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大石トロンボ 『新古書ファイター真吾』 : さらば、優しき日々よ

書評:大石トロンボ『新古書ファイター真吾』(皓星社

友人がショートメールで、古本ネタのマンガ(画像)を送ってきた。2ページものである。
エッセイ漫画というやつだろう。古本を買いすぎて、床が抜けるんじゃないかと恐れている男の話で、典型的な「蔵書家あるある」ネタである。

(※ リンク画像のマンガは、左ページから読んでください)

私は「また、こんなもん、送ってきやがって」と思った。

どうしてそう思ったのかというと、その千葉在住の友人は、もう30年も前に一度だけ大阪の拙宅を訪れたことがあって、その際、嫌がるこちらにお構いなく、うちの蔵書保管状況を見て帰っていったのだが、それ以来ずっと、ことあるごとにメールなどで「本を処分してくださいよ。床が抜けますよ」というようなことを言ってきていたからだ。
そんなこと、誰に言われるまでもなく、当事者である私自身がいちばん気にしているに決まっておろう。

したがって、そんなわかりきったことを、何度もくり返して言ってくるというのは、親切心でもなんでもなく、ほとんど嫌がらせ目的の、イジリ以外の何ものでもない。

当時はまだ、昨年亡くした母も元気だったので、私の蔵書は、すべて2階の部屋に分散して保管していた。
2階には3室あって、北側から、当時私の寝室として使用していた6畳の和室、続いて8畳の和室、さらに6畳ほどの洋間で、私の書斎となっていた。この中央の8畳和室と書斎の2部屋が、ほとんど本に埋もれていたのだ。

中央の8畳の部屋は、東西両面の壁ぞいに、本をいっぱいに詰めた段ボール箱(ゆうパックの大箱)が、背丈ほどにも積まれており、その上には、比較的軽いもの(未作成プラモデルの箱など)が、天井との隙間を埋めるように突っ込まれていた。またその手前には、平積みで前後3層ほどの未読本が、山脈をなして胸の高さくらいまで積まれていた。
なぜ東西の壁際なのかというと、北側は寝室につながり、南側は階段へと繋がっているため、そこには積みようがないからだ。つまり、この部屋は、中央部の人ひとりが通れるだけの幅が通路として残されているだけで、それ以外は、ほぼすべてが本で埋め尽くされていたと言っていい。この部屋を見て「床が抜ける」恐れありと、そう内心でほくそ笑みながら、友人は「チェックを済ませた」というわけである。

「本の重みで2階の床が抜けた!という話:探偵ナイトスクープ」より)

ちなみに、書斎もほぼ同様で、この部屋にはもともと、西面に引き戸のついた造り付けの本棚と押入れがあったが、そんなものはすぐに埋まり、奥行きにおいて押入れより一段下がった本棚の前にも、本詰めの段ボール箱がほとんど天井近くまで積まれている。そのため、すでにかれこれ20年くらいは、私もこの本棚を見ていない。
また他に本棚が2本あったがそれも埋まり、その周囲や手前にも本が平積みにされた結果、この文章を書いているパソコンの置かれた机と、出入り口の動線以外は、本に埋もれている状態である。
寝室の方は、阪神・淡路大震災の経験から、本を置かないようにしていたが、それも、崩れた場合に、寝ている私にのしかかってこない程度の高さまで、ということであった。
つまり、2階の空間の半分ほどは本によって占拠されていたのである。

だが、注意深い方はお気付きだろうが、本はすべて壁際に積まれていたから、その意味では、床が抜けないように配慮されていた。
また、そもそも1989年に木造の家を建て替えた際、私は大工さんに、書斎については「とにかく、やたらと本などの重いものを置くので、しっかり作っておいてくれ」とは言っておいたし、大工さんも「大丈夫ですよ」と請け負ってくれた。無論、大工さんに、その後も増え続けた本の量を想像することなどできなかっただろうし、他の部屋までは考慮の外だったのだが…。
ともあれ、そんな状態だったので、さすがの私自身も、2階で保管する本の量を気にはしていたのだ。

本というのは、買うのは楽しいが、売るのは面倒だ。それに面倒な思いをして処分しても、二束三文にしかならないから、そんなことをしている暇があったら、未読本の1冊でも読みたいというのが、読書家の人情である。
だから、私はその友人に「退職したら処分するよ。本を持っては死ねないからね」と言っていたし、これは本気だった。退職して時間が有り余れば、その時間を本の整理に当てようと思っていたのである。

ところが、その当てが外れてしまった。
よく、退職した男性は、やることがなくなって、それでボケたり弱って死んだりするとかいうが、私の場合は、いっこうに暇にはならなかった。やりたいことがいくらでもあって、まったく暇になどならなかったのである。
そしてその事実は、私のレビューの更新頻度を見てもらえばおわかりいただけるはずだ。
とにかく、退職してからは、仕事に取られていた時間のすべてを、読書と映画鑑賞とレビューの執筆に充てているため、ぜんぜん「暇」などというものは生まれなかったのである。なにしろ、未読本だけでも、毎日2冊読んでも、死ぬまでに読みきらない冊数を、もう20年以上前には所蔵しており、それが今もなお増えているのだから…。

