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ずっと昔からある「青春コンプレックス」に思いを寄せて


コロナ禍によって、従来の学生生活が送れなかったことから、様々な体験不足や経験不足からくるコンプレックスを「青春コンプレックス」と呼ぶらしい。

この言葉を聞いた時

「青春に対するコンプレックスなど大昔からあるものであるのに今更何を?」

という感情でしかなかった。

青春コンプレックス自体に共感できないわけでなく、むしろよく理解できるものである。しかし、学校に通えなかった経験や人よりも幸福な経験がない者からしてみれば、コロナ禍よりも前から苦しみ、誰にも理解されず、未だに悩みもがき続けているものである。

常に言葉や文化、それこそ「問題」は、言語化されないと表象されにくい。

そして、「マジョリティ」が、「力のある者」などが傷つかなければ
問題視あるいは社会に訴えられないという大きな課題がある。

例えば、下記のようにメディアで取り上げれるのは

大学生であったり、全日制高校に行っていたからなどのマジョリティだからと言える。

昔からあるような、いじめ・不登校・通信制・ひきこもりなど
たくさんの人たちが青春を謳歌できず、あの時代にコンプレックスを抱きながら生き、時折、心の傷を抉るような出来事に直面する人たちがいる。

しかし、かれら・かのじょらとは「青春」には注目されることはなく
別の向き合っていることにしか焦点が当たりにくい。

そして、青春に対して話をしても

「甘えだ、自分でどうにかしろ、知らない」

という言葉で片付けられて消されてきた。

にもかかわらず、対象が変われば

「大丈夫?何かできることはある?社会全体サポートしよ」

みたいな風潮になるという恐ろしさがある。

絶望や悲しみは、「権力」を持ち「特権」を持ち合わせている人々が傷つかなければ語ることや社会に映し出すことは認められないのである。

権力や特権を持つ人々に愛されなければ、苦しみは見つけてもらえないのである。

青春の一つや二つ

経験できなくても「痛み」はないなど思う人々もいるかもしれない。

それは、とてもお花畑の世界で生きているのだろう。

青春の一つや二つを経験できないだけで
所属する場所も選択できる可能性も、人としての希望に関わってくる。

経験できない、できなかったとという事実が永久の苦しみに苛まれることを知らないのだろうか。

まだ青春は取り返しのつきやすいものである。でも、取り戻すにも「たくさんの当たり前」が必要であり、持ち合わせていた人しか取り戻すことはできない。

まるで簡単に取り戻せるような話す、元当事者たちも多いが大きな間違えである。

そもそも青春は人によって形が違うし、得たいと思うものも違う。
特に、得たいものが当たり前になればなるほど得られない苦しみは知っているのだろうか。ただぼやかして通り過ぎたものを乗り越えたとは言えない。

年齢や性別、所属しなければならなかった先で取り返せるかも大きく変わるのだから。

なら、青春を経験できなった人はどうなるか?

本当はもっと誰もが寛容になり、どの年齢からでも経験できたり、
幸福な人々がサポートに周るような世界であるならいいのにと思う。

とは思うが、人は淘汰される生き物である。そういった青春の濃淡や厚みでも優劣が決まり、人生での選択に多くの差を生んで選別する。

どうあがいても奈落に落ちた人は幸せになることはない。その事実は理解しているけれど、僕はあがいて生きたいし、早く退場したい思いもある。

自分だけが何も報われない世界など自分の世界ではないから。

でも青春ごときで自分自身が人間として不確立みたいなことは思われたくないし、いつでも取り戻せるという強さが欲しかった。

夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。