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脱学校的人間(新編集版)〈42〉

 近代国家の生み出した制度としては、教育とともに徴兵制もまた、自国民を「だいたい同じ人間」に作り上げていく機能を果たしたものと考えられる。というより、近代国家はその創設の時点で、何よりもまず教育と徴兵の二つの制度を同時期に整備するところから始めたのだ、と柄谷行人は指摘する。
 たとえば日本の明治政府においては、維新直後にはまず小学校規則と徴兵規則を定めるところから始めており、次いでその翌々年には学制頒布と徴兵令公布を実行している。当時誕生して間もない政権が、何よりもまず真っ先に実行した政策が、この教育と兵制の根幹を整備構築するものだったわけである(※1)。
 ではなぜ明治日本において、教育および兵制の構築に関わるものが、二つ同時に「真っ先に実行されるべき政策」として設定されたのか。それはその時点で日本という「新興国家」に存在していなかったものとして、人材としての「一般的人間」が何よりも真っ先に必要となっていたからである。
「…産業プロレタリアートがほとんどない国で、革命権力がまっさきにやるのは、実際の工場を作ること----それは不可能である----ではなく、結局『学制』と『徴兵制』であって、それによって国家全体を工場=軍隊=学校として組織しなおすのである。…」(※2)
 維新直後すなわち「革命直後」の日本国家には、未だ徳川期までの身分意識が色濃く残っていた。人々はそれぞれ属する身分の、そのそれぞれの価値観と行動様式にもとづいて、ある意味それぞれバラバラに生きていた。
 一方で近代国家の建設に不可欠となる産業プロレタリアートとは、その生産現場において「他の人たちとだいたい同じ行動を取ることができる人間」だと言える。それが人材すなわち労働力としての「一般的人間」ということだ。
 しかし誕生して間もない近代国家であるこの日本という国には、上記のような事情から未だそのような「一般的人間」に該当する者たちは存在していなかった。そのような来たるべき殖産富国の大事業を担いうる人々、すなわち「他の人たちとだいたい同じようなことができる社会的一般的人間」がいないのでは、その時点において構想されていた新国家すなわち「近代産業国家」として、先行する欧米列強に迫っていこうというには、出だしからあまりにも力不足で、どうにもその歩みがおぼつかない。
 ゆえに当時の新政府は、その「この国に存在していないもの」を国家草創期においてまず真っ先に生産しなければならない現実に直面した。この日本という「後進産業国家」の体制を可及的速やかに組織化する基底として、彼らは学校制度と徴兵制度とを同時に実行する政策をおく必要性に迫られたわけである(※3)。

 また、後発の近代産業資本主義国家において、工業化はその端緒から一定の水準と規模に達しているものでなければ意味がなかった。そうでなければ、すでに先行して発展している大工業産業国家に対抗することも追いつくこともできない。そして何よりもまずそこには、そのような一定の水準に達した生産活動に「適応できる労働者」がいなければ、どれだけ立派な工場を建設しようとも、それはただ芝居の書き割りにも劣る無用の長物にすぎない。
 しかし一方で、西欧において産業の発達した諸大国のように、マニファクチュア(小規模手工業)から大工業へと徐々に生産様式が発展していく歴史的過程において、生産手段である労働力がその過程で徐々に成長してくるのを待つなどといった余裕は、その時点の日本において全くなかった。最初からトップギアで、西欧諸国にも引けを取らないような相応の水準と規模を有した工業化をはかるためには、それに対応・適応できるだけのレベルと量で、労働力がはじめからその生産活動に供給されるのでなくてはならなかった。要するに、やがて工場が作られるようになったのなら、そこですぐに生産工程に入って十分に働くことができる労働者が、つまりすぐにでも生産手段として有効に機能できる労働力が、工場を作るよりも前にまず存在していなければならなかった。
 そのような労働力が国内には存在しておらず、それが生み出されてくるのも、あるいは成長してくるのも待っていられないなら、もはや自分たちで手っ取り早く作り出すより他はないのだが、とはいえそのような労働力を、それを実際に必要とする当の工場で自家生産できるわけもない。なぜなら、当然のことだが工場は人間を生産するところではないからだ。
 生産手段である労働力としての人間を「生産する」のは工場ではない。工場を経営する者すなわち産業資本は、そのような人間がいくら欲しくても、自分たち自身ではその必要不可欠な労働力を生産する役割を自らでは担えない。
 では、それはどこが担うべきなのか?
 それはまさしく国家の役割であったと柄谷は言う。そしてその「生産装置」として国家が用いるものこそ、学校と軍隊の二つの制度だったのである、と(※4)。言い換えると、学校と軍隊という「国家的工場」において、教育は労働力という生産物を生産する一つの生産手段と見なされた、つまり「人間を生産する」という目的のための手段となったわけである(※5)。

〈つづく〉
 
◎引用・参照
※1 柄谷行人「日本近代文学の起源」
※2 柄谷行人「日本近代文学の起源」
※3 柄谷行人「世界史の構造」
※4 柄谷行人「世界史の構造」
※5 バタイユ「至高性」


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