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病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈9〉

 カミュの創作ノートによれば、彼が『ペスト』という作品を構想する中で、主人公のリウーやそれに準ずる主要人物であるタルーなどといった中心的なキャラクターが生み出されるようになるのは、それを練り始めるようになってから割合後の方になってからのようだ。
 まず最初に浮かび上がってくるのは小役人グランの妻ジャーヌのモチーフであり、さらに続いてパヌルー神父や新聞記者ランベールなどについての素描が、そのノートには書き記されていく。どうやらそういった周辺的なところから、カミュはこの作品の登場人物像を組み上げていったようである。
 さらにこの物語の語り部として、最終的には作品世界から跡形もなく消え去ってしまうことになる、哲学教授のステファンなる人物を、当初のプランとしては念頭に置いていたというように、創作メモの内容からは窺われる。
 ともあれこの『ペスト』という作品は、何よりもまず医師リウーの存在ありきというわけでは、そもそもなかったのである。

 『ペスト』作中で、そのフルネームが明らかになっている人物というのは、まずは言うまでもなく主人公であるところの医師ベルナール・リウー、そしてもう一人の主役でもある旅行者ジャン・タルー、さらに新聞記者として町に派遣され病禍に巻き込まれたレイモン・ランベールと、市役所に勤めるしがない下級職員ジョゼフ・グラン(それに付け加えて、直接には登場しないが彼の元妻であるジャーヌ)といったところとなる。また、オトン判事の子供たちの名前が、娘の方はニコール、そして後にはペストに罹患して死亡することにもなる息子の方はフィリップという名であるのが、タルーがホテルの食堂において小耳に挟んだ会話の中で判明している。
 ところで、上記前半部分で挙げた作中の主要人物たちが、時を経て互いにある程度親しい間柄になってからも、それぞれファーストネームで呼び合うなどということが、この物語においてはついぞなかったことには、読みながら少なからず違和感も覚え、かつ注意を引かれる面もある。こういうところからは、登場人物がそれぞれ人間関係に対して持っている、不思議な距離感覚のようなものが表われているようにも思える。

 『ペスト』の訳者である宮崎嶺雄は、巻末解説において作中の登場人物たちを、ペストの影響によって変貌した者らと、一方でほとんど何も変化しなかった者たちに分類しており、ランベール・パヌルー・オトン・コタールは前者、リウー・タルー・グランなどについては後者にあたるとしている。そして後者のことを特に「不条理人」というように呼ぶ。
 もし本当に、リウーたちがペストの日々の中で「何も変化しなかった」のだとしたら、それはたしかに不条理なことだ。なぜなら、人間というものは実際、変化せずにはいられないものなのだから。そして、これは後であらためて述べるが、リウーもタルーもグランも、結局のところ皆それぞれにペストの中で変化しているというのは、全く疑いえないこととして認められなければならない。たとえもし、彼ら自身がそれを否定しようとも、しかし彼らは、その自らの変化を拒否することはけっしてできないのである。

 人間は、「有限な存在」として必ず「外部」を持つ、ゆえに誰しもが避け難くその外部からの刺激によって変様することになる。そしてその変様した自己に対し自己自身として動揺し、さらにその動揺を自らの刺激としてまた自身が変様する。それを「生きている限り」において人間は繰り返し続ける。生きているからこそ、人間は変化する。そのような、生きているがゆえの人間の変化は、まさに人間の本質として「健康」と呼ぶべきものであり、とすれば人間は基本的に誰でも「健康」なのだと言える。
 だが多くの人は「健康」の意味というものを、いささか取り違えているきらいがある。どうやら「一定の状態が維持されていること」を、すなわち「変化がないこと」を、健康なのだというように思い込んでいるらしい。しかしそのような思い込みこそ、まさに人間の思惑なのである。それはむしろ、自然的で本質的な人間の健康からかけ離れているばかりか、すでに病の様相を呈してさえいるような、観念的な抽象なのだ。そしてそのような意味であれば、その思惑自体がたしかに、人間にとっての不条理となるものなのである。

〈つづく〉

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