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フロちゃんの自己紹介

   フロはFroccy Mayの省略系。因みに純日本人。この世に舞い降りてからまだ19年しか経たないが、割と数奇な人生を辿っている気がする。よって自分のことをここで紹介し切れる自信は全くないが、存在している証くらいは残したい。自分語りに付き合ってくれる貴方に、『ありがとう』(*^^*)

   7年半をとあるスペイン語系の国で生きた。今となっては日本にいる年数の方が長い。とはいえ、幼少期の頃の出来事を全く思い出せない訳ではない。寧ろ、鮮明に近い。その地では物価が安く預金残高だけでその頃はやりくり出来ていたみたいなので両親は仕事していなかった。だからこそ一緒にいる時間が多くて嬉しかった。大事にしてくれる人の存在がいつも居る、という安心感があるだけで、非常に心を強くしていられた。毎週朝7時から迎えに行って大きな自分達の家に遊びに来てくれたり、泊まっていってくれたりする友達も沢山居た。ガーデニングが得意な父が育てたお庭は、家を通りすがる誰もが振り返って二度見をするほど常に美しく整えられていた。それは今も、日本に来てアパートになって、規模が小さくなっても変わらない。愛知県名古屋生まれ。様々な仕事をしてきているが、シェフがメインなので料理が抜群に上手い。私が謙遜するのが失礼なくらいにこの上なく得意。国際的に活躍できたはず。だけど、本当に、家族のためにを主として料理を作る。普通になんでも出来る。それを特別世界に広めようとはしなかった。家族との時間を減らしてまでしなければいけない出世や仕事なんて、この世にない。母は綺麗な人だ。人を明るく照らすことに長けてるし、誰かに自分から声を掛けることに抵抗感をまるで感じていない。沖縄で生まれたが、母の両親は度重なる紛争などで命を落とした為、その両親の友達である外国人の元へ預けられてそこで育った。大人になり、大学で日本について勉強していて興味を持ったので、日本に働きに行った。そこで父と出逢った。2人とも世界各地を旅行で回りながら2つの国を行き来していた。「イチロー」という名の犬も飼っていた。白のトイプードルで、散髪屋をしていた父が髪をカットしていた。母と私の髪もカットしてくれる。イチローは「アンドッグス」というチキンを食べる時、他の食べ物では見られないと言っても過言ではないほど貪り漁っていた。私達が買い物や少し出かける時は必ず、二足立ちして前足を上下に動かしてバイバイしてくれる。普段の寝床は外だけど、台風の時は怖くなって家に入らせてとドアを引っ掻きながら強請る。台風の時だけじゃなくても頻繁に家に入れてよく遊んだ。お陰で私は寂しい時がなかった。
      学校では給食は無い。お弁当か、一度家に帰って食べてから午後の授業を受ける。時間割は特になかったからそれが可能だった。その昼休みを使って日本食を食べたいが為にこぞって「今日は私が!僕が!」と言って自分の家に来るかどうかで言い争っていた。だから毎日昼ごはんの時は、「お、また新しい友達できたのね」とか親に言われる。違うんだ、順番待ちで混んでるだけなんだ(笑)時間割がないと言った通り、きちんとしたカリキュラムがある訳では無いので大体皆が揃ったか、12時〜13、14時になったら授業再開。取り敢えず決まってないの。朝は5時起き。6時から始まるから。女の子は当たり前のように化粧をしていく(幼稚園の卒業式では男の子でさえ強制的だった)。朝から何をするかと言うと皆で広場に集まるか、そのまま教室で端っこに置いてあるマリアの象に向かってお祈りをし、そして国家を歌う。広場に集まった時は一同揃えてのダンスをしたり、例えば何をするか分からないけど家からゴーヤを持ってこいと言われてそれをリーダー的な人が集めたり、多分何かを比べて突然優勝宣言をしたりしていた。私はその時持ってくるのを忘れたので数本持ってる誰かに借りて、何が起こったか分からないまま持って帰った。そもそも誰かの言うことを聞くこと自体が嫌だったので、言われたことに従わなかっただけということは多かった。あ、朝の集団行動的なことをする前に、教室に来た人からお菓子を買うんだ。いや、買わされる。買わなくてはいけない。それもなんと、先生が販売しているお菓子だ。気に食わないわけではない。子供だったからお菓子が食べられるだけで喜んだものだ。今考えれば、タダであげてもいいのにとおもう一方で、生活費の足しにする為の努力を必死でしていたのかなと。だからいくら"可笑しな話"だとしても笑えない。……貴方は笑っていいよ(*´ω`人)学校から帰ることが出来るのは午後4時過ぎ。
      こうして思い出すと全てを美化してしまいそうになる。私は運がいい。賑やかで楽しくて、何不自由なく笑顔の日々を沢山過ごさせてくれた国。沢山の新鮮な感情に毎日のように出逢わせてくれた国。私を必要と感じる人が沢山いて嬉しさを存分にくれた国。そんなにいいことで溢れてるなら離れなければ良かったでは無いか、と貴方は思うだろうか。何で日本に帰ったか疑問だろうか。生まれ育った国を捨てたいと思わせた何か、日本に行きたい、帰りたいと思わせた何かとは。勿論親族のいる土地に旅行として訪れてみたい憧れはあったが、「いじめ」には勝らない。耐えられなくなったのではなく、耐えなければいけないことでは無いと思ったから、迷わず厭わず親に報告して、2歳からあった生き地獄を抜け出す決意をしたのだった。私の為に日本に帰ることを選んでくれた両親に、感謝(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)
      友達として仲良くしてくれた人が多い中、私が日本人であることを疎ましく、妬ましく思っている人も少なくない。日本人はお金持ちだというイメージがあるから。父母も向こうの人達にお金を無心されたり、泥棒されたりしていい思いばかりをしてきた訳では無いのだ。しかし、どんなことをされてきたか、そんな暗い話や悪口をわざわざ連ねて書くようなことはしない。私にとってはどちらの国も大切だ。それぞれで過ごした記憶で、築いてきた自分の感受性を以てして今の私に繋がっていることを忘れてはいけない。誰もが、大切な思い出が人生でしょ?
         

