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脱学校的人間(新編集版)〈86〉(終)

 最後に蛇足とはなるが、今一度「脱学校」の要諦について一言付け加えておこう。
 一般に考えられているのに反して、脱学校は「学校の廃止」を要求するものではない。もし何かを廃止しようと考えるのであれば、もはやいっそのこと「社会を廃止せよ」とでも要求した方が、まだしもいくらかマシなくらいのところなのだが、しかしもちろんそれはそれで不条理な話でしかない。なぜなら、そのような要求自体がすでに「社会的」だからである。そこで脱学校とはむしろ、そのような不条理を不条理として白日の下に晒け出すことこそを、何よりもまず要求するものである。
 また脱学校は一般に考えられているのとは違い、既存の学校教育を「別の教育」に置き換えることを要求するものではない。そのような「AでないのならBである」といった考えは、結局のところBもまたAと同一の存立構造において成り立っているのにすぎないということを、端的に示しているということにしかならない。そこで脱学校とはむしろ、そのような事象一般の存立構造における、相互依存的な同一性を明らかにすることこそを、何よりまず要求するものである。

 ところで、「AでないのならBである」というような考えは、それこそカントが言うところの仮言命題となるわけだが、そのカントが自らの標榜する「超越論的哲学」について、「それは、個々の対象に関する認識ではなく、むしろ我々が一般に対象を認識する『仕方』に関してのいっさいの認識」(※1)を追究するものなのである、というように説明している。
 言い換えるとそれは、たとえばAという具体的な現象に遭遇したとして、その「Aという具体的な現象に遭遇した当事者性」を維持しながらも、しかしその一方でBもしくはCあるいはその他無数の具体的な「可能的現象一般」の、その「現象としての構造一般」について分析・解明・認識し、そこで明らかにされた「構造一般それ自体」に向けて主体的に対峙していく、というようなことなのだと考えられる。
 ただしここで気をつけておかなければならない。もし「ある具体的な現象に遭遇した当事者性」に固執すれば、その認識は感性的・経験的な範疇をけっして越え出ることができなくなってしまうだろう。「自分のガチャが当たりであればそれでよい」というだけのことなら、話はそこで全て終わりなのだ。逆にもしその当事者性をここで捨象してしまうとしたら、その認識はあたかも雲の上から眺めるかの如く「超越的」なものになってしまうだろう。後は神のご加護でも祈っているより他はない。
 あらためて言うと、ここで求められているのは、ある具体的な現象に遭遇した場合に、しかしその現象のみならず他の現象をも生じさせているものと考えられる、あるいは生じさせうるものと考えられる、その「構造一般」というべきものにこそ、われわれは何よりまず真っ先に目を向けなければならないということなのであり、なおかつその「構造自体」に向けてわれわれは主体性をもって対峙していかなければならない、ということなのだ。
 たとえば、「学校に行かなくてもどうにかなる」といったような発想を、時に「脱学校の、その感性的な根拠」とする者もたしかに世にはいることだろう。しかし、「たとえ学校に行ったとしても、もはやどうにもならなくなっている社会」が、すでに現にその眼前にあることを、われわれはけっして無視したり隠蔽したりしてはならないし、また「どうにかなる」などといったような、自身の問題に対処するにあたって浮き上がってくる感性的で恣意的な発想が、一体何に依拠して出てきたものであるのかを、われわれは我が胸に絶えず厳しく、問い質していかなければならない。
 今ここで私が直面している問題は、あそこの誰かが直面している問題と、同一性を持った構造の下で直面しているのではないだろうか?あるいは、たとえばLGBTQにおいて生じている問題と、不登校や引きこもりにおいて生じている問題には、何らかの構造的な共通性があると言えないだろうか?そしてそこに、一定の連帯性を見出すことはできないものだろうか?
 現に自分自身が対峙している問題の当事者性から、そういった諸問題の「構造一般」に対して、主体性をもって目を向けていくとき、われわれはそのような想像力、あるいは「想定力」をここで明瞭に持っている必要があるだろう。少なくともわれわれは間違っても、己れ自身が戦うべき位相と、一方その戦いにあたって共に組むべき相手とを、けっしてここで取り違えてはならないのだ。

 それらのことを踏まえた上で、ここであらためて脱学校の要諦を端的に説明し、本稿の締めくくりとしたい。
 脱学校とは何か?
 それは、学校という個別の社会的機能に対する批判的認識に留まるものではなく、それら社会的機能一般における、その構造的存立様態の同一性に対する批判的認識を「実践的に生きる、超越論的態度」のことである。
 そしてそれは、「それがなければ生きられない」というようなものとしてではなく、逆に「それがなくても別に生きてはいける」といったようなものとしてでもなく、「それをすでに現に常に、なおかつ自然に自由に生きられているものとして見出す」ことであり、なおかつそのように「見出そうとする主体的な態度」のことであり、さらにはそのように認識「しようとする実践的な態度」のことである。
 そのような、「超越論的かつ実践的な態度」を常に現に生きている人間について、私はここで「脱学校的人間」というように名づけたいと思う。

〈了〉

◎引用・参照
※1 カント「純粋理性批判」


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