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澪標 [完結]

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「ピアノを拭く人」の番外編です。彩子の同期 鈴木澪が主人公で、コロナ禍の恋愛も描いています。
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澪標(みおつくし)   プロローグ

澪標(みおつくし)   プロローグ

 スクリーン越しに、同期の彩子と透さんの笑顔がはじける。彩子は白無垢から純白のウエディングドレス、透さんは紋付羽織袴からタキシードにお色直しして画面に現れた。長身の2人には、和装も洋装も映える。

 透さんの右腕と左腕には、白豆柴犬の胡桃と、茶白猫の柚子が、安心しきった眼差しでそれぞれ収まっている。彩子が2匹の頭を撫でながら、注意を画面に向けようとする。子供を持たないと決めた2人が、保護団体から迎

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澪標 1

澪標 1

 3年前のその日は、休日出勤だった。

 私は試験運営を請け負う会社で営業部に所属していた。試験が目白押しの2-3月は、他の部が試験運営部のサポートに動員され、休日出勤するのはめずらしくなかった。

 18時を回り、各試験会場のリーダーから、終了報告のメールや電話が相次いでいた。本社のフロアは、安堵の空気と、トラブルが生じた会場への対応に追われる緊迫感が入り混じっていた。運営部の竹内くんは受話器を

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澪標 2

澪標 2

 私の人生で、「恋に落ちる」という言葉が、あれ以上ふさわしい瞬間は、これまでも、そしてこれからも訪れない。私はあなたと出会った瞬間、理由など考える余地もなく恋に落ちた。

 何年か前、彩子と帝国劇場でミュージカル「レ・ミゼラブル」を見た。理想に燃える青年マリウスが、コゼットに一目ぼれし、その気持ちを歌う「プリュメ街」という歌があった。あのときは、彼の高揚感に、暗い客席で苦笑いを嚙み殺した。だが、あ

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澪標 3

澪標 3

「聞いて下さいよ。俺、やっと彼女できたんです」

 竹内くんは丁寧にほぐしたホッケの塩焼きに醤油を垂らしながら、声を弾ませた。流行の髪型を好み、一見すると軽薄そうに見える彼は、食べ方がとてもきれいで、子供のころ厳しく躾けられたことが垣間見えた。

「おー、良かったじゃないか。どんな子だ?」手もとがあやしくなり始めていた志津課長は、飲み干した生ビールのグラスを置くとき、小皿にかちんとぶつけてしまい、

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澪標 4

澪標 4

 コンビニを一歩出た瞬間、湿度の高い熱気に襲われ、息苦しさを覚えた。私は店内に引き返したい衝動に抗い、昼食に買ったおにぎりとサラダの袋を持ち直すと、会社に戻るために炎天下を歩き出した。

 交差点まで数メートル歩いただけで、汗でブラウスが背中に張り付きそうだった。今朝吹き付けた石鹸の香りの制汗スプレーなど、何の役割も果たしていなそうだった。交差点の対岸に陽炎が立つのが見え、ますます気が滅入った。

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澪標 5

澪標 5

 あなたは霧にけぶる海を凝視していた。私は傘を打つ雨音を聴きながら、黙って寄り添った。あなたの濃紺の傘が邪魔をし、表情はよく見えなかったが、声を掛けてはいけない気がした。

 高台から眺める横浜港やベイブリッジは霞み、輪郭が揺らいでいた。小さな観光船が、霧に飲まれるように視界から消えていった。あなたと陽光を浴びてきらきらと輝く海を眺め、吹き渡る潮風を頬に感じたかった私は、生憎の天気が恨めしかった。

