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祈るだけでは何も変わらない、DV被害者に選択肢はない

私は宗教には入っていないし、特に信じているわけでもありません。

いろんな国に行きましたが、宗教に熱心なのはやはり東南アジアと中東系の方でした。
子供の学校にもいろんな国の人たちがいますが、学校からの旅行を宗教的理由で行かないという生徒もいました。
子供自身は行きたがっていたらしいので、気の毒だなと思いました。

日本にいるときは、年末年始に家族や友達と神社をはしごして賽銭を入れて願い事をして、可愛いお守りを購入するだけのにわか信者でした。

今もそうですが、DVの末期にはもう何もどうすることもできなくて神様に祈ることしかできませんでした。

それほどDVをする人には何も通用しません。

彼らは相手が泣こうが喚こうが怒ろうが、自殺未遂をしたとしても、どこかの偉い人に説教してもらおうが、被害者が変わろうが、彼らは変わることはありません。

DV加害者のせいで誰かが亡くなったとしても変わりません。

逆に自分のせいではないと、誰かに必死で罪をなすり付けることでしょう。
私の夫は実際にそうでした。
出会う前に起こった出来事までも私のせいにして、それを暴力を振るう理由にしました。

そんな人の思考を理解することは不可能です。

それでも生活の心配や不安でなかなか逃げ出せない自分。

そして周りには誰もいない。

私は誰かに背中を押して欲しかったのです。

口には出しませんでしたが、最後はDV夫が変わることはないことは分かっていました。

そんな時前に書いていたブログの読者さんが、お寺にご真言をもらってきてくれました。
そのご真言をひたすら毎日唱えていました。
夫が暴言を吐き続けている時も、殴られている時も、一人でいる時も眠る時も、ずっとご真言を頭の中で唱え続けました。

意味などわからないし、とにかく生きているうちにここから出なければいけないことだけは分かっていました。

そのうちに暴言は気にならなくなってきて、冷静になることができるようになってきました。
ご真言を唱えているため暴言に集中しなくなり、聞いていない、聞こえない状態になったことはとても助けになりました。

ただただそのご真言を強く信じていました。
体の調子が悪い中、その読者さんはお寺に行ってきてくれたのです。

そのかたがご真言のお話をしてくれるまで、私の頭には神様に祈るという考えは一切ありませんでした。

でも彼女の言葉で、お寺に電話してみようと思ったのです。

そして私はアメリカにあるお寺に電話をかけました。

夫が出かけている間にかけているので長電話はできません。
私は早口で今の状況を住職に伝えました。
住職は、こちらに来ていただいたら厄払いのようなことはできますが、あなたの場合はそういう問題ではないと思います。
今すぐお子さんを連れて家を出るべきです。

住職は非常に現実的なアドバイスをくれました。

彼の言葉と彼女のくれたご真言で、家を出るとういうことに覚悟を持つ心の準備ができました。

私はどこかで
神様は彼を変えられる方法を知っているのではないか?
彼らは私を救ってくれるんじゃないか?
そう期待していました。

それほど私にはなす術がもうありませんでした。

ですが誰も私を甘やかすことはしなかったし、私を哀れんでくれることもありませんでした。
そして誰も私を責めなかったし、あなたならできるというような無責任な励ましをする人もいませんでした。

それが悲しかったり不安になったりする要素でもあったのですが、彼らは私の母親ではありません。

結局のところ、自分なのです。

判断を下すのは自分で、その判断に責任を取れるのも自分だけなのです。

ただDVを受けている人がその状況の中でここまで冷静に物事を考えられるかと言えば、それは厳しすぎると思いました。
もう心も身体もボロボロなのにさらに頑張れ??
被害者にとってはここから脱出することがゴールなのです。
戦場から生還するのと同じなのです。
そして戦場から生還しても住む家がないのです、お金がないのです、他に頼れる家族もいないのです。
まともな教育を受け、まともな思考を持っていれば不安にならない訳がないのです。

そして逃げることさえできない自分に自己肯定感が急激に下がり取り返しのつかないことをしてしまう被害者もいると思います。
誰も助けてくれない…と絶望で立ち尽くすことしかできない人もいるでしょう。

それでも脱出するしかないのです。
選択肢は何もないのです。

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