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ヴィヴィアン・サッセンとシュルレアリスムのアップデート/一日一微発見449
2024年の4月、kyotographieにおいて、パリでの展示が、京都新聞社の地下スペースに再構成されたものを見た。初日には、ヴィヴィアン自身が会場を説明してまわるツァーがあり、僕も参加した。コロナ前は毎年、アムステルダムの現代写真のアートフェアUNSEENの時に会っていたから、久しぶりの再会だった。
京都新聞社の地下は、かつてはそこに新聞の巨大な印刷機があった場所だが、今や機械は取り除かれ、
赤瀬川原平 『1985-1990赤瀬川原平のまなざしから』/目は旅をする086(幸福)
赤瀬川原平 『1985-1990赤瀬川原平のまなざしから』(りぼん舎)刊
コンテンポラリーにおけるアート思考は、アートの価値生成にまつわる要点だが、これは反芸術や非芸術による切断体験や、変成のプロセスが必須である。それは暴力的な「破壊」の場合もあれば、そうでない「脱構築(デコンストラクション)」の場合もあって、しかしいずれにせよ「破壊的創造(ディスラブション)であることには変わりない。
この「
アドリアーノ・ベトロサの第60回ヴェニス・ビエンナーレをイメトレする/一日一微発見448
ヴェニス・ビエンナーレに最初に行ったのがいつだったかは定かではないが、はっきり意識的に行くようになったのは2000年頃からだと思う。それ以降はこの2年に1度の国際芸術祭に皆勤賞で行くようになった。
コンテンポラリーアートは、時代を写す鏡であり、もっと言えば未来を予知する水晶の玉だ。
ヴェニス・ビエンナーレを見続けることは、アートの流行りとかの話しではなく、アートを通じて時代や人間の行方を診る重要な
「草取り」をめぐって ダイアン・アッカーマンの『庭仕事の喜び』(春夏)/一日一微発見447
僕は、自分が庭でしていることを「ガーデニング」と言うのにはためらいがある。それは、尊敬するすぐれたガーデナーたちを知っているせいもあるが、最近、自分にぴったりするなと思うのはアマチュア「園芸家」である。
「園芸家」というとカレル・チャペックの本『園芸家の十二ヶ月』を多くの人は思いだすだろうし、それはオシャレな花園にいるガーデナーではなく、もっと泥くさくて、てんてこまいしているニュアンスが園芸家と
ラニアーのAIの本を読みながら、「原爆」ではなく、「芸術」の爆発について考える/一日一微発見444
ジャロン・ラニアーの伝記『万物創造を始めようDawn of the New Everything: Encounters with Reality and Virtual Reality』を読んでいる。めっぽう面白い。
彼は1986年からVRの研究・開発を現在にいたるまで続けているパイオニアで2010年には、「タイム」誌が選んだ「世界で最も影響力がある100人」にも選ばれたこともあるヴィジョナリ
鉄斎の絵を迷子にならずどう旅するか?京都近代美術館にて/一日一微発見443
僕は子どもの頃、阪急宝塚線の蛍池に住んでいたので、うちの父親が初詣につれて行くのは、西宮近くの門戸厄神(東光寺)と宝塚近くの清荒神(清澄寺)の2ヶ所だった。
それはうちの本家が甲東園にあったことも関係していたと思うが、京阪神の商人たちがこぞって参拝する霊地だった。
そして清荒神には、鉄斎の絵のコレクションがあって公開していた(正式に美術館になるのは1975年である)。
当然ながらこちらは子ども故
「野草」であることの戦略・横浜トリエンナーレをめぐって/一日一微発見442
「革命」や「前衛」が失効してしまった今だからこそ、やはり「アート」と「政治」について考えなければならないなと、横浜トリエンナーレの会場を歩きながら思っていた。
リウ・ディンとキャロル・インホワ・ルーの2人がディレクターをつとめる横浜トリエンナーレは「野草:ここで生きている」というタイトルのもとに93組のアーティストたちが集められている。野心的なキュレーションだ。
とりわけ美術館入り口のフリーゾ
junaidaの新作アートブック『 LITTLE LIGHT』呪力の結晶だ/一日一微発見441
junaidaの詩画等集『ともしび』の絵だけをフィーチャーした限定出版の大判のアートブック『 LITTLE LIGHT』を現在、制作している。
6月頃にはお目にかけられるだろう。
その制作過程で、あらためて彼の「絵の力」に圧倒され、考えさせられた。
彼とは知りあってもう15年ぐらいたつ。その間に、彼の絵をめぐる状況は一変した。
だが、僕にとっては、彼の絵は変わらない。
しかし彼の作品は「初期
クリストファー・ノーランの「オッペンハイマー」は賞賛に値するか?/一日一微発見440
僕は今でこそ「アート」の人だと皆思っているが、基本的に編集者だし、広告やキャンペーンのプランニングやクリエイティブディレクターとしての仕事をしてきた。その中でも「音楽」との仕事は大きい。
とりわけ「HIROSHIMA1987-1997」というチャリティコンサートのヴィジュアルワークに10年間にわたって参加したことは大きな体験だった。
それは多くのミュージシャンが出演し、コンサートの売り上げを原爆
佐藤ヒデキ『OSAKA 大阪残景』/目は旅をする085(都市と写真)
佐藤ヒデキ『OSAKA 大阪残景』 (アートビートパブリッシャーズ刊行)
この写真集『OSAKA 大阪残景』は、1989年から90年代初めにかけて写真家・佐藤ヒデキ(1953年生まれ)が撮影した大阪の環状線の内側の街の風景をフィルムで撮影した195点の写真から51点をセレクトし構成した。
企画・編集・発行はワタクシ後藤繁雄(1954年生まれ)が行った。写真は「アカ」「アオ」「キイロ」の3冊に分
春の嵐の翌朝に/一日一微発見439
僕らが棲む、仮の家は窓が大きい。
居住空間は、可能な限り小さくコンパクトにして、逆に外景をたくさんとり入れたかったからである。
だから外のデッキも部屋という考えだし、
浜名湖に面した前の庭、バラや樹木が並ぶ塀沿いのサイドの庭も居住空間。外に食事のテーブルを置くことを前提に考えた。
そして去年から格闘している裏に続く野原のような場所、そこに野趣あふれるボーダーガーデンをどうやってつくれるか最近の僕
ザネレ・ムホリ「Zanele Muholi」/目は旅をする084(私と他者)
ザネレ・ムホリ「Zanele Muholi」(Tate刊)
コンテンポラリーアート、そしてコンテンポラリーフォトを考える時に、それらがたどって来た非対称的(アシンメトリー)な歴史(美術史/写真史)をリシンクすることは、避けて通れない必須課題であり、作業である。
西洋の白人男性、それもストレートの性意識の眼差しによって、多くの表現がうみだされ、文脈化、ひいては歴史化、価値の制度化、権力化が行われ
展覧会「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」は何を自問する?/一日一微発見437
国立西洋美館65年目にして初めての「現代美術」展を見に行く。
最初に感想めいたものを言うならば、よくできたキュレーションであり、しっかりとした見ごたえがある。しかし同時に多くの「現代美術家」をまきこみながらも、あたりまえの自問自答におちいっている展覧会ではないか。
問題設定がどうなのか、という根本的な疑問を感じた。
キュレーションの意図は明解である。
「中世から二十世紀前半までの西洋美術のみを