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永尾俊彦 『ルポ 大阪の教育改革とは何だったのか』 : 〈未熟者〉の政治とその教育思想 : 維新の会で沈む大阪

書評:永尾俊彦『ルポ 大阪の教育改革とは何だったのか』(岩波ブックレット)

今でこそ政治家を辞め、テレビコメンテーターとして、結構リベラルな発言も口にしている橋下徹だが、本書で、彼の昔の発言を読むと「ああ、こんなこと言ってたな。本当にこいつは、利口ぶった、ハッタリがましい若造だったんだな」と、再確認させられた。(昔、よく似たタイプとして、上祐史浩という男がいた)

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『 (※ 大阪府下の公立学校式典での、国旗掲揚・国歌斉唱において)不起立で二回の戒告処分を受けた府立高校教諭の増田俊道さん(一九六一年生まれ)は、「校長と教職員が最も対立していたのが『日の丸・君が代』問題だったので、そこを黙らせれば流れが変わると(※ 橋下徹)知事は思ったんでしょう。『日の丸・君が代』が切り札だったんです」と話す。
 知事は、「バカ教員の思想良心の自由よりも、子どもたちへの祝福が重要だろ! だいたい、公立学校の教員は、日本国の公務員。税金で飯を食べさせてもらっている。国旗、国歌が嫌なら、日本の公務員を辞めろって言うんだ。君が代を起立して歌わない自由はある。それは公務員以外の国民だ」などと罵倒、不起立不斉唱の教員を「敵」に仕立てあげた。』(P23)

『 府教委は「君が代」について、二〇二〇年以降、不起立者はいないのに、コロナ禍でも「吉成長」などの職務命令を出し続けている。橋下知事は子どもの教育についても、「教育とは二万パーセント強制」と言ってはばからない。』(P24)

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橋下のこうした発言を「小気味よい正論」だと思った、「頭の悪い」大阪府民は多かったはずだ。
だが、こうした言葉の「穴」を論って反論することなど、物を考える習慣のある人間にとっては造作もないことなので、ここでは、子供に物を教えるような解説は、辞めておこう。
(いつでも相手になってやるが、以前、橋下が「軍隊に性欲処理係は、当然必要だ」と発言した際に、ツイッターで橋下に「貴方も若い頃は、風俗店に行ったんでしょうね(笑)」とメンションを送ってやったが、当然のことながらダンマリだった)

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それでも、きっと、この橋下発言の「穴」がわからない人は大勢いるだろうから、わからなければ、少しは自分の頭を使ってみてほしい。人間は、自然に賢くなどならないからだ。

ともあれ、今の橋下徹ならば、自身のこうした「過去の発言」を、きっと「恥ずかしい」と思うだろう。今なら「若気の至りだった」と、そう認識しうる程度には「大人」になったろうと私も見ている。

だが、その「若気のいたり」を正直に認めて、「迷惑をかけたり実害を与えた、多くの人」たちに向かって謝罪できないのだとしたら、彼は「大人」にはなったけれど、「小狡い大人」になったのだ、という、そんな自覚くらいは持ってほしいもの。それがなければ、彼は少しも「賢くはなっていない」と言えるのである。

そして、問題は、いま現在、「維新の会」の代表で大阪市長の松井一郎と、副代表で大阪府知事である吉村洋文が、「昔の橋下徹」と同レベルで「人間として未熟」であり、その意味で「あまり頭も良くない」という点である。

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松井一郎にしろ吉村洋文にしろ、彼らは、人として「未熟者」であり、だからこそ傲慢なのだ。

たしかに彼らには、人に秀でた部分がある。
松井の場合なら「押しの強さ」であり、吉村の場合だと、いかにも学歴エリートらしい「演算能力や情報処理能力の高さ」である。

一一だが、これらは、人としての「人格・人間性」、その「成熟」などとは、まったく無関係な「機能的属性」にすぎない。
簡単に言えば、犯罪者にも「押しの強さ」が自慢の人間は大勢いるし、同様に、知能犯というのはたいがい「演算能力や情報処理能力」が高いものである。

しかし、この二人の「売り」は、こうした部分にしかないからこそ、社会を動かす「政治家」としては問題がある。
基本的に「頭が悪い」ため、自身の欠点が見えず、単純に自分が「有能」だと思っているから、誤った独断専行を平気で行って、周囲に迷惑をかけてしまうのだ。彼らは「頭が悪い」から、「慎重になる」とか「バランスをとる」ということをしない。自分の考えは正しく、それに反対する者は間違っていると、単純明快に確信して、自らの限界を考慮に入れないのだ。また、それでいて「人としての尊厳にもとづく恥」を知らないから、有力者には平気で「媚び」を売って恥じないのである。

そして、こうした「頭の悪い」「視野の狭い」「独善的」で「功利主義的」な「恥知らず」の人間が、教育行政を司れば、同じような人間を育てようとするのは、理の当然である。

だから、大阪府の「大人の教育」は、傍若無人な「未熟者の狂信」によって破壊されてきた。

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かく言う私も、自ら「傍若無人」であると認める人間だが、その自覚があるだけ、松井一郎や吉村洋文よりはマシだし、その自覚があるからこそ、自らは「権力」を欲せず、言論に徹している。もし仮に、私が強大な権力を手にしたならば、ヒトラーも斯くやといったことをやりかねないと、自分でわかっているからだ。

言い換えれば、松井や吉村程度の「小者」だからこそ、権力を取っても、あの程度で済んでいる、と言えるかもしれない。本当に、ラディカルな人間が、その力を与えられて、世の中を変えようとしたら、「雨合羽」とか「イソジン」とか「賭博場利権」などという、ケチな話では、とうてい済ませないからである。

