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彼らは自分の住む街を共同体だなんて思っていません。ホテルで隣の部屋の住人なんてどうでもいいですよね。どうせ出ていくだろうし、自分も出ていくからです。

日本埼玉化計画とか漫画のギャグだと思って安心しているあなた。現実はもっと深刻ですよ。

笑っていられるのは多分まだ共同体意識や郷土愛、コミュニティがそれなりに健全に機能している社会に住んでいる方々でしょうね。いわゆるふつうの田舎か、もしくは昔からある都会かのどちらかです。

そこには多様性がある。
昔から住んでいる大きな家。それとも小さな家。
寺や神社の子供がいて、複雑に絡み合った産業構造と、そのところどころに携わる人びとがいる。
転勤族がいる。出ていく人、住み着く人、帰ってくる人、通りすぎる人。
情報の多様性。人々の多様性。社会の柔軟性。それをよく見聞きし、知ることができる。
歴史がある。50年、100年、300年前にもそこを歩いていた人たちがいるという事実。そして海や山が人間なんかよりもはるかに大きな力で存在し、永続している。


それに引き換え、かつてのニュータウンとか、新興住宅地、そして団地とマンション街。もともとただの野原だったそこには歴史も信仰もなければ文化もない。
道と川と、住み着いては消えていく小さな営みがあるだけ。
子供たちは去り、一世代でリセットされる。
無の上にほんの一瞬生まれた黴。

多様性など生まれようもありません。
同じような収入の家庭しかそこには集まらない。
買うにせよ借りるにせよ、同じくらいのお金を払える人たちしか集まっていないんですから。
分譲されたときに一斉に入ってきたので年齢も同じくらいの世代の家庭しか存在しない。

同時に栄えて、同時に年をとり、同時に衰退していく。

画一的に。

ベッドタウンはその役割として基本的には家しかないので、産業構造の複雑さもない。買えるのは食べ物と生活必需品だけ。そこでなにかを産み出して外と関係しようとはしない。レイヤーは一枚。

都市間をつなぐ太い道を走ると、どこまで行っても同じようなチェーン店が彼らなりの周波数で周期的なリズムを刻むだけ。
何km置きにマクドナルド。何km置きにスーパーマーケット。ドンキホーテ。ガソリンスタンド。コンビニ。

文化が欲しければ、電車にのって東京へ行って、買ってくればいい。

東京の美術館で、東京の劇場で、東京にあんなお店ができた、東京のお祭りに、東京の人が、東京で人気の……

昔話や映画などでノスタルジィを焚きつけようとしても無意味です。彼らには昔なんてものは無い。それを見ても自分たちの歴史と地続きではないからです。

その時代に、そこには街なんてなかったのですから。

自分たちの親はもしかしたらふるさとがあるかもしれません。どこか生まれ育った田舎が。
でも自分たちには何もないんです。生まれた時からその空虚な街しか知らない。本当に知らない。

だから子供や地域に受け継いでいくものなんてなにも持っていない。

時間を切り売りして得た小銭以外、何も持っていない。
すべての文化が、他所からの借り物なのです。

親のない孤児みたいなものです。

そんな場所で郷土愛など芽生えるはずがないんですよ。
生まれながらにして地域社会も家庭も文化もすべて破壊されているそこは、街の形をしていますが、ただ都会へ働きに行くためだけの巨大なビジネスホテルです。

共同体だなんて誰も思っていません。

だってホテルで隣の部屋の住人の事なんてどうでもいいですよね。

どうせ出ていくだろうし、自分も出ていくからです。

ふるさと納税がいい例です。目先の利益のために堂々とフリーライドする。公共のサービスだけはきっちりと受けておきながら。

彼らは自分の利益にしか興味がありません。困っている誰かのためにとかノブリスオブリージュみたいな思想は根本的に理解できません。

なぜなら、自分と自分の家族以外の存在はすべて、ただの風景、NPCでしかないからです。

彼らはなにもしてこないのだから、何をしてやる必要もない。

電車の中で化粧をしようが、コンビニの前にたむろしようが、深夜大声で騒ごうが関係ないです。

だって相手は自分には関係しない、ただの風景だから。

店員にタメ口とか横柄な態度をとるのも同じ。お客様は神様とかですらないです。自動販売機。

どんな高級料理店、百貨店であろうと、彼らにとっては自動販売機なんですよ。

クレームや不機嫌な態度はうまく動作しないボタンを叩いたりするのと同じことです。

店員を見ても、ディズニーランドのキャストやペッパーくんとと同じで無条件に客の言いなりになる存在であるべきと思っている。
むしろ仕事なんてそんなもので、そういうロボットを演じて8時間を過ごすのが一番楽に金を稼ぐ方法なのに、なぜ人間的に客と接しようとしているのだろう、喜怒哀楽なんてコストでしかないのに、バカなのだろうかとすら思ってる。

そうです。

それ以外の商売の仕組みを知らないからですね。
子供のころからコンビニとチェーン店と自動販売機しか無いところで育ったんだから当然です。

知らないんですよ。見たことが無いんです。
テレビやドラマの中でやりがいを持って働いている人を見ても、あれはフィクションの中の存在だと思ってる。

自分の時間を売って、週末に家族とだけ遊ぶ。
七分の二の人生。これが埼玉流のライフスタイルです。

彼らの見ている世界はとても狭い。

14ビットではなく8ビット。

レイヤも1階層だけ。

双方向ではなく一方通行で、

多様性なんてものはないんですよ。

それが徐々に日本中に広がっていきます。田舎の中途半端な都市化。核家族化。チェーン店と大型SCによる地域社会の破壊。そういう文化を良しとするメディアの皆様。

日本のすべてが埼玉の郊外みたいになった暁には人はどんな景色をみるのでしょうか。

多様性も倫理も文化も、低水準で安定しきった澱みのような世界。


長期的に、世代を超えた文化の発展や継承とは無縁の一世代ごとにリセットされる世界。

産業も環境も構築せず、終わる。

人間が人間らしく暮らせるわずか20〜30年間だけそこに咲く植物のような暮らし。

胞子として放たれた、ふるさとを持たない子供たちは、またどこか同じような土地で同じような家を買い、同じように何も残さずにまた次の世代をただ放出し、そして衰退していく。

共に栄えようとか、共に何かを成し遂げようとかそういう流れのない世界。

自分さえよければいい。

自分の家族さえよければいい。

それ以外の存在は、無である。

インプットの多様性を失った世界からはなにもアウトプットされません。

そんな世界はもう、死んでるも同然ですね。


私はそれは、あまり好きではありません。

おしまい。


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