Koizumi Satoshi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、岡山神召キリスト教会、福山キリスト教会の牧師。…

Koizumi Satoshi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、岡山神召キリスト教会、福山キリスト教会の牧師。礼拝説教の要約、今まで作成してきた教会のデボーションガイドやエッセイなどを掲載していきます。写真の転載はお断りします。

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    礼拝や各種集会での説教の要約です。

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    福山とキリスト教についてのエッセイです。

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    サブカルや日常のあれこれをキリスト教の視点から書いています。

記事一覧

使徒言行録7章44節ー60節

「神の家」 ステファノの説教が続きます。彼が訴えられた理由はモーセの律法と神殿を冒涜したとされたからです。今までステファノはモーセについて彼の信じるところを述べ…

ヨハネの手紙第一2章26節ー27節

「御子にとどまる」 誰から頂いたプレゼントなのかを確かめるものです。ヨハネはここで油について語るのです。しかも、それは御子から注がれた油だと言うのです。油とは聖…

使徒言行録16章1節ー5節

「母に注がれる神のあわれみ」 青年テモテと出会うパウロ。違う人種の結婚をよく思わない時代、母も白い目で見られましょう。この地はかつて激しい迫害で、パウロがいのち…

Koizumi Satoshi
10日前

ヨハネの手紙第一2章24節ー25節

「初めから聞いていたこと」 心にとどめるようにとヨハネは言うのです。何をでしょうか。初めから聞いたことです。初めからとあるのですから、教会にとって初耳のことを今…

Koizumi Satoshi
10日前
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使徒言行録7章17節ー43節

「主なる神の手の働きによって」 ステファノは、長い説教を語る中でイスラエルの歴史を振り返っていきます。ここからはモーセについて見つめられているのです。モーセを冒…

Koizumi Satoshi
2週間前

エゼキエル書14章

「のがれん」 人生には何が何でも逃げ切らないといけない事態があります。神は罪のおそろしさを誰よりもご存じのお方です。だからこそ、すぐに悔い改め、心を神に向き直し…

Koizumi Satoshi
3週間前

ヨハネの手紙第一2章22節ー23節

「主イエスはキリスト」 ヨハネの時代の教会は異端の教えの流行に悩まされていました。ヨハネはこういう人々をはっきりと偽り者だと告げています。具体的にどこがどう偽り…

Koizumi Satoshi
3週間前

使徒言行録7章1節ー16節

「栄光の神の約束」 最高法院に引き渡されたステファノは大祭司の前で説教を始めます。長い説教を何回かに分けて学びましょう。その殆どは旧約聖書に記されたイスラエルの…

Koizumi Satoshi
1か月前

ヨハネの手紙第一2章20節ー21節

「油を注がれて」 自分の信仰について自信を失ってしまうことがあるものです。この時の教会がまさにそういう状態だったのです。もっとも無理もない事情はありました。今ま…

Koizumi Satoshi
1か月前

エゼキエル書13章

「前を向いて」 災害に限りません。病気、人間関係、人生にのしかかる困難。生きていくには力がいります。エゼキエルの時代、預言者が真摯に神の言葉を語っても人々が聞こ…

Koizumi Satoshi
1か月前

テモテの手紙第一4章13節ー16節

「この言葉とともに歩め」 どんな仕事に就こうとやるべき働きがあります。パウロもここで牧師の働きについて語るのです。そのひとつが礼拝での旧約聖書の朗読です。ひとり…

Koizumi Satoshi
1か月前

ヨハネの第一の手紙2章18節ー19節

「終わりの時」 ヨハネは教会に対して終わりの時が来ていますと告げるのです。私たちは終わりを信じる信仰に生きているのです。なんとなく終わるのではありません。神が意…

Koizumi Satoshi
1か月前

使徒言行録6章8節ー15節

「恵みと力に満ちて」 教会で起こった問題解決のために新しく7人の奉仕者が選ばれました。聖書はその中のひとりステファノの活動に光をあてます。彼は恵みと力に満ちてい…

Koizumi Satoshi
1か月前

ヨハネの第一の手紙2章15節ー17節

「神の御心を行う人」 神の家族としての恵みや特権をヨハネは語ってきました。そのうえで、クリスチャンはこの世において具体的にはどのように歩んでいけばいいのかについ…

Koizumi Satoshi
1か月前

ヨハネによる福音書21章1節ー14節

「主は岸辺に立たれた」 復活の主に出会った弟子たちは故郷ガリラヤに帰ります。湖での漁は主から使命を託された伝道と重ねられています。しかし不漁でした。伝道の成果が…