私はレビューを書くために、本を読みながら付箋をつけている。だから、読み終わった本を「BOOKOFF」などに売るにしても、付箋くらいははずして売らないと、いかにも「線引き本」扱いにされそうだから、それくらいははずして売ろうと考えた。しかし、1冊読むたびに、すぐはずすというのも面倒なので、いくらかたまったら、その時にまとめて付箋をはずし、段ボール箱に詰めて「BOOKOFF」に引き取りに来させようと思っていた。

ところが、そんな本もたまってくると、付箋はずしの作業自体が面倒になる。そんなルーチンワークに時間を取られるくらいなら「未読本を読もう」ということになって、いらない既読本までもがたまっていくのだ。
そして、こうなってくると「もう、処分のことなんて、どうでもいいか」という気分になってしまったのである。

また、昔は、母が1階で寝起きしていて、家常茶飯は1階でしていたのだが、3年ほど前に母が介護施設に入所してからは、私は2階ではなく、母が寝起きしていた1階の8畳和室の居間に布団を敷き、寝室とするようになった。そのころはまだ、母のいなくなったその居間に本を積むことはしなかったが、昨年とうとう母が亡くなってからは、私一人の家になったので、その居間にも本を平積みするようになり、もはや人様をお招きできないような魔窟的惨状をていするようになってしまった。

で、話を戻すと、前述のとおりでその友人は、初めて拙宅を訪れて以来「本を減らしてください。床が抜けますよ」と言い続けていたわけだが、その当初は2階中央の8畳和室の下が、母の寝ていた(今は私が寝ている)1階の8畳居間だったので「万が一にも床が抜けたら、母を圧死させることになって、それはさすがに寝ざめが悪いから、気をつけるよ」というほどの言い訳をしていたのだが、その母が介護施設に入ってからは、もはやその気遣いもなくなっていた。
したがって、友人から折に触れて繰り返される言葉も、ただ単に面倒なと思い、近年はずっと無視を決め込んでいたから、流石に最近は「本を減らせ、床が抜ける」というようなことは言ってこなくなった。
それに、最近買っている本は「コレクション」ではなく、「読むための本」なので、2階で保管することはなく、1階に積むことになったからでもある。基本的には、もう床が抜ける心配は無くなったのだ。

そしてそんなおり、またその友人は、最初に紹介したようなマンガを、わざわざ送りつけてきた。
もはや「本を減らせ」という趣旨のものではなく、「あなたと似たような人がいますね」という揶揄に近い意図のものであろう。この友人は、結婚してから蔵書をほとんど処分したので、それ以来、余計にうるさくなっていたのだが、こっちは独身なので、大きなお世話である。

それにこの友人は、本を溜め込むことはやめはしたものの、もともとが本好きで、友人にも本好き、古本好き、蔵書家が多いものだから、暇にあかせて、古本屋や古書市を冷やかすことを止めていない。私の方は、退職以来、いっさい古本屋には行かずに、読み専になったのとは大違いである。
昔は、新刊書店で手に入らない本や初版本などを探すために古本屋めぐりをしたし、それを楽しんだものだが、今は、ネットで欲しい本がたいがいは手に入るし、だからと言って、特に高いというわけではないので、残された時間を考えれば、古本屋めぐりの楽しみよりも、本筋である読書の方を優先することにした。ほとんど『エースをねらえ!』の宗像コーチの心境である(時間を無駄にするな!)。

出崎統監督・劇場版『エースをねらえ!』より)

また、この友人は、古本屋や古書市に行く際には、律儀に「これから古書市に行ってきます。あなた好みの本があったらお知らせします」などというメールを送ってくる。
うるさく「本を減らせ」というわりには、頼んでもいないのに、本を買わせようとするのだから困ったものである。知らなければ買わないものを、知ってしまえば欲しくなるではないか。

そんな私に、友人から、また同じマンガ家に2ページものの漫画が送られてきた。
今度は、今は亡き父親の、すでに処分されてしまった蔵書を懐かしむ、高校生くらいの娘の話なのだが、その父の思い出の蔵書というのが「新本格ミステリ」なのである。

(「新本格最凶のカード」清涼院流水による『カーニバル・イブ』)