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ともあれ、大阪の教育は、こうした「頭の悪い」人たちによって、目先の利益のために、改悪されている。
「頭が悪い」というのは「罪」であり、その「自覚がない」というのは、さらに重い、致命的な「罪」であった。そんな人たちが権力を握って、まともなことなど、できる道理がない。

だが、選挙民の方も、同程度に「頭が悪い」からこそ、彼らの「頭の悪さ」がわからないし、理の当然として、この問題は簡単に解決できず、本質的には「府民が賢くならないかぎり、解決はない」ということになる。一一だからこそ、教育の問題は、まったくもって重要なのである。

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人間、「大人の知恵」が付けば、目先のテストの点で「教育」効果を計ることが、いかに幼稚で愚かなことかくらいはわかる。

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たしかに、テストで良い点を取って、一流大学に行き、優良企業に就職して給料をたんともらえるなら、それに越したことはない。だが、それがすべてだと、いつまでも思っていられる人間とは、「成熟」を知らない「知的発育停滞者」である。

人間、歳をとれば、それ相応に、若い頃には見えなかったものが見えてくるのが当然で、そうすれば「テストの点がすべて」といったような「単細胞な現実理解」ではなくなる。
金銭的に裕福になることも、それは必要なことではあるけれども、それが全てではないし、それだけで幸せになどなれるわけもない、といったくらいの「視野の広がり」を持つようには、なって然るべきだし、普通はなるものなのだ。

しかし、それまでの「社会的成功のための半生」を肯定したいがために、あえて後半生での「成長」を拒絶する人がいる。
それは、なまじ「社会的な成功」を収め、それでいて「幸せではない」人だからであり、例を挙げれば、松井一郎や吉村洋文のような人だと言えるだろう。

彼らは、笑っていても、その笑いは空疎に麻痺的で、およそ幸せそうには見えない。なぜなら、彼らは「勝ち誇らんがために、これ見よがしに笑う」というのが常態となっており、時に威嚇のための仮面にすらなっているからなのだ。

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彼らは「社会的成功」を手にしているから「自分は正しかった」と思いたい。自己肯定したい。だから「変われない」し、何も「捨てられない」。
しかし、そうした硬直性こそが、実のところ「内心では満足していない」証拠なのだ。

「こんなはずではなかったのに」という気持ちがあるからこそ、現在の「成功」に固執して、自分が「勝者」であり「幸せ」なんだと、外向きに誇示せずにはいられない。
余裕が無いから、人の意見に耳を傾けることができず、ちょっと批判されると、すぐに感情的になっていきり立つ。彼らは、いかにもわかりやすい、「未熟」な人間でしかないのである。

このようなわけで、「教育」とは、彼らが考えるような「テストの結果」で計るべきものではない。
点数も、無いよりはあった方が良いけれども、それが「教育」だなどと考えるのは、いかにも「視野が狭く」「幼稚」だとしか言えないだろう。
「教育とは、全人的なものである」というのは、決して「きれいごと」でもなければ、単なる「理想」論でもない。「教育」とは、それくらい「幅広い目配りを必要とする」一大事業だという、現実の話なのだ。

だから、かつての教師たちが語っていた「人間教育」とは、維新の会の「賢い」先生方が考えるような、単なる「きれいごと」や「絵空事」などではない。それは「目指すべき理想」なのだ。
そして、そうした理想によって「知情意を兼ね備えた、円満具足の人間」を大量生産できないとしても、だからといって、それが抽象的な観念やイデオロギーだと思うのは、物事を深く広く考える習慣のない人間の、拙速な誤認でしかない。

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しかし、事実としてその程度の認識しかないからこそ、「維新の会」による偏頗な教育は、子供たちに偏頗な成長しか促し得ず、否応なく偏頗な人間しか育てられない(他者への配慮を欠いた、独善主義者しか生み出し得ない)。
なにしろ「維新の会」の考える「教育」のロールモデルが、松井一郎や吉村洋文なのだから、およそ「世界に恥じる教育」にしかならないのも、理の当然なのだ。

したがって、私が本稿において結論的に言いたいのは、「教育とは、人間を育てることだ」ということであり、その意味するところは「教育とは、人間的に成熟した知恵を持つ大人に育つ、そんな種子としての子供を育てることだ」ということである。
つまり、単なる「知識」をゴテゴテと貼り付けるとか、「偏頗な能力拡張で、他の部分を台無しにする」といったことではない。

子供たちは、「養分としての基礎教養」を与えられ、その上で、自分で自分の特性を見出すための「生きた知恵」を育てられれば、あとは勝手に、それぞれの方向へ伸びていくものだし、それが可能な環境整備こそが「教育」の使命なのではないかと、私はそう考える。

「維新の会」が進めているような「単細胞な政策」と、それに基づく「教育」では、子供たちの「成長の芽」が摘まれるだけだということに、大阪府民は、そろそろ気づくべきであろう。
少々、テストの点が良くなったところで、「成長の芽」を摘まれた子供は、いずれその限界にぶち当たって、それでも「僕は間違っていない」「私はエリートだ」などと、自己正当化のためだけに、苦しまなくてはならなくなるだろう。

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「賢い」とはどういうことか。
「大人の知恵」とはどういうものか。
「成熟」すれば、人間はどうなるのか。

少なくとも、今の「維新の会」の教育では、こうした問いへの解答は得られないし、そもそも、そんな問いを立てる能力すら育たないのではないだろうか。

「維新の会」は、「勝てる点数エリート」を育てようとして、「心貧しい不幸な大人」を量産しようとしているだけ。一一私は、自信を持って、そう断じよう。


(2022年6月12日)

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