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親密な関係

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2015年9月の記事一覧

第二章 秋のおと 15

   15

 私はその手に、自分の手を重ねる。
 やけに自分の手が重く感じられる。ずっしりと重く、真衣のてのひらに乗ってしまう。それを感じたのか、真衣はゆっくりと手の甲が私の掛け布団に乗るまでおろす。

 布団の上の真衣の手、その上に私の手が乗っている。ふたりの手が安定している。

 唐突に真衣が話しはじめる。

「わたしが生まれたのは松本です。黒いお城が見えるところで育ちました。でも、それは小

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第二章 秋のおと 14

   14

「そういえばわたしも最初は、なんのために絵を描くのか、なんてかんがえていなかったような気がします」
「でも、いまはそうじゃない?」
 真衣はしばらくかんがえてから、ゆっくりと話しはじめる。

「絵を描くのが好きで、小学生、中学生と絵が得意で、先生にもほめられて、何度かコンクールで入賞したりしました。高校にはいったときに、大学は芸術系に進みたいと思って、美術の先生にも相談したら、入試の

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第二章 秋のおと 13

   13

 人がなにかをするのに、理由などなにもないのだ、ということに気づいたのは、事件によるゼロリセットからしばらくたってからのことだった。
 意識が回復しても、しばらくは自分で立つことも、起きあがることも、もちろん歩くこともできない状態がつづいた。しゃべることすらできなかった。いや、できなかったというより、しなかったのだ。私はショックのあまり、話す気力すらうしなっていた。医師や看護婦や知人

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第二章 秋のおと 12

   12

 私の話を聞いていた真衣のグラスからはまったくワインが減っていない。彼女は息を詰めるようにしている。
「私の話はこれで終わりです。ほかになにか聞きたいことはありますか?」
 身体をかたくしたまま、真衣はしばらく動かない。その瞳は自分の飲みかけのワイングラスをじっと見ている。
 ようやく彼女が口をひらく。
「あの……なんていって……なんていっておわびすればいいのか……」
「おわび? な

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第二章 秋のおと 11

   11

「きみは私のファンだという。それはありがたいが、だからといってきみは自分の絵を私に似せて描くことはない。きみは売れるような絵を描きたいんでしょう?」
「そうです」
「だったらなおさら、私の真似なんかすべきじゃない。自分の絵を売りたかったら、自分にしか描けない絵を描くべきだ」
「でも、先生の絵は売れていますよね。そしておれは先生の絵が好きだ。おれが好きな売れている絵を模倣すれば、おれの

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第二章 秋のおと 10

   10

 私は背を起こした介護ベッドにもたれてすわっている。
 真衣はサイドテーブルをはさんで、背もたれのないストゥールにすわっている。

 ふたりともなみなみと注がれたワイングラスをそれぞれ口に運んでいたが、いまはそれぞれ半分ずつくらい飲んだそれをテーブルの上に置いている。
 壁時計は九時を数分すぎた時間を示している。
 私はゆっくりと話しはじめる。「事故」のことを。
 きっかけはささいな

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第二章 秋のおと 9

   9

 真衣がダイニングの食器棚からワイングラスを二脚持ってくる。

 サイドテーブルに置かれたそれに、私はワインを注《つ》ごうとする。ワインボトルの底のほうを持ち、口をワイングラスに向け、ワインを注ぎはじめる。
 すこし注ぐが、最初から手が震えて、ボトルに口が不安定に揺れるのを見て、真衣がすぐにボトルに手をそえて、いう。

「わたしがやります」
 私は彼女にボトルをまかせ、手をはなす。
 

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第二章 秋のおと 8

   8

 真衣は私に教わったとおり、ソムリエナイフを扱おうとするが、なかなかうまくいかない。

 ビニールキャップはうまくむけない、スクリューはまっすぐ刺せない、コルクはスムーズにあがってこない。使いなれない者にとってはやっかいなものだが、使いなれた者がやるとあざやかに、美しく、あっけないほど簡単にワインのコルクは抜ける。
 私はかつて、毎晩のように練習し――つまり毎晩のようにワインをあけ――

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第二章 秋のおと 7

   7

 めずらしく、夜、真衣が来ている。

 めずらしく、というより、初めてかもしれない。学校の後期がはじまるまえに岐阜の祖母の家に家族で旅行するとのことで、数日アトリエに来れなくなる。また、そのかわりに来てくれる予定の西田寛子さんも、今夜から友人とみじかい旅行に出ていて、明日だけ来ることができない。つまり、明日一日、だれもアトリエに来れないという。
 ほとんど自分の身のまわりのことはひとり

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第二章 秋のおと 6

   6

「おもしろい……」
 真衣がひとりごとのようにいう。

「先生の手があることで、かえって私の身体が見えてくるような気がします。まるで……壁に手を突くことで、壁があることと同時に自分の手があることに気づくみたいに」
「それでいいんですよ。最初はなにか対象があるほうが、自分の身体を感じやすい」
 それは現代人の〈病《やまい》〉といってもいい現象だろう。なにか対象がなければ、自分自身のリアル

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第二章 秋のおと 5

   5

 真衣は机の端に置いていた左手を、ゆっくりと持ちあげる。
「てのひらを上に向けて」
 私はなにをどうするというかんがえも定まらないなか、なにかに導かれて指示を出す。
「そのまま動かないで」
 上を向いている真衣の左のてのひらに、私の右のてのひらをかさねる。おどろいたのか真衣の身体がわずかに揺れるが、手を引くことはない。
 私は右のてのひらに真衣の左のてのひらの温度を感じる。それは私のて

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第二章 秋のおと 4

   4

 翌日は雨があがっている。とはいえ、多い雲のかたまりが空を速く移動していて、天気は不安定だ。
 ときおりサッと日が射《さ》す、アトリエの窓ぎわに移動させた私の仕事テーブルに、真衣は向かっている。テーブルの上には四つ切りの画用紙が広げられていて、そこにはまだなにも描かれていない。

 真衣は蜜柑色と白の透明水彩をパレット上にほぼ均等に混ぜあわせ、たっぷりと水をふくませた中太の筆で色をすく

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第二章 秋のおと 3

   3

 雨はただ降《ふ》る。人がどう思おうと、都合《つごう》が悪かろうがよかろうが、降るときにはただ降る。雨が降ることを嫌《いや》だとか、よかったとか思うのは、人のかんがえであり、判断だ。雨は人の都合には関係なく降る。
 私は学生のころ、新聞配達のアルバイトをしていたことがある。はじめたばかりのころ、雨が降るととても重い気分になった。雨が降ると配達店に新聞が届くのが遅くなる。雨具《あまぐ》が

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第二章 秋のおと 2

   2

 真衣は真剣な表情で二枚の絵を見くらべている。
 絵はそれぞれ、私の仕事台の上に置かれている。全体的に見て、片方は赤っぽい色あいで、もう片方は青っぽい色あいだ。赤っぽいほうは昨日描かれたもので、青っぽいほうは今朝描きあげたばかりのものだ。触れば画紙の乾きぐあいでどちらがあたらしいかすぐにわかるだろうが、見た眼だけではわからないだろう。いずれにしても、どちらがあたらしいかは、いま問題では

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