           2010年11月15日月曜日18時(日本時間、向こうより1時間早い)、日本帰国。イチローはというと、実は、この約2週間前、11月2日火曜日19時に安楽死させた。何故なら、買い物をし終わってから家の周りで父が遊ばせてた時に、車に轢かれてしまったのだ。しかもダブルタイヤによって脚の損傷は酷かった。病院は遠く日本へ帰るための出費で治療費を出す余裕がない。日本へ連れて帰る費用も出せないので、自分たちの住んでいた家を買ってくれる次の住人が主人となる。だが、イチローは私たち家族が好きだ。他の人の言うことなんか聞くわけない。訳も分からずとつぜん私達が消えることになって、もし生きていくとしても寂しくて辛い思いをさせてしまうのは目に見えていた。だから、最期を看取るのが私達で本当に良かった。本音では本当は、もっと一緒に生きたかったけれど最終的に、あの夕方に安楽死させるという選択をしたことを後悔していないという結論に達する。

       ここまでで話したことは一部でしかないが、日本に帰るまでにどれだけの刺激的なことを経験出来たことか。初めから日本にいたら分からなかったことばかりではないだろうか。ただそれは比べる対象を持っているからこそ考えられること。仲良くしてくれたあの友に会いたいと思うことはあるが、戻ってまた同じ生活をしたいとは思えない。日本での暮らしやすさを知ってしまったら当然だな。外国に行ったことのない人は気づけないかもしれない。大袈裟な表現に聞こえないくらいな日本は「魔法の国」のように感じた。何でもあって、揃っていて、素晴らしい。日本のみんな、母国をもっと誇りに思っていていいのに。謙虚なのか、自己肯定感が足りないのか……。周りと比べて落ち込む人が多い気がする。それだけ真面目で真剣で、完璧主義な人が多い証拠かもしれないけど、その何事も真摯に向き合って生きる姿は格好良い。あと少し、自分が自分を許せる範囲を広めたら、ほんの少しでも心も軽くなるはず。

      私は日本に帰ってからも小3に上がるまで暫くはいじめられていたから合計で8年間だ。私を取り巻く環境を変えることで無くなると思っていた。あの時抜け出したと思っていた。自分に向けられる攻撃は待っていれば、誰かが助けれくれれば止むと思っていた。だが、それだけじゃ足りない、自分自身が変わらないと始まらない、そう直感した。自信をつけて堂々と生きたい。見下されながらひもじい思いをするのとはもう、おサラバしたい。何時までも負け犬で、やられっぱなしであることだけは私は自分自身に許したくなかった。勉強なり、書道なり、美術なり、声楽なり、自分の好きなことを極めて人と何かで秀でていよう。突き抜けすぎて、杭が出すぎて誰も打つことが出来ないくらいの領域に辿りつこう。そうやって何年も図書館通いして、多種多様な価値観に触れ視野を広めつつ自分との対話を繰り返しながら、興味を持ったことに一定期間全集中力を発揮して武器と化す為に育てていった。何でもやってみたら自分の本当に好きなものが見えてくるのは事実だと身をもって体験することが出来た。私は時間の豊富な時期を使って自分自身を実験台にしていたのだ。そして見えた。私は藝術が好き。傍にあって当然なものとして、これから続けていくことが自然であることとして絵を描くことが好きだ。絵をプレゼントして相手に喜んでもらえた時の感動は忘れられない。こんな私でも人を笑顔にさせられるものがあることを知った時は、生きる世界が広まったと感じた。中高はコーラス部で誰にも負けないくらい歌い方は上達したし、頑張って勉強してやっと行けた高校だったけど、何をするにも絵を描くための引き出しを増やす為であることを念頭として置いていた。美術に携わりゆくことを軸として様々なことに取り組んでいた。他の道もあるかもしれないと寄り道した期間は長かったけれど、これでもう心置きなく、藝術事に時間を捧げることが出来る。(私は、ではあるが)経験上、美術は他の何かとの両立が難しい。後悔する前に、ひとつに絞る前にやりたいことやれるだけやって、結果出すなり納得出来るところまで持っていくなりを達成してから美術の元に戻ろう、という計画を11歳の時にした。12歳の卒業文集でも夢を書いた。過去の自分はずっと監察している。だから私は動きを辞めない。未来の自分には、『現在』を生き続ける私に感謝されたい。人生常に本番。全力で駆け抜ける理由が、価値が、ここにある。人に幸せを与え続ける人になる。心を磨き、寛容深く機知に富んだ、博識な人格者。豊かさをもたらし、世界にいる一人でも多くの人に輝きを、光を灯せる人になる。誰もが尊敬せずにはいられないくらいのスケールで、人を圧倒的に大事にする。それらのことを通して初めて、私の絵も共に成長するだろう。



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