見出し画像

小谷野敦の読者は、レベルが低い。

身もふたもないタイトルだが、まったくの本音である。

小谷野敦の場合、その「人間性の低劣さ」もさることながら、それをそのまま反映した「著作のレベルの低さ」についても、私はすでに、いくつかのレビューや記事に書いており、そうした「小谷野敦評価」の帰結として、おのずと「小谷野敦のファン的読者は、知的レベルが低い」ということにもなった。

わざわざ公言はしなくても、小谷野敦を評価していない(見下している)文筆家など、山ほどいるというのは、想像に難くはない事実であろう。

ただ、小谷野が、自身でも自慢げに認めているとおりの「訴訟マニア」なので、相手にすると「面倒くさい」と考える人が多く、その結果として、小谷野は「野放し」にされているだけ、なのであろう。

したがって、そんなことにも気づけない、小谷野敦のファン的読者の「知的・読解力的なレベルが低い」というのも、理の当然でしかない。要は、読書能力的には「文盲」同然だということである。

しかしながら昨今、作家そのものを批判することなら稀にあっても、その読者まで否定的に評価するというのは、職業作家にはなかなかしにくいことだろう。
本音では「小谷野の本なんかを、喜んで読んでいるやつは、小谷野と、人間的にも知的にも同レベルの似た者同士に決まっている」と、そう思ってはいても、読者まで責めても何のメリットはないし、かえって「悪目立ち」することにしかならないから、職業作家が「つまらない作家のつまらない読者」を貶すことなど、思ってはいても、実行はしないのだ(戦後も60年代くらいまでなら、読者批判もあっただろうが)。

だが、私はちがう。読者の知的レベルに関係なく「自分の本を買ってくれる人は、みなさん神様です」なんて、心にもないことを言わなければならない立場ではないので、作家を評価するのと同じように、読者の方だって自由に評価できる。つまり、「お客様をヨイショする」必要はなく、「この作家の読者は、読者としてレベルが低い」と忌憚なく、正直に客観評価することができるのだ。

実際、私はしばしば「ラノベしか読んでいないのに、いっぱしの読書家ヅラをしている人」といった表現もする。「そんな人は、読書家の名に値しない、井の中の蛙だ」ということだ。

無論、「ラノベ」がいけないというのではない。「娯楽小説」がいけないというのではない。
そういうものにはそういうものの存在価値があるのだから、そういうものは、むしろなくては困る、価値のあるものなのだ。
また、読者の「年齢」の問題もあるだろう。つまり、若ければ「娯楽作品」から読書の道に入るのはごく自然なことで、それは、幼児が「絵本」を読むことを否定しないのと同じことだ。

しかし、問題は「いい歳をして、そればっかり読んで満足している人」である。つまり、問題は「向上心もなければ、その自覚もない読者」だ。

「ラノベ」や「マンガ」などの「娯楽作品」を読むこと自体は大いに結構なのだが、いつまでも、その範囲でしか生きていない「世間が狭く、しかもその自覚のない人」。
そんな、無知な「井の中の蛙」だからこそ、自分の視野の内にある「娯楽作品」ばかり読んでいて、それで臆面もなく「読書家」を名乗れたりする。要は、救いようのないバカ(頭が悪い)であり、日本の「民度」を下げている人たちだということである(当然、日本の活字文化のレベルも下げている)。

で、「小谷野敦の本」を「面白い」と思って、継続的に読んでいる「ファン的な読者」というのも、まさにこれなのだ。
世間には、他に「面白い本」も「より優れた本」も山ほどあるのに、小谷野の同じような本ばかりを、わざわざ読んでいるのだから、それは、ほとんどマスターベーション的なものでしかないと言ってもいいだろう。わかるものしか読めない人たちなのだ。

小谷野の本というのは、基本的には「負け犬の憎まれ口」でしかない。

自分が「もてない男」だからこそ、殊更にそれを強調し、それを売りにして「同類の読者」を集める。

画像1

自分が「実験小説や前衛小説の試みの面白さを理解する能力がない」から、自分もわかる(し、読めば一応、誰でも意味の取れる)リアリズム小説私小説を誉めあげて、同じように「能力の低い読者」の共感と支持を集める。

画像2

自分が「哲学」的な著作を理解できないから『哲学嫌い ポストモダンのインチキ』なんて本を書いて、同じく「能力の低い読者」の共感と支持を集める。

画像3

自分が「宗教」に興味がなく無知であるというだけで、そんな自身の現状を正当化するために『宗教に関心がなければいけないのか』なんて本を書いて、「宗教に無知な読者」の共感と支持を集める。

画像4

こんな具合だ。

小谷野敦ごときに、「哲学」や「宗教」についての深い理解など期待していないから、誰も強制などしているわけではないのに、自分の周囲で、そういった「高尚そうなこと」を、わかっているかのように語っている人がいると、なにかと劣等感の塊である「(知的にも)もてない男」のひがみで、「そんなもののどこが、素晴らしいというんだ」と、なんの理解もないまま、ただケチをつけることで、また「同類」の共感と支持を集める、といった具合だ。