友人は、かつて私が「新本格ミステリ」に深くコミットしていたことは知っているから、このマンガを送ってきたのだろう。

一方、その友人自身は、「新本格ミステリ」が盛り上がっていた当時から、「新本格ミステリなんて」という感じだった。
彼は、私よりいくつか年下なのだが、逆にミステリ歴は古く、生意気にも中学生くらいの時に探偵小説専門誌『幻影城』などを読んでいたクチなので、新本格の「学生さんミステリ」を「幼稚」だと感じていたのである。
だから、むしろ当時の私は「新本格ミステリ」を擁護して「小説としては拙いかもしれないけど、ワントリックものとしては、それなりに楽しめるよ」とか「京極夏彦って新人はすごい。これは絶対に読むべきだ」などといって薦め、彼から「いやー、私はいいですよ」などと言われていたのだ。
だからこの2本目のマンガ(画像)も、「あなたと同じような人だよ」という揶揄を込めて送ってきたものなのである。

で、その面白くないわけではない「古本あるある漫画」について、私が薄い反応を返すと、友人は、これでもかとばかりに、そのマンガ家の「note」へのリンクを送ってきた。

そうか、この人も「note」をやっているのかと覗いてみると、友人が送ってきたマンガは、そこから頂戴したものらしい。
さらに友人は「本にもなっているようですよ」と、Amazonの当該ページへのリンクまで知らせてきた。

私の場合、パソコンやスマホでマンガを読むのは慣れておらず、いくら無料でも気が進まなかったので、いっそ本の方を買ってみようと思い、ブックオフオンラインで検索してみると、すでに古本が入荷されていた。それで、本書を購読したという次第である。

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さて、本書『新古書ファイター真吾』である。

本作は、タイトルに「新古書」とあるとおりで、正確には「古本屋」マンガではなく、「新古書店」を舞台にした、「新古書店」マンガであり、ほとんど実話に近い、いわゆるエッセイ漫画である。
舞台のモデルとなっているのは、新古書店の最大手「BOOKOFF」で、作中では「BOOK-EF」と表記されているが、一見してそれとわかる、かたちだけの変名。むしろ本作は「BOOKOFFへのオマージュ漫画」と呼んでも差し支えないような、じつにマニアックな作品なのだ。

本作は、著者が10代の頃から足しげく巡った「BOOKOFF」の思い出を漫画化したものであり、私も、ひと昔前まではよく通っていたから、素直に共感できる「困った」作品である。

著者の「大石トロンボ」は、私より16歳年下だし、静岡在住だったということで、「BOOKOFF」で彼とすれ違ったことは、多分ないだろう。
私の場合、30年ほど前には、本好きの友人たちと、車を使って日帰りで行ける他府県の古本屋まで足を延ばした時期もあったから、その頃には、一度か二度は静岡へも行ったはずだが、年の差もあって、すれ違った可能性は極めて低い。

また、本書著者は、若くして「好きなマンガを安く買うために」ブックオフ通いを始めたのだが、私の場合はすでに社会人であり、それなりに金もあったから、どちらかというと稀覯本であったり、すでに所蔵していても、見れば何冊でも欲しくなる編愛本を買うというのが主たる目的だったから、「古本屋」がメインで、「新古書店」は「ついで」。だから、本書著者と目的が被ることもなかっただろう。
また、私の場合は、同時代で「新本格ミステリ」を読んだわけだが、本書著者は、そのブームが一段落してから、古本で「新本格ミステリ」を発見したということのようである。

そんなわけで、多少のジェネレーションギャップと守備範囲の違いはあっても、基本的には「バカだなあ」と共感できてしまう、私には「懐かしい」一書である。

古本屋めぐりをしている余裕は、私にはもうない。一一こう言うと、「そんなことを言わずに、たまにはのんびりと散歩がてらに、古本屋を冷やかせばいいじゃないか」と言われそうだが、私は「読書」でも「古本屋めぐり」でも、のんびりとやったことはないのだ。
常に、明確な目的を持って、それを達成するために、ここを見終われば次へという具合に、つねに走っていなければ気のすまないセッカチだから、ネットで目的を果たせてしまう今、のんびりと「古本屋めぐり」をする時間など無くなってしまったのである。

(愛媛県・元浮雲書店)

しかし、そんな、かつての「不便」な時代であっても、その時代なりの良さがあったというのは、確かだ。
もちろん、読みたい本、欲しい本が、簡単かつお安く手に入る現在は、とてもありがたいとは思うのだが、手に入らないものだからこそ、見せてくれる夢があったというのも、事実である。

今の私は、そうした夢を「まだ見ぬ探究書」には求めなくなった。時代に応じて、夢のかたちが変わったのだから、それはそれでいいと思う。
だが、たいがいのことでは「過去」には興味のない私も、友人たちと古本屋めぐりをしたあの頃が「懐かしい」という感情は禁じ得ない。まったく困ったことである。

ともあれ本書は、否応なく読者を選んでしまう、そんな「困った」本だ。
わざわざお薦めなどしなくても、読みたい人は読むし、それ以外の人には、縁もゆかりもない本だと言えるだろう。それでいっこうにかまわない、そんな本なのである。


(2023年11月11日)

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