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読み方で「万葉集」の価値が変わる件(その3)

▼前号では、『万葉集』の価値は、『万葉集』に何らかの「日本固有」の「オリジナル」を見つけたがるようなものの見方では、見つからないことを確かめた。

別の視点が必要なのだ。

▼ただし、今号でも、もう少し「日本固有」の「オリジナル」信仰を相対化する史実を確かめておきたい。

▼斎藤正二氏の『植物と日本文化』(八坂書房)という本に、やはり「令和」の出典にあたる梅の宴会の歌をめぐる論考が載っている。『日本的自然観の変化過程』で扱っていた『万葉集』の実像を、少し違う角度から論じている。

▼『万葉集』の梅の歌そのものは、前号で紹介したので、そちらを参照されたい。適宜改行。

これらの梅花歌を見ると、万葉時代人がウメを教材にして「みやび」を学習しようと努めていたことは、あまりにも明白である。

極言すれば、それまでの氏族的伝統社会には「みやび」などという文化的カテゴリーは発生する余地さえも無かった。律令制中央集権政治形態を唐から輸入する過程で、はじめて、「みやび」的思考をも唐から輸入したのである。

したがって、『万葉集』を民族的=国粋的アンソロジーと解して自画自賛することは、かえって客観性に欠ける。

万葉人の美意識は、東アジア古代世界の指導者である中国の文学(具体的には六朝、隋、唐の詩文)の模倣のうえに構築されたシステムに過ぎなった、と解するほうが、科学的には妥当性を有する。〉(24頁)

▼〈『万葉集』を民族的=国粋的アンソロジーと解して自画自賛することは、かえって客観性に欠ける〉という指摘が重要だ。

ここで斎藤氏は視野を広げる。『万葉集』が中国の圧倒的な影響下に成立したものであるなら、はたして、その後の歌集はどうなのか。

〈かかる傾向は、日本の古代詩歌のなかを一貫して流れる特色にもなっている。平安朝に入ってからの文学および芸術は、いっそう中国崇拝(唐風模倣)の傾向を強めていった。

10世紀以後になって、いわゆる「国風運動」が起こったことになっているが、『古今和歌集』でも王朝女流文学でも、その美的基準はやはり中国詩文のそれに求められていた。

『漢詩』の考え方に従って、公式的にわりきって当てはめなければ安心ができないので、当然和歌は漢詩の枠(わく)にはめこむことが要請されたし、事実それではじめて安心することもできたのである」(『日本文学の歴史』、中古の文学)という風巻景次郎の指摘は、まことに正鵠を得ている。ましてや、8~9世紀の勅撰三詩集の時代には、この傾向は極めて顕著であった。〉(25頁)

▼ここから、斎藤氏の論旨が浮き彫りになっていく。

この後、当該論考では、平安時代を通観し、ウメがサクラに花の王者の座をとってかわられる様子が描かれる。「花」といえば、サクラのことになっていくわけだ。

しかし、近世の「園芸ブーム」に乗って、ウメの品種は300を超え、貴族の花から庶民の花になっていく。

〈江戸や畿内や九州には、梅の名所がおびただしくできた。もう、こうなれば、ウメの原産地が日本ではないなどということは、だれひとりとして、念頭に浮かべる者さえなくなった。ウメ自身が、日本の風土にぴったり合うように変身を果たしたのであった。〉(29頁)

▼斎藤氏は、文学や花の価値を、「実体」としてとらえて間違えてしまう危険に、とても敏感である。おそらく、前後左右の「関係」や「文脈」によってこそ価値が生まれる、という思想の持ち主なのだろうと推測する。

結論部分では、芭蕉の〈梅が香にのつと日の出る山路かな〉や一茶の〈梅がかや針穴すかす明り先〉など梅を歌った8つの代表的な俳句を列挙した後、こう締めくくる。

〈このようにして、7~8世紀ごろ中国から渡来したウメは、1000年ほどの時間的経過の間に、名実ともに日本列島特有のフローラのなかに自己の地位を獲得した。

それは、同じく中国詩文に出発点を仰ぐ日本文学が、1000年ほどの時間的経過のうちに、名実ともに民族文化遺産を形成し蓄積するに至った歩みと、同一軌跡の上に立つ。

親許(おやもと)を離れた子供ひとりの、長い長い旅であった。〉(29頁)

▼筆者は、この末尾の一文に日本文学への愛を感じるし、日本の自然への愛を感じる。

この視点で、日本文学を、とくに今回のテーマである『万葉集』を眺めた時、初めて見えてくるものがある。(つづく)

(2019年5月9日)

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