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蛇に飲み込まれた桜

連載シリーズ 物語の“花”を生ける 【プロローグ】はこちらから

第14回 『桜心中』(泉鏡花)

以前、勤めていた職場の向いに、ちょっとした古めかしいお屋敷があった。

木の塀に囲まれた緑豊かなお屋敷で、春には見事な桜を塀越しに見ることができた。欲張りな私たちはお屋敷の庭が真上から見渡せる上階の会議室でランチをしながら、ガラス越しのお花見を楽しんだ。

夏にはお屋敷の鬱蒼とした木々に生息する蝉の声がきこえ、池があったのか、沼臭いというか、苔が暑さで蒸されたような匂いがした。クリスマスが過ぎると、大きなホテルでしか見られないような立派な門松が立てられ、その年が終わろうとしていることを感じた。

江戸城を取り巻くように建てられたどこかの藩の上屋敷の一部で、おそらく屋敷内の庭園にあった東屋か離れのような一角が、住居として人手にわたり使われていたのではないかと想像させる、箱庭程度の広さなのだが、その内では、日本の高度経済成長やバブル経済の喧騒、その後の凋落とは無縁な、悠久の時間が季節とともに巡っては去り、巡っては去りが繰り返されているような気がしていた。

とはいえ、東京千代田区の一等地、ある怪談話でも有名な場所柄、お節介にも相続を心配する輩もいた。お屋敷のご主人が(なぜか一度もお見かけしたことはない。職場のオフィスが入っていたビルと向かい合っていたのは裏木戸側だったのか、人が出入りするのをほとんど見たことがなかった)亡くなったときには、相続人たちは土地を売却して相続するだろうし、そうしないと相続税が支払えないのではないかと噂した。

たしかに現実問題はそうなのだけれど、そんな話しを聞くと、“秘密の花園”が汚されたような気がして、気分が悪かった。

しかしその日はとうとうやってきた。「忌中」の紙が、塀に貼られたのだ。子供のころは、自宅で葬式を出す家があると、門や玄関の扉の近くに「忌中」という紙が貼られているのをよく見かけたものだが、マンション暮らしが長く、葬式は寺院かセレモニーホールで執り行われる昨今、そんなものを見ることもなくなっていた。

亡くなった方が必ずしもお屋敷のご主人とは限らない・・・。「忌中」の紙に向かって手を合わせながら、胸に湧き上がってきた嫌な予感を打ち消そうとした。

しばらくお屋敷に関する動きはなく、なにごともなかったかのように、また箱庭では季節が過ぎていった。そんな様子にすっかり安心しきって、亡くなったのはご主人ではなかったのだと思い込んでいたある日、大きな重機が動き出す音がした。

何の音だろうと思って窓に近づき外を見ると、向かいのお屋敷の家屋が取り壊され、池が埋められ、木々が切られようとしていた。社内の誰もがその箱庭を自分の庭のように思っていただけに、騒然とした。

私も例のお花見をする上階の会議室に駆け上がっていくと、それまで木々で覆われていて見えなかったお屋敷の全貌があらわになっていた。緑豊かな箱庭の変わり果てた姿に震えが止まらなかった。とうとうはじまってしまった・・・。窓に張りついていた社員たちが、それぞれに言葉を失った。

いよいよチェーンソーがあの桜の木に手をかけようする。

せめて桜の木だけは切らないで・・・ビルを建てたって、桜の木は残せるはず・・・。

皆がそう祈った瞬間、突然チェーンソーのブーンというが止んだ。

???

何があったのかよくわからないながらも、目を凝らしていると、まだ壊されていなかった木戸から、屋敷の中に入っていく人の姿が見えた。

???

あれ、〇〇さんじゃない?

横で見ていた同僚が声を上げた。〇〇さんとは、勤務先の代表だ。代表は中で重機を操作する人や現場監督のような人と話しをはじめた。

ああ、〇〇さんなら桜の木を救うことができるかもしれない。

私をはじめ誰もがそんな期待を抱いた。しかし同時に、泉鏡花の『桜心中』の結末が頭をよぎった。

* * *

母の通院付き添いの長い待ち時間に本屋に入ると、『文豪怪談ライバルズ!桜』(東雅夫編 ちくま文庫)という本に手が伸びた。

桜をテーマにしたアンソロジーはいろいろとあるけれど、怪談という切り口は新鮮かも・・・などと思いながらパラパラとめくった。すると目次の頭に『桜心中』の文字を見つけた。

あの『桜心中』? あれが怪談?

学生時代に、泉鏡花の研究をしていた先輩に、歌舞伎役者の坂東玉三郎による『天守物語』を芝居でなら観たことがあるけど、代表作の『高野聖』ですら読んだことがないというと、意にも解さず涼しげな顔でこういった。

『桜心中』ならあなたの好みかもしれない。軍隊の命令で切られる運命にある桜の精が、夫と思っている桜に会いにい行くのよ。そこですったもんだあって・・・という話しなんだけれど、読んでみたら?