Koizumi Satoshi
1か月前

ヨハネの第一の手紙2章12節ー14節

「神の家族」 ヨハネは教会を神の家族と考えています。だから教会のあらゆる世代に向けて、子たちよ、父たちよ、若者たちよと呼びかけます。まずは子どもに対してです。子…

Koizumi Satoshi
1か月前
使徒言行録7章44節ー60節

使徒言行録7章44節ー60節

「神の家」
ステファノの説教が続きます。彼が訴えられた理由はモーセの律法と神殿を冒涜したとされたからです。今までステファノはモーセについて彼の信じるところを述べてきました。ここからは神殿について述べていきます。彼は神殿が建つ前の幕屋について振り返ります。神の命令通りに造られた幕屋は、モーセの時代からダビデの時代に存続しますが、その年数は神殿が造られてからバビロンに破壊されるまでの年数以上に長かった

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ヨハネの手紙第一2章26節ー27節

ヨハネの手紙第一2章26節ー27節

「御子にとどまる」
誰から頂いたプレゼントなのかを確かめるものです。ヨハネはここで油について語るのです。しかも、それは御子から注がれた油だと言うのです。油とは聖霊のことです。聖霊は主イエスキリストから私たちに注がれるのです。聖霊は何をするのかというと、御子イエス様がどういう方であるかを明らかに教えて下さいます。聖霊がキリストを離れて無関係に働くなどということはあり得ない話です。聖霊は御子を証しする

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使徒言行録16章1節ー5節

使徒言行録16章1節ー5節

「母に注がれる神のあわれみ」
青年テモテと出会うパウロ。違う人種の結婚をよく思わない時代、母も白い目で見られましょう。この地はかつて激しい迫害で、パウロがいのちの危機さえ感じた地域。ここで救われ留まった彼女の人生の苦労を思います。

わが子にいいところを見せたい親。しかし情けない親の姿を晒す現実もあります。完璧ではないことで後悔を引きずってはなりません。いたらない点があっても、主のあわれみによって

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ヨハネの手紙第一2章24節ー25節

ヨハネの手紙第一2章24節ー25節

「初めから聞いていたこと」
心にとどめるようにとヨハネは言うのです。何をでしょうか。初めから聞いたことです。初めからとあるのですから、教会にとって初耳のことを今から語ろうと言うのではありません。何しろ、伝えられた福音のことなのですから。しかも過去から連綿と手渡され続けてきた福音です。うわっつらだけの理解では困るのです。これが本当の意味で自分のものとなるようにしっかりと心にとどめる必要があると言うの

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使徒言行録7章17節ー43節

使徒言行録7章17節ー43節

「主なる神の手の働きによって」
ステファノは、長い説教を語る中でイスラエルの歴史を振り返っていきます。ここからはモーセについて見つめられているのです。モーセを冒涜すると訴えられているわけですから、彼がモーセをどのように理解しているかを伝える必要があるからでしょう。エジプトの王女に拾われ、当時の最高の教育を受けたモーセは、長じて同胞のために働こうとします。しかし、受け入れられずに挫折して都落ちし、私

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エゼキエル書14章

エゼキエル書14章

「のがれん」
人生には何が何でも逃げ切らないといけない事態があります。神は罪のおそろしさを誰よりもご存じのお方です。だからこそ、すぐに悔い改め、心を神に向き直し、罪からはなれるようにと望んでおられます。イスラエルの長老がエゼキエルに助言を求めても手放しでは喜べません。何故なら、彼らは偶像崇拝の罪を続けながら、二股をかけて神を求め、しかも自分に都合のいい助言が欲しいに過ぎません。神はその祈りに答える

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ヨハネの手紙第一2章22節ー23節

ヨハネの手紙第一2章22節ー23節

「主イエスはキリスト」
ヨハネの時代の教会は異端の教えの流行に悩まされていました。ヨハネはこういう人々をはっきりと偽り者だと告げています。具体的にどこがどう偽りなのでしょうか。主イエスがキリストであることを否定するからです。実際、彼らは主イエスの受肉を否定し、十字架の贖罪をも否定します。その結果、罪の力も過小評価し、罪からの救いも強調しなくなるのです。しかし主は私たちを肉体ごと救うために肉体ごと十

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使徒言行録7章1節ー16節

使徒言行録7章1節ー16節

「栄光の神の約束」

最高法院に引き渡されたステファノは大祭司の前で説教を始めます。長い説教を何回かに分けて学びましょう。その殆どは旧約聖書に記されたイスラエルの歴史です。死刑が待つ裁判の席で悠長にも思えます。しかしここに彼の信じていることが告白されています。まず語られるのは族長アブラハムです。大切なのは信仰とは旅立つことだという点です。物理的移動とは限りません。今までの考えから離れて約束のみ言葉

