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脱学校的人間(新編集版)〈79〉

 もし、誰の目にも留まらず砂漠の真ん中で置き去りにされたテーブル自身が、「自分には価値がある!」などと人知れず叫んでいるとしたら、誰の耳にもけっして届くことのない、彼のその孤独で悲痛な叫び声は、まさしく絶望的な響きに満ち満ちていると言えよう。誰のものにもならず、誰にも使われず、誰の目にも留まることのない彼=テーブル=商品に、しかしそれでもなお一定の「価値」を与えようとするならば、そのときそこにおいていよいよ、「客観的な視点なるものが、超越的に現れてくる」ことになるだろう。そして、「物にはそもそも生来的な価値が内在している」かのように見出すことを意識するとき、まさにそのような「超越的で客観的な視点」が、それらの物を暗黙に等置して見出しており、それぞれの物はその「超越的で客観的な視点から見た価値を、自らの価値として内在的に転移させて見出している」のである。その「超越的で客観的な視点」とは、いわば「見えざる神の手ならぬ、神の目」とでもいうやつだ。つまり、ある物に「その物の生来的な客観的な価値が与えられている」とするならば、そのような価値を「天から与える者=神」が、超越的・客観的に存在しているのだと、そこでは暗黙に考えられているわけである。少なくとも「その物自身」はそう考えている、あるいはそう「信じている」のだ。
 ゆえにたとえ誰も「彼=その物」を見ていないのだとしても、そのように「超越的・客観的に存在している者」が彼=その物に対して価値を与えているのだと、彼=その物自身が考え信じることができている限りで、彼=その物は「彼自身に絶望せず、自らを価値であると言うことができる」のであろう。

 アレントもまた次のような指摘において、「見えざる神の目」の不条理を告発している。
「…普遍的相対性とは、物はただ他の物との関連においてのみ存在するということであり、生来的価値(ワース)の喪失とは、絶えず変化する需要供給の評価と無関係な『客観的』価値をもつものはもはやないということである。…」(※1)
 しかしそもそも「生来的な価値(ワース)」とは、他の物との関連においてあらわれる「現実的な相対性」が、どのような物にも共通しうる「普遍的な客観性」にもとづいているという「暗黙の前提」において、「絶えず変化する評価の正当性」を支えていると考えられる限りで、「それ自身の正当な価値」として見出しうるものに他ならないのである。そして、他の物との関連において評価される「価値」とは、客観的に評価される価値の、その現実的な相対化として評価されているのだと考えられる限りで「その物の価値」となるのであれば、そこで評価されているものとはつまり、「その物の生来的な=客観的な価値」であるはずなのだ。
 そしてそれは、要するに「ヴァリュー」なのである。
 ゆえに言われているような「その物の生来的価値(ワース)の喪失」などというものは、実際そもそも「その物と他の物との間に生じていた相対的価値(ヴァリュー)の喪失」に他ならないのであって、それを「その物の主観」から表現しているのにすぎないのである。だから、一般に考えられているような「相対的価値(ヴァリュー)の登場が、生来的価値(ワース)の喪失をもたらしたのだ」というわけでは、そもそもからけっしてないことなのだ。「生来的価値(ワース)は、そもそも相対的価値(ヴァリュー)にもとづいている」のであり、ヴァリューの現実的な相対性が「どのような物にも共通しうる普遍的客観性」に抽象されて、その物に内在化されるとき、はじめてそこに、その物の価値すなわち「その物の生来的な価値(ワース)」が見出しうるものとなるのである。だから、「どのような物にも共通しうる普遍的客観性にもとづいた価値」を持っていると考えうる限りで、その物はたとえ「他の物が存在していない場所でも、自らの価値を言うことができる」とさえ考えうるわけだ。もちろん、もしその必要があるのならばの話ではあるのだが。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アレント「人間の条件」志水速雄訳


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