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【読書感想文】ただしさに殺されないために~声なき者への社会論~御田寺圭(白饅頭)|⑤障害者編|


「ただしさに殺されないために~声なき者への社会論~」。

私は、こちらの本を著者ご本人から、無料でプレゼントしていただいた。

「ただしさに殺されないために」、略して”ただころ”とは、連日のように事実それ以上陳列いけない案件を犯し、さらには白饅頭フォロー罪、白饅頭RT罪、白饅頭購読罪などを犯す罪人を世に放ち続ける、白饅頭尊師の著書である。

ちなみに私も、フォロー罪とRT罪、購読罪を犯している。

本書の帯には、このように書かれている。

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社会を引き裂く事件の背後に何があるのか。

ただしさと承認をめぐる闘争が日常と化したSNS時代に宿る<狂気>を解き明かす。

多様性の名のもとに排除し、自由、平等を謳って差別する

美しい社会の闇の底へー-


言葉を奪われた人びとの声なき叫びを記す30篇

本書は人のやさしさや愛情が社会に落とす暗い影の記録である。

私たちは、自分の中にある「悪」にまるで気づかなくても自覚的にならなくても生きていける。そんな平和で安全で快適な社会で暮らしている。自分たちが狭量で排他的な人間であることから、ずっと目を逸らしていける、配慮のゆきとどいた社会に生きている。

ひとりひとりが抱える心の傷と痛み
だれもが内に宿しているちいさな差別心…
世界が複雑であることへの葛藤を手放し
だれかを裁くわかりやすい物語に吞み込まれた
感情社会を否定する  

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まるで、「フェミニスト」や「リベラル」、「人権活動家」などが闊歩する「インターネット世論」に、中指を立てるかのような紹介文だ。

このような暗黒の書籍を読んでしまって、本当によいのだろうか。

世間の「ただしさ」に迎合してそれらしく振る舞っていた方が、楽に生きられるのではないだろうか。

そんな考えが頭をよぎる。

しかしだ。「ただしさ」に迎合したとして、それが本当に世界を明るくするのだろうか。

私の考えは否だ。

よって私は、「ただころ読破罪」へと歩みを進めた  

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「ただころ」は、序章・終章を含む全7章、30節によって構成されている。

本来であれば全章について詳細に語っていきたいところであるが、有料の書籍であるからそういうわけにもいかない。

そこで、少しだけを抜き出して語っていきたいと思う。

(注)「引用箇所(出典あり)」以外の記述はすべて私見であり、御田寺圭氏の思想とは何ら関係がないことをここに明記しておく。

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 だれしも暖かい気持ちになり、心を揺さぶられてしまう物語がある。

 すなわち「発達障害/コミュニケーション障害というハンディキャップを抱えながらも、そうした障害を持つ人ならではの鋭い感覚を活かして仕事に就き、自分らしく働いている」という物語だ。

ただしさに殺されないために~声なき者への社会論
第2章 5|輝く星の物語より

美しく、前向きで、希望にあふれ、だれも傷つかず、赦しを与えてくれるような物語には、影の表情がある。

 すなわち「なんらかの困難や弱者性を抱える人は、努力を重ねて卓越した存在とならなければならない」といった社会的メッセージが含まれてしまうことだ。

ただしさに殺されないために~声なき者への社会論
第2章 5|輝く星の物語より

私には3歳下の妹がいるのだが、彼女はダウン症と完全型房室中隔欠損症を抱えている。

ダウン症候群(ダウンしょうこうぐん、: Down syndrome)またはダウン症は、体細胞21番染色体が通常より1本多く存在し、計3本(トリソミー症)になることで発症する先天性疾患群である。多くは第1減数分裂時の不分離によって生じるほか、減数第二分裂に起こる。新生児にもっとも多い遺伝子疾患である[1]

症状としては、身体的発達の遅延、特徴的な顔つき、軽度の知的障害が特徴である[2]。平均して8 - 9歳の精神年齢に対応する軽度から中度の知的障害であるが、それぞれのばらつきは大きく[3]、現時点で治療法は存在しない[4]。教育と早期ケアによりQOLが改善されることが見込まれる[5]

ダウン症は、ヒトにおいてもっとも一般的な遺伝子疾患であり[3]、年間1,000出生あたり1人に現れる[2]

