞。

私達は愛されて生まれてきて、愛されて生きている―たとえ知らないひとからでも

そういわれてしまうかもしれないが、カトリックの信者として言わせてもらうと、私達は愛されて生まれてきて、私達は神様から等しく愛されている。

こんな宗教的なことを言われなくても、私達は誰かからちゃんと愛されている。それが両親からかもしれないし、友人や知人、ましてはインターネット上で知り合った誰かからかもしれない。少なくとも、あなたは私から愛されている。

誰からも愛されていないひとがいたとしたら、それはそのひとの認知がゆがんでいるだけだ。私はあなたのことを知らないけれど、あなたを愛しているし、あなたが幸せになってほしいと思っているし、あなたが今日も美味しいものを食べられたことを願っている。

見たことも会ったこともない他人を愛することはできる

私の好きな言葉がある。

「他人を見たことも会ったこともないのに嫌うことができる私達は、あったことがなくても知り合いでなくても、他人を愛することができるはずだ」

たとえば、ある黒人さんが悪いことをしたとして、会ったこともないのに黒人さんのことを嫌いだと言ってしまうことはできる。あるいは、黒人さん全体に良くない印象を抱くことだってあるだろう。それは残念ながらありふれたことだし、そう考えてしまうのは人間のさがだ。それが現在の世界だと思う。

それができるならば、たとえば会ったこともない黒人さんのことを、愛することだってできるはずだ。たとえば、ある黒人さんが優しいことをした場合などに、ああ、黒人さんって、人間って、こんなに優しいものだったんだなあと思うことだってあるだろう。

知らないことばを愛することだってできる

同じことだ。まだ学んだことのないことばを愛することも、私達にはできる。

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