貶すのなら貶すで、それなりに勉強した上で、根拠を示して「批判」すればいいのだが、小谷野の場合は「そんなものに価値はない」と無根拠に断じるのだから、そもそも、ろくに読みもしないで「貶す」だけ。つまり、小谷野の場合は、「批判」ではなく、「悪口」や「憎まれ口」や「誹謗中傷」の類いでしかないのだ。

だが、そうすることで小谷野は、自分と同じように、「敵を知り己を知った上で、正々堂々と批判する」ことの「できない」、能力もなければ性根も腐っている「同類の読者」を集めて、商売にしている。
それが、小谷野敦という文筆家なのだ。

 ○ ○ ○

で、小谷野敦は「けっしてそんな、ひどい人間ではない」とか「けっしてそんな、ひどい文筆家ではない」とおっしゃる「小谷野敦ファン」がいらっしゃるのであれば、是非とも名乗り出て、小谷野を擁護していただきたい。

まずは、この記事のコメント欄に、ご自分の「捨てアカウント以外のアカウント」で、お書き込みいただきたい。

ご自身が「小谷野敦ファン」を名乗って「恥ずかしくない」という方は、ファンとして、好きな小谷野をぜひ擁護していただきたい。
擁護するだけの能力を持った「小谷野ファン」がいるのならば、ファンとして、それをするのは当然のことではないだろうか?

もちろん、私は、この「小谷野敦ファン」を、「一般読者」に限っているわけではない。

つまり、「プロの物書き」の方で、恥ずることなく堂々と、自分は「小谷野を高く評価している」とか「擁護できる」という方は、ぜひ名乗り出て、現に「擁護」して見せて欲しい。本気で、小谷野を評価しているのなら、出来ない相談ではないはずである。

で、私が、なんでこんなことを書くのかというと、本年(2022年)10月2日に58歳の若さで亡くなった小説家・津原泰水に対する、小谷野の、死者に鞭打つ「誹謗中傷」をきっかけに、私は先日から、以前に接触のあった小谷野敦を、公然と批判しているのだが、これに対し、ご当人は、うんともすんとも言ってこないからだ。
星新一ではないが「おーい、出てこい!」とばかりに、「小谷野敦関係のタグ」をいっぱい付けて、検索に引っかかりやすくして、にぎやかに呼びかけているにもかかわらず、だ。

「小谷野先生」が私に対し「だんまりを決め込んでいる」のは、私が「無名のアマチュア」だから、ということではないはずだ。
なぜなら、もともとは、曲がりなりにも、小谷野の方から私に接触してきたのだから、私が「無名のアマチュア」だから「相手にしない」ということでは、ありえない。

むしろ、小谷野が私を相手にしないのは、私が「悪名高いアマチュア(論争家)」であり、小谷野の100倍も頭のいい小説家で評論家の笠井潔を批判して「笠井潔葬送派」名乗り、数十年間にわたって笠井を批判し続けてきた「危険人物」だからで、要は、小谷野は、私が「怖い」のである。

実際、小谷野は、私の掲示板「アレクセイの花園」2022年8月1日に閉鎖)でのやり取りの中で、私が小谷野の言い分を理解できないのは「純文学をあまり読んでいないからだろう」と「純文学の専門家」ぶって見せたのだが、私が「どうしてそんなことがわかるのですか」と、その根拠を問いただすと、

『いえ、私はあなたの掲示板を15年さかのぼって見たのです(※ しかし、そこには純文学への言及やレビューが少なかったからで、無根拠に決めつけたわけではない)。(※ ともあれ)一度著書に書いたことをウェブで繰り返していたのではきりがないので、著書を読んでくれと言っているのです。』(2020年9月12日)

『あなたの理屈でいくと、私に仮に一冊分の、文芸作品の評価についての考えを書いた著作があるとしたら、レビューを書くごとにその一冊分をそのあとにくっつけなければならないということになります。かなりバカげた考え方です。』(同上)

と「言い訳」をしたので、私は、

『私の掲示板を『15年さかのぼって見』て下さったとは、感謝にたえません。

しかしながら、見てのとおり、私は長文家なので、まさか、15年分を読まれてはいませんよね。
読んだら、掛かり切りになっても、1週間やそこらではとうてい無理でしょうから、たぶん、すごい早さでスクロールなさっただけではないかと、そう論理的に拝察いたします。

しかし、読んでいただければわかるはずなのですが、私は「Amazonレビュー」を書きはじめるまでは、ほとんど「書評」や「レビュー」のたぐいは書いておりません。と言うのも、ここ「アレクセイの花園」の目的は「対話」であって、一方的な宣伝や独り言、日記のたぐいではないからでございます。

しかしまた、そういう方針だったからこそ、書き込みの停滞した時期がけっこう長くございました。
そこで近年は、「キリスト教批判」と暇つぶしを兼ねて「Amazonレビュー」を書くことになり、どうせなら一人でも多くの人に読んでいただきたいと、こちら(アレクセイの花園)に転載することにしたのでございます。
また、それでも私が、自家宣伝にあまり積極的ではないというのは、twitterで紹介するAmazonレビューは、書いたもののごく一部だという事実からも、ご理解いただけようかと存じます。(※ その後、Twitterアカウントは永久凍結)