桜の精?切られる運命?夫の桜?にわかには理解しがたいキーワードばかりだったけれど、神話を思わせる荒唐無稽なストーリーに俄然興味が湧いてきて、大学の図書館で何度か挑戦した。

しかし、鏡花の文体にどうしても慣れることができなかった。古文と現代文が混ざったような不思議な文体、流れるようなリズムや和歌や漢詩を思わせる典雅な言葉遣いや表現があるものの、専攻していた『源氏物語』のような古文でもなければ、今日の現代文でもない。鏡花と同時代の漱石や鷗外、田山花袋とも違う何かで、まったく歯が立たなかった。

30年ぶりにもう一度挑戦してみようと『文豪怪談ライバルズ!桜』をさっそく購入して、病院の待合室で読み始めた。相変わらず、現代の私たちにとっては読みやすいとはいえない文体ではあったけど、仕事で苦手な分野や知見のない分野の資料を読んできたせいか、あるいはお世辞にもうまいといえない文章をたくさん解読してきたせいか(それと“文豪”を比べるのも失礼な話しだが)、学生のときよりは忍耐強くなっていた。

あのとき読み飛ばした冒頭から読んでみる。

ある茶店で盲目の男と店の主人が下世話な世間話に興じていると、主人は飼っている鶯の餌の準備をはじめる。鶯をよい声で鳴かせるために、餌に焼いた蝮(まむし)を秘伝の調合で混ぜて与えるという。その餌を食べた鶯は単に声がよくなるだけでなく精力が増大すると聞いた盲目の男は、自分がその鶯を食したいと考え、金三十両で譲り受ける交渉が成立する。

すると別室で休憩していた美しい婦人から、鶯の声がよいからその姿を見たいとの所望があり、女中が主人の許可を得て届ける。婦人は鶯の声、姿にうっとりしながらも、「お前さんね、お腹が空いていても変なものを食べるんぢやありませんよ。……可(い)いかい、蝮が欲いなら熟(じつ)として此処においで、可厭(いや)なら、籠を出ておくれ、分つて?さあ、」(25ページ)といって、鳥籠の戸を引くと、鶯は飛び立っていった。

驚き慌てふためく主人と盲目の男は婦人に悪態つくも、婦人は清々しい様子で金貨一を置いて席を立つ。近くの食事どころで食事をしているから、不足だったら松下雪といって呼び出してくれといって、公園に向かって歩いていった。

夜更けにその婦人が公園の中をひとり歩いているのを不審に思ったある青年が、声をかける。青年は婦人の様子から、自殺するのではないかと思ったのだ。声をかけられた婦人は、自分は軍隊の命令で切られる運命にある江月寺の枝垂れ桜の精だと名乗り、公園内の夫と慕う富士見桜に別れを告げにきたが、桜は何も言ってはくれないので、桜に成り代わって何か言ってほしいと青年にいう。

青年は婦人の荒唐無稽な話しに面食らいながらも、軍隊の命令とあってはどうすることもできない状況に、一緒に死のうと言い出す。そして・・・

そうか、こんな話しだったのか・・・

戦前に編まれたらしい『鏡花全集』(岩波書店)を、大学の図書館でホコリにまみれながら読んだときには、後半の婦人と青年とのやりとりしか理解できなかったのだが、衝撃の結末に向けて、前半にこのような伏線が引かれていたのかと合点がいった。30年の時を経て、やっと話しの全体像がつかめた。

そして、明治初年五月の金沢が舞台になっていることもわかった。『文豪怪談ライバルズ!桜』の解説によると、切られる予定の江月寺の枝垂れ桜とは、金沢に実存する松月寺の大桜がモデルで、桜の精(婦人)が夫と慕う公園の富士見桜は兼六園内の旭桜がモデルだという。

明治政府の富国強兵政策による近代化にともない、それまで美しいとされながらも、経済性にも強兵性にも寄与しないものが壊され、傷つけられていくことへの哀感と読むこともできるのだが、話しの全体像がつかめたとき、もっとその奥に別の何かがあるような気がした。


切られる桜、桜の精

桜といえば、古来、咲くことや散ることが文学作品の重要なテーマになってきた。特に「散る」ことに、ものごとの変化や命のはかなさ、もの狂おしさ、その延長にある死のイメージを見出してきたのだが、桜の木が切られることがテーマとなる作品については、すぐに思い浮かぶものがなかった。また、「桜の精」というのも、説話あたりにありそうな気もするけれど、これもピンとくるものがなかった。

「切られる桜」と「桜の精」についてインターネットで調べてみるものの、すぐにはみつけられなかった。試行錯誤しているうちに、民俗学関係の調査で報告された怪異・妖怪の事例を網羅的に収集している国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」にたどりついた。すると、北海道松前の光善寺にある樹齢300年の古木の桜に、以下のような伝説があることがわかった。

松前城本丸に隣り合った寺の光善寺と龍雲寺があり、この2本の桜の根はつながっているといわれる。この桜には伝説があり、昔、お芳という娘が芳の山から手折って持ち帰った桜が成長したもので、一重桜に八重の花が咲いたという。ある時、この桜に血脈がかかっており、誰も取りに来るものがいないので、桜の霊魂が血脈を頂いたのだという噂がたった。

国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」

これを読んでも、にわかに『桜心中』の何かと結びつけて考えることはできないけれど、どころどころ原初的な何かを感じるところがある。

まず前半の「光善寺と龍雲寺があり、この2本の桜の根はつながっているといわれる」という部分は、『桜心中』の江月寺の枝垂れ桜(桜の精)とその向いにある公園の富士見桜が夫婦の桜であることに通じると感じたため、さらにリサーチをかけた。

龍雲寺、現在は龍雲院というのだが、そこの蝦夷かすみ桜は、血脈桜とともに松前の三大桜と言われ、樹齢100年前後のものらしい。鏡花が『桜心中』を書いたのは、それよりももっと前なので、この部分は、『桜心中』とのつながりはないと思われた。

一方、後半のお芳という娘が持ち帰った桜に血脈がかかっていた、それは桜の霊魂がおいていったと伝えられているという部分をもとに、光善寺の桜について調べてみると、お芳は鍛冶屋の娘で、父親の隠居とともに上方へ旅をした際、吉野で懇意になった尼から贈られた桜を、松前に戻ってきて菩提寺である光善寺に寄進したとあった。

後年、光善寺の本堂を立て直す際