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ヨハネの手紙第一2章20節ー21節

ヨハネの手紙第一2章20節ー21節

「油を注がれて」
自分の信仰について自信を失ってしまうことがあるものです。この時の教会がまさにそういう状態だったのです。もっとも無理もない事情はありました。今まで信仰の仲間だと思っていた親しい人たちが教会を離れていく痛みがあったのですから。そういう危機に、冷静でおれるはずがないのです。しかもこの人たちは、教会とは別の集団を形成し、これこそが最新の教えであって、高尚な哲学思想だから親切に教えてあげま

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エゼキエル書13章

エゼキエル書13章

「前を向いて」
災害に限りません。病気、人間関係、人生にのしかかる困難。生きていくには力がいります。エゼキエルの時代、預言者が真摯に神の言葉を語っても人々が聞こうとしないのにも理由がありました。にせ預言者と呼ばれる者たちが人々の間を歩き回り、まことしやかな甘い言葉で人々を唆していたからです。いつの時代もにせ預言は後を絶たない。にせ預言を喜んで聞いて受け入れる人々との共犯関係がある以上は。

目の前

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テモテの手紙第一4章13節ー16節

テモテの手紙第一4章13節ー16節

「この言葉とともに歩め」
どんな仕事に就こうとやるべき働きがあります。パウロもここで牧師の働きについて語るのです。そのひとつが礼拝での旧約聖書の朗読です。ひとりひとりが聖書を持てる時代ではありません。皆が字を読めるわけでもない。従ってエペソ教会の礼拝の場ではテモテが聖書を読み聞かせるのです。しかし朗読だけで済ませていいのではありません。聖書は解き明かされる必要があるのです。それを説教と呼ぶわけです

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ヨハネの第一の手紙2章18節ー19節

ヨハネの第一の手紙2章18節ー19節

「終わりの時」
ヨハネは教会に対して終わりの時が来ていますと告げるのです。私たちは終わりを信じる信仰に生きているのです。なんとなく終わるのではありません。神が意志をもって終わらせるのです。ここから理解できるのは悪が支配する世界はいつまでも続かないという希望です。どんな苦しみにも困難にも終わりがあると言うのです。なぜならキリストの再臨によって神の国が完成するからなのです。これが教会がずっと大切にして

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使徒言行録6章8節ー15節

使徒言行録6章8節ー15節

「恵みと力に満ちて」
教会で起こった問題解決のために新しく7人の奉仕者が選ばれました。聖書はその中のひとりステファノの活動に光をあてます。彼は恵みと力に満ちていたと紹介されています。同時に彼は信仰と聖霊に満ちてもいましたし、知恵と霊にも満ちています。即ち、信仰も力も知恵も自分で得たものではないのです。すべて聖霊によって与えられたものだと説明されているのです。この聖霊こそがしるしと不思議を伴う目覚ま

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ヨハネの第一の手紙2章15節ー17節

ヨハネの第一の手紙2章15節ー17節

「神の御心を行う人」
神の家族としての恵みや特権をヨハネは語ってきました。そのうえで、クリスチャンはこの世において具体的にはどのように歩んでいけばいいのかについて助言をしています。世と世にあるものも愛してはいけないとヨハネは言うのです。世を愛するなら父なる神の愛はその人の内にないとまで言われています。しかし考えてみると妙な話ではないでしょうか。ヨハネは福音書において神は世を愛されたとあるではありま

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ヨハネによる福音書21章1節ー14節

ヨハネによる福音書21章1節ー14節

「主は岸辺に立たれた」
復活の主に出会った弟子たちは故郷ガリラヤに帰ります。湖での漁は主から使命を託された伝道と重ねられています。しかし不漁でした。伝道の成果が何一つ見られないのです。悪条件の厳しい時代です。ガリラヤ湖がローマ皇帝ティべリウスの名前で呼ばれる状況。しかし、復活の主はそこにおいでになられます。私たちが調子がいいから主が来て下さるのではありません。立ち直れない挫折の中に何度もおいで下さ

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ヨハネの第一の手紙2章12節ー14節

ヨハネの第一の手紙2章12節ー14節

「神の家族」
ヨハネは教会を神の家族と考えています。だから教会のあらゆる世代に向けて、子たちよ、父たちよ、若者たちよと呼びかけます。まずは子どもに対してです。子どもである以上は親がいるわけです。神を父と呼べる交わりの中にいれられたのです。それは偏に主イエスの名で罪が赦されていることによるものです。主イエスによって父なる神を知ったと言っていいでしょう。この方のもとに神の子として成長していくのです。

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