Wikipedia|ダウン症候群

「ダウン症」と「発達障害」は似て非なるものだが、本件においてその点は重要でない。

「『発達障害/コミュニケーション障害というハンディキャップを抱えながらも、そうした障害を持つ人ならではの鋭い感覚を活かして仕事に就き、自分らしく働いている』という物語」と聞いて、真っ先に思い浮かべるものは何だろうか。

私は「24時間テレビ」を思い浮かべた。

書道に秀でたダウン症の人間やその他、一芸に秀でた障害者を取り上げ、涙を誘う。

障害を抱える子どもにさまざまな経験をさせ、涙を誘う。

これらを否定するつもりはない。

努力をし、結果を出した人間が称賛されるのは素晴らしいことであるし、子どもに貴重な経験をさせてやるのは素晴らしいことだ。


しかし、この24時間テレビが放送された翌日から、必ずと言ってよいほど「周囲の大人による(無自覚)攻撃」が始まる。

「書道に秀でた障害者」が取り上げられれば、「妹ちゃんにも書道をさせてみたら?」と。

「ダンスに秀でた障害者」が取り上げられれば、「妹ちゃんにもダンスをさせてみたら?」と。

彼ら彼女らに、きっと悪意はない。

善意による思考・発言なのだろう。

「妹ちゃんが才能を見つけ、活躍できるようになったら  」と。

しかし、私はこのような思考・発言に、「差別意識」を感じる。

たとえば、「書道に秀でた男子小学生」がテレビで取り上げられた際、いったいどれほどの人間が、近所の男子小学生に「書道をやらせてみたら?」と言うだろうか。

「ダンスに秀でた女子中学生」がテレビで取り上げられた際、いったいどれほどの人間が、近所の女子中学生に「ダンスをやらせてみたら?」と言うだろうか。

このような発言をしない背景には、「人はそれぞれ。得意・不得意、才能や好き嫌いも違うもんね」という認識がある。

しかし、対象が「障害者」となった途端、その認識から外れるのだ。

彼ら彼女らは、おそらく障害者を「同じ人間」として認識していない。


私は決して、それをとがめはしない。

「障害者」と密接に関わってこなかった人間が  無意識のうちに  そう認識してしまうことは、理解できないことでもない。

私だって、「すべての属性に対して差別意識を持っていないと断言できるか」と言われれば自信がない。

また、ことダウン症においては、「健常者と遺伝子構造が違う」ということもある。

本能的にそう捉えてしまう理屈も理解できる。

ただ、「自分がそう考えているのかもしれない」ということに関しては、一度、己をさぐってみてもよいのではないだろうか。


「障害者」に限らずだ。

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私は、妹にとっては「厳しい」存在であると思う。

「障害者だから」と特別扱いをしないからだ。

世の中には、「障害者だから」と意味もなく甘やかしたり、邪険じゃけんに扱ったりと、「特別扱い」をする人間が大勢いる。

私は妹に対して、そのような「差別」は絶対にしない。

もちろんだが、「得意不得意」や「発達段階」に応じた適切なサポート支援は必要だ。

しかし、それは健常者も同じこと。


私は塾でのアルバイトをしていた時期があるが、同じ学年でも発達に差があったり、極端な得意不得意のある生徒たちを何人も見てきた。

その個人個人に対して、「個別最適化」されたサービス教育を提供する。

もちろん、障害を抱える妹と健常者とでは必要とする支援のレベルが違うが、根本は同じことである。

私は妹を「ひとりの人間」として扱い、ときには号泣するまで𠮟ったり、「ギリギリ手が届く」レベルのことを要求したりしてきた。

そのかいあってか、妹はよく成長してくれている。

「障害者だから」と妥協せずにきてよかったと、心の底から思う。

我が家は父親が家事・育児を放棄してきたので、金銭や契約を除いた「お父さん」の役割は、私が担ってきたという自負がある。

母の認識も同じだ。

「お父さん目線」から見て、「」の成長には涙を誘うものがある。

もちろんだが、私は妹に  気持ち悪いシスコンレベルの  愛情をたっぷりと注いでいる。

妹のために死ぬことはいとわわないし、妹の成長を世界一、信じている。

ただし、本節の冒頭にて引用した、「『なんらかの困難や弱者性を抱える人は、努力を重ねて卓越した存在とならなければならない』といった社会的メッセージ」は持っていない。

