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大白小蟹 『うみべのストーブ 大白小蟹短編集』 : 繊細な作家 と ナイーブな読者

書評:大白小蟹『うみべのストーブ 大白小蟹短編集』(リイド社)

あらかじめ断っていくと、本稿は『うみべのストーブ 大白小蟹短編集』の「書評」というよりは、それを読んだことをきっかけにして、私の考えたことを書いたエッセイ、といったものになっている。
決して、本作が面白くなかったということではないが、わざわざ書評を書くほど、何か特別な感想を持ったというわけでもなかった、のである。

本作を読んで多くの人が感じるのは、作者の「繊細さや心優しいさ」といったことだろうし、だから多くの読者は、それへの共感を示すだろう。「感動した」「作者の繊細な感性が素晴らしい」「私たちが、日常の中で見失っていたものを、思い出させてくれた」とかいった感想である。

これはこれで間違いではないし、そのレビューを読んだ人の参考にもなるだろう。
なぜなら、多くの人は、そういう「繊細な感動作」を求めているからだ。

もちろん、私だって「繊細な感動作」が嫌いなわけではない。
しかし、「感動して」終わるような作品には、あまり興味がない。

その作品を読んで、それに感動できる自分が、作者とその「繊細な心優しさ」を共有できる人間だという「気分」を味い、それで終わってしまうようなものには、興味がない。
つまり、私は、今の「資本主義リアリズム」に順応したかたちでの「感動作」には、興味がないのだ。そんな「麻薬」のようなものを、嗜みたいとは思わないのである。

私が求める「感動作」あるいは「繊細な感動作」とは、それによって、この「現実世界」の欺瞞に目を開かせ、「このままで良いわけがない」と気づかせ、「変わることへの行動を促す」ようなものでなければ、それは、いかに「繊細な感動作」であろうとも、所詮は「感動消費」の対象商品にしかならない、と考えるからだ。

多くの読者は、そんな「感動作」を「定期的に消費」して、自分の中に溜まった「澱」のようなものを掻き出し、いっときは「浄化」されて、救われた気分になる。

しかし、そうした「浄化」によって多くの読者は、自分の中に残されていく「澱」の発生源が何なのかを、考えようとはしなくなってしまう。奴隷生活を忘れるために、定期的に「麻薬」を摂取する哀れな奴隷のように、多くの人たちは「いっときの現実逃避」に身を委ね、その後はまた「奴隷生活」に勤しむのである。

だが、それで良いのか? いや、そのことに気づかないままで良いのだろうか?

 ○ ○ ○

今回も、たまたま書店でみかけて「もしかすると、面白いかも」と思い、私は本書を、博打半分で購入した。

俵万智の寄せた推薦文が帯に刷られていて、そこには何やら「繊細な作品」だといった趣旨のことが書かれていたが、そんな「ありきたりの推薦文」などは気にすることなく、表紙に描かれていた、海辺の自動販売機でコーヒーかなんかを買った後、なぜか、ストーブと並んで岸壁に座り、海を見ている青年の姿がなかなかシュールで、これは「そっちの方」で、めったに読めないユニークな作品かもしれないぞと、そう期待したのである。

だが、結果からすれば、ストーブが喋り始めるとか、雪女と出会って友達になるとか、旦那が透明人間になってしまうとかいった、不思議な事件は起こるものの、描かれているのは「日常生活の中で見失っていたものに気づいて、それに涙する」みたいな「いい話」がほとんどであった。

全6話の短編集で、私が気に入ったのは二つ目の「雪子の夏」で、これはかなり「私好み」だったのだが、それ以外は、まあ「繊細で感じの良い作品ですね」という感じに止まり、あまり私向きの作品集ではなかったと言えるだろう。

こういう「繊細な感動作」というのは、日々の生活に追われていて、どこかで「救いを求めている」ような人の心には、急所を突くようなかたちで響くのだろう。あるいは、今風に言うと「突き刺さる」のだろうが、あいにくと私は、今の生活に、基本的には満足しており、おのずと生活に疲れているといったこともない。
そうではなく、その反対に、きわめて貪欲に生きているし、ある意味ではホリエモンよりも恵まれている人間(当然のことながら、金持ちだという意味ではない)なので、本作が、決して悪い作品ではないのはわかるけれども、私の求めているものではないから、とうてい「感動しました」といった、小学校の優等生みたいな感想は、書けないのである。