したがいまして、やはり、私が「アレクセイの花園」に書評やレビューを書いていないからとか、読んだ本の紹介をしていないから、純文学などを「読んでいないだろう」と推測するのは、あまりにも早計だと申せましょう。
私はもともと、読んだ本をすべて公開するような趣味はないのでございますよ。特に、Amazonレビューを書きはじめる以前は。

そんなわけで、「アレクセイの花園」を15年分チェックしたから、私が「純文学に興味がない」だろうとした、小谷野さまのご推察には、やはり妥当性がないと存じます。

あなたの理屈でいくと、私に仮に一冊分の、文芸作品の評価についての考えを書いた著作があるとしたら、レビューを書くごとにその一冊分をそのあとにくっつけなければならないということになります。かなりバカげた考え方です。

このご意見も、非論理的でございます。
と申しますのも、私は前回の「小谷野敦さまへ(第8信)」で、

したがって、今回の場合で申しますと、「あれに書いてあるから読んでくれ」ではなく、簡単でもいいから、最低限、その説明内容の伝わるように、ここで具体的かつ誠実に説明努力をすべきなのでございます。

と、明記しております。
つまり『レビューを書くごとにその一冊分をそのあとにくっつけなければならない』などとは申しておりませんし、それは小谷野さまの恣意的な「拡大解釈」でしかないと申せましょう。

論理的に反論するためには、相手の意見をちゃんと読むことが、是非とも必要なのでございます。』(2020年9月12日)

と、「論理的な皮肉」を返されて、ぐうの音も出なかったのだ。

このあたりの詳しいやり取りは、すでに、下の記事、

にまとめて、全ログ公開してあるので、前後のやり取りも含めて、ご確認いただきたいところだが、要は、小谷野は、私に、このようにしていじめ倒され、私の掲示板では反論もできずに黙ったかと思うと、Twitterの方で、こっそりと私の悪口を書いていたという、じつにくだらない人間なのだ。それが、次のツイートである。

「俺はお前の本を読む気はないから今ここで俺に説明しろ」ってすごい態度だな。

まあ今どき掲示板なんてもん使っている点で変な人ではあったが

これは、私と小谷野とのやり取りを読んでいない、ろくに事情を知らないTwitterフォロワー向けのツイートである。

要は、小谷野敦という男は、こんな「姑息なゲス男」なのだ。
そして、こんなことは、小谷野の著作を何冊か読めば、おおよそわかることだし、私は1冊読んだだけでわかった程度のことなのだが、「小谷野敦ファン」というのは、そういうのが全然わからない人たちなのだろうから、「レベルが低い」と言うのだ。

ただし、私は、小谷野みたいに「陰口で一方的に決めつける」ような、下衆なことはしたくないので、本人が反論しないのなら、「ファン」や「支持者」(がいるのなら、そ)の意見を聞きたいと言っているのである。

小谷野敦および、そのファンの頭や感性や読解力では理解できなくても、この世界には素晴らしい文物が山ほどある。

しかし、それを楽しむためには、相応の「能力」が必要だし、その「能力」を持つためには、時に、自己を高めるための「努力」も必要だろう。これは、当たり前の話だ。

しかし、小谷野がそうであるように、小谷野敦ファンの多くは「自分がわからない本は、本の方が悪い。その本の書き手が悪いのだ」といったような、自身を顧みる能力に欠けた、「子供脳」の持ち主なのではないだろうか。

だからこそ、同類である小谷野敦の本を読んでは「慰められて」いるばかりで、いつまでたっても進歩成長がなく、バカのまま、なのではないか。

こうした、私の「小谷野敦とそのファン読者」評価が、間違っているというのであれば、ぜひ、その当事者が名乗り出て、ご自分の見解をお聞かせ願いたい。

私は、小谷野のように「自己正当化だけの引きこもり人間」ではないから、反論には耳を傾け、その上で、必要があれば再反論もしよう。

実際のところ、「小谷野敦はすばらしい」というような奇矯な立論は、凡人のよく為し得るところではないだろうから、読めるものなら是非読ませてもらいたいし、やっぱり、そんなことは誰にもできるわけないということになれば、本稿のタイトルである、

小谷野敦の読者は、レベルが低い。

は、根拠あるテーゼとして、より説得力を増すのである。

来たれ、小谷野敦ファン! もちろん、ご本人でも大歓迎である(笑)。

(2022年10月28日)


 ○ ○ ○






 ○ ○ ○




 ○ ○ ○






 ○ ○ ○



 ○ ○ ○














 ○ ○ ○






 ○ ○ ○


 ○ ○ ○
(以下は、各文芸ジャンルの入口とした。それぞれの下部に関連リンクあり)

【SF方面入口】

【ミステリ方面入口】

【文芸ポピュリズム等入口】