「卓越した存在になってほしい」とは微塵も思わない。

もちろんだが、妹になにか「卓越した才能」が見つかり、それを伸ばすことを妹が望むならば、私は全力でそれを支えよう。

私が妹に望むのは、「妹なりに成長し、幸せな人生を送ってほしい」ということだけだ。

とはいえ、ある程度の「礼儀」や「マナー」、「常識」などは持ち合わせておかなければ、ただでさえ白い目で見られやすい「障害者」は、より酷い扱いを受けることになる。


悲しいかな、これは紛れもない「現実」だ。

そのため、そういったことがらについては、とくに厳しくしつけてきた。

「妹ができていないと自分が恥ずかしい」などの、「私の世間体」はどうでもよい。

そもそも、私自身が「ああ、母が泣いている。「私は子育てを間違えた」を執筆しろと迫っている在なのだから。

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私は、妹に対して多くを要求してきた。

何度、厳しい言葉を投げかけてきたか。何度、号泣させてきたことか。

しかし、それでも妹は私を好いてくれている。

彼女は人の「愛情」を読み取ることに長けているので  これは人生に大きくプラスの影響を与えてくれることだろう  、私の愛情もきちんと理解してくれている。

「なぜ自分にそれを要求しているのか」も。

コミュニケーションの根本は愛情である。


これは、「障害者」も「健常者」も変わらない。

一応であるが、決して「DV加害者と被害者」のような関係ではないことは述べておく。

彼女は気遣いが  そこらの大人よりよっぽど  素晴らしいので、そういったことはあるが、私に怯えて「ご機嫌取り」をするところは見たことがない。

これまでの人生で、何度クソ妹に生意殺意気なを抱万年いた反抗こと期野か。郎が


萎縮しているDV被害者がそのような行動をとるだろうか。

「障害」という特殊な特性があろうとも、いわゆる「普通」のあるいは親子関係なのである。

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「『人間の差別意識』が世界から消えてなくなる」だなんて、小学校の道徳でを貰えるような考えは、あいにく持ち合わせていない。


多くの障害者と関わり、多くの「差別意識」に触れ、ときに抵抗し、ときに声を挙げることもできず、そうして生きてきた。

そのような人生だったので、「差別」を目の当たりにしてからというもの、「差別はなくならない」と考えて生きてきた。

しかし、「減らす」ことはできるはずだ。

ひとりひとりが少しでも、己の「差別意識」と向き合うようになれば。

世界は幾分いくぶんか過ごしやすくなるはずだ。


本記事が、その一助になれば嬉しく思う。

※妹になにか危害を加えた者は、私が社会的に or 物理的に殺すのでそのつもりで。いやマジで。

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私は本記事において、「障者」ではなく「障者」と書いた。基本的に、私が「障がい者」と記すことはない。

それどころか、私は「障がい者」との表記に嫌悪感を抱いている。

「『害』の字を避ける」という考えの根底には、「は社会の『害』であるが、社会的な『ただしさ』の手前、『そんなことはない』としなければならない」という認識が透けて見えるようにしか思えないからだ。


障害者家族として妹や多くの障害者(障害児)と関わってきた私は、「人生という『障害物競走』において、『障害者』には健常者よりも多くの『障害物』が存在する」と考えている。


つまり、「障害者の『害』の字は、『生きていく上で障害となる物事が多い』というだけのことに過ぎない」ということだ。

「生きていく上でとなる物事が多い」と書く場合、わざわざ「障がい」などと書くだろうか。

そういうことである。

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冒頭にも述べたが、"ただころ感想文"については、"ただころシリーズ"としていくつかの記事に分割して公開しようと思う。

読書感想文を書きながら"ただころ"を読み進めていたところ、半分ほどしか読んでいない段階で、文字数が10,000字を超えてしまったからだ。

ひとつ言えることは、「ただしさに殺されないために」は近年まれにみる良書である、ということだ。

ページをめくる手が止まらない。

2,200円と、書籍としては若干値の張る代物だが、金額以上の価値は十二分にあるだろう。

ぜひ、1冊。可能であれば、ご家族やご友人にも1冊と、お手にとっていただきたく思う。

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