見出し画像

「自由」という「不自由」

自由になりたい

僕は様々な人に会い、
話をする中で頻繁に
このセリフを耳にしてきた。

どうやらみんな自由に
なりたい願望があるようだ。

というよりいい方を変えると
不自由になりたがっている人は
ほとんどいないように思う。

僕はこのフレーズを聞くと
必ずこう聞き返すようにしている。

あなたにとっての自由って何?と。


自由とは本当に難しい概念である。


歴史を見ても自由に関する議論は
絶えず行われていたように思える。

それはさておき、
そもそも「自由とやら」を望む人は
何からの自由を望むのだろう?

社会のしがらみからの解放か?

人間関係からの解放か?

経済的な自由か?

地理的な自由か?

何でも構わないが、
まずそもそもどんな自由を
想定しているのか。

特にこれを読んでいて、
何かしらで自由を望む人がいれば
自問自答してほしい。

そこで自由についてさらに
深く考察していくために
一番、票が集まりそうな
経済的な自由について考えよう。

経済的な自由を得るために
必要なものは何だろうか?

そもそも経済的な自由という言葉自体
あいまいなように聞こえるが
ここでは突っ込まず、次に行こう。

経済的な自由を確実に得る方法の中で
僕が思う最強の方法は、
株式配当のみで生計を立てる状態だ。

一般にも最も上位の稼ぎ方として
良く知られているだろう。

もちろんそれに至るまでには
自ら事業を起こし、事業を展開し、
しかるべき険しい段階を経ていく必要がある。

大半の人間はそのような道半ばで
諦め、現状への満足を偽造していく。

まあ、そのケースはここで
話すに値しないので目をつむる。

仮に配当のみで年間1億円の
収入が担保される生活を
想定してみよう。

ほとんどの人の感覚では
経済的に自由」と言っても
過言ではないだろう。

しかし、もう少しリアルに
想像してみてほしい。

この状態にたどりつく王道にして
最もメジャーな方法は、
会社経営だろう。

もちろん複数である。

そうなれば、
会社は様々な社員を抱えることになる。

つまり果てしない人間の生活、
将来への果てしない責任から不自由になる。

構図としてはお金から自由になるために
責任からの自由を失ったという形だ。

もちろんこの責任というのは
果てしなく重く、日々の思考時間を
割いてくるものである。

まぁ、責任を全うしていくのが
楽しく感じるのが事業者なのであるが…


トレーダーや、投資家についても
自由と代償に何かで不自由になることは
避けられないといっていい。


この事実は何をあらわすのだろうか。


僕は自由は存在しないと思う。

しかし自由だと感じるものはある。


そういう立場である。

人は自分が自由だと感じてしまえば
それを自由だといってしまう。

それが実はとても
縛られていたとしてもだ。

この「自由だと感じる」に
大きく貢献するのが、
自分で選択したという事実だと思う。


人はなにか自由的なものに
自由を感じるわけでは決してない。

自分で選んだものに
圧倒的に自由を感じる。

そして幸福を感じる。


余儀なくされている状態を
不自由だと呼ぶ
のである。


想像してみてほしい。


今最も自由そうだとの
呼び声が高いYouTuber。


彼ら自身も不自由だとは
全く思っていないだろう。

しかし彼らは日々編集作業に追われ、
時間的不自由を被っている。

しかし、自分で選んだ道だから
不自由だとも不幸だとも感じない。


しかし企業から集客目的で
やらされた」瞬間に一気に
不自由だと感じるだろう。

かねてより動画撮影をしたかった
としてもかなり不自由に感じるはずだ。


しかし人なんてそんなものである。


本当は自由なんて
宇宙人のように存在しない存在
なのかもしれない。

この記事が参加している募集

自由律俳句

あなたの貴重なお時間で、僕の稚拙な文章をお読みいただき本当にありがとうございました。何か改善点、ご意見などおありでしたらお気軽にコメントいただければ幸いです。