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澪標 6

澪標 6

「笠原さん、この日付、どういうことですか?」

 運営部の柴田さんが、電話を保留にしたまま、営業部の笠原さんのデスクにつかつかと歩いてきて詰問した。

「Y大学に下見に行く日時、11月16日 午前9時とありますよね。先方は、6日、つまり明日のつもりで確認の電話をかけてきているんです」

 笠原さんは、ファイルをひっくり返し、必要事項を書き込んだ書類を取り出した。私は作業の手を止め、彼女の見つけた書

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澪標 7

澪標 7

 東京に帰る新幹線の座席に落ち着くと、あなたは膝の上で手を組み、背筋を伸ばして切り出した。

「これから話すことは、あなたの胸に収めて、絶対に口外しないでほしいんです。志津にも話していません。あなたが、口外するような人ではないことはわかっていますが」

 私は「約束します」と答えた。何も言わなくても、あなたに伝わっている確信があったが、敢えて言葉にした。

「妻と出会ったのは、修士課程を修了して就

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澪標 8

澪標 8

 送別会の宴席を抜け出し、障子を後ろ手で閉めると、喉に酸っぱいものがこみ上げてきた。朝から喉がいがいがし、胃のむかつきもあったのに、上司に注がれたビールを無理に飲んだからだった。

 しんと冷えた廊下の空気を深く吸い込んだ。宴の喧騒を背中に、私は化粧室を探そうと廊下を歩いた。ほのかにライトアップされた形ばかりの中庭に、小さな石灯篭が据えられていた。それを見て、あの宮島の夜を思い出した。もうすぐ、宮

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澪標 9

澪標 9

 あなたの奥様と息子さんが大阪に里帰りする週末、外出しないかと誘われた。奥様には、空き家になっている新潟の祖父母の家のメンテナンスに行くと言っておいたらしい。

 千代田線の根津駅で待ち合わせた。あなたは、黒縁眼鏡、濃紺のパーカーにベージュのチノパン、黒いスニーカーというカジュアルないでたちで現れた。どれもあなたの身体に気持ちよく馴染んでいて、普段着さえも、納得したもの以外は身に付けないこだわりを

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澪標 10

澪標 10

 久々に彩子が出張してきて、竹内くんと 3人で同期会を開いた。1軒目で仕事の話をし尽くし、2軒目の話題は自然に恋愛話に流れた。

 ハワイアンミュージックに乗って流れる、ローカルラジオのハワイ英語が耳に心地よかった。

 コナビールで乾杯を済ませると、竹内くんが彩子に気づかわし気に尋ねた。「水沢さん、電車大丈夫? そろそろ10時回ったけど」

「彩子は、彼氏の家に泊まるから問題な~し!」彩子が答え

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澪標 11

澪標 11

 

 今にも掴みかかってきそうな鉛色の空の下、錆浅葱色の海が躍動していた。暴力的な勢いで寄せてくる波は、波消しブロックに勢いよく乗り上げ、無数の白い泡を生んで帰っていった。

 空も海も鳴っていた。海は、そこで生まれ、消えていった無数の生命を飲み込み、むせ返るほどの命の匂いを放出していた。

 太古から繰り返されてきた剥きだしの自然の営みがそこにあった。畏怖を覚え、体の芯が熱くなった。

「私た

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澪標 12

澪標 12

 クリスマスイブをあなたと過ごせると知り 、私の胸は何週間も前から躍っていた。

 平日のアフターファイブなので、どこに出かけようか、プレゼントは何にしようかと、寝る間も惜しんで考えた。あなたの希望を尋ねると、私に決めてほしいと言われたが、私もあなたの希望を聞きたいと言い張った。

 あなたは意外にも、私の部屋で手料理が食べたい、それが何よりのプレゼントですと目元を緩めた。プレゼントは何がいいかと

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澪標 13

澪標 13

 私のアパートは、同期の新年会の会場と化していた。彩子が本社にいた頃から、3人の誰かの部屋を会場に、語り明かすのは恒例だった。

「彩子、大和さんと仲直りできた?」

「まあね……、一応」

 彩子が納得できないものを腹に抱えていることは、歯切れの悪い口調から読み取れた。辛いことを胸に押し込めてしまう彼女が、安心して弱みを見せられる関係を彼と築けることを願わずにいられなかった。

「水沢さん、弁護

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