それでも「雪子の夏」は、とても好みに合う作品だった。
なぜかと考えてみると、これは他の収録作とは違い、「日常の中で見失っていたものに気づく」みたいな話ではなく、雪女として生まれたために、おのずと夏に縁がなく、またそのことに疑問を覚えたことのなかった雪子が、人間の女性と友達になり、彼女の友情に満ちた導きによって「夏の美しさ」に触れ、感動する、というお話だったからであろう。
つまり、これは「見失っていたものを再発見する」物語ではなく、「それまで知らなかった美しいものに接することの、喜びと感動」を描いた作品であり、その「積極性」が、私の好みに合致したのであろうと思う。

(収録作「雪子の夏」より)

逆に「日常生活の中で見失っていたものに気づいて、それに涙する」みたいな話に、私が冷めた感じになってしまうのは、そこに「自己憐憫的な自己陶酔」に臭いを嗅いでしまうからではないかと思う。
「この感じがわかる私は、繊細なのだ」というような、どこか鼻持ちならない臭いを嗅いでしまう。

そんなこと言っている人のうち一体どれだけが、実際にそこまで「繊細」であり、例えば、その繊細さのせいで、現に「今も目の前で苦しんでいる多くの人たち」のことに、心を痛めているだろうか? これは、かなり疑わしいと、私は思う。
自分のことで忙しくて、他人のことなんかにかまってなどいられないといった人たちが、こういう時だけ「私は繊細で、本質的に心優しい」みたいな「気分」に浸っているだけなんじゃないのと、つい意地悪なことを考えてしまう。

もっとも、私はここで、臆面もなく「感動しました」とか、当たり前なことを言って、自己アピールするような読者をこき下ろしているだけであって、作者のことを悪く言っているのではない。
作品からは、作者は「繊細な、いい人なんだろうな」ということが感じられるからである。やや線が細い、とはいうものの。

そんなわけで、俵万智の推薦文の全文は、次のとおりである。

「小蟹さんの澄んだ心の目。その眼差しを借りて私たちは、忘れそうなほど小さくて、でもとても大切な何かを見つめなおす。たしかに降ってきたけれど、とっておけない雪のように。」

はっきり言ってしまえば、この推薦文は、どこまでも「紋切り型」でしかなく、俵万智にしか書けないような、「心の声」が、どこからも、まったく響いてこない。
いまさら「この味がいいねと 万智が言ったから 十二月一日は 小蟹記念日」というわけには、いかなかった。一一同年生まれの私たちは、そんなに若くもなければ、ナイーブでもあり得ないからである。

つまり、この「推薦文」は、まずまずの「キャッチ・コピー」でしかない。
もっともらしいけれど、そこには「切実さ」がないのだ。手馴れた「仕事」として「製造された言葉」なのだ。

先日、俵万智と養老孟司の推薦文がついた『ルポ 誰が国語力を殺すのか』という本を、全否定的に批判したばかりで、そのレビューのタイトルを「養老孟司や俵万智といった〈国語力のない人〉が絶賛する本」と題したのだけれども、やはりあれは、間違いではなかったと、本作の「推薦文」によって確信できた。

要は、言葉があまりにも「軽い」のだ。始終書いている「推薦文」の一つという感じで、「頼まれ仕事をこなしただけ」なのではないかと感じられるほど、個人的な切実さに欠ける、推薦文なのである。

無論、全否定的に批判した『ルポ 誰が国語力を殺すのか』の著者である石井光太には、かけらも共感など持てなかったのに対し、このマンガの作者には「ナイーブで、良い人なんだな」といった好感を持てる。

だが、その両方に推薦文を書いてしまう俵万智には、薄っぺらな「若ぶった大御所ぶり」しか感じない。

もしも『ルポ 誰が国語力を殺すのか』を最後まで読んで、あの推薦文を書いたのなら、俵万智は致命的に凡庸な読解力しか持たない人でしかなく、こんな人に褒められて喜ぶのは、単なる「有名人好きの権威好き」でしかないのだとそう思うが、もしかすると、俵万智は、『ルポ 誰が国語力を殺すのか』を最後まで読まずに推薦文を書いたのではないか、それも十分にあり得ることだと、そう感じられさえしたのだ。

本書作者の「ナイーブな繊細さ」を感じることは、比較的容易だろう。
だが、俵万智の「紋切り型の推薦文」の『確かに降ってきたけれど、とっておけない雪のように。』といった「安手の恋愛小説」めいたメタファーに、あっさり納得するような人は、自分の「紋切り型の感性=無難に規格化された感性」を疑ったほうが良い。

「見失っていた大切なものを、再発見した」のを感動するのは容易だけれど、今この時「大切なことを見失っている」ことに気づける人は、ほとんどいないという事実が、そこにあるからだ。


(2022年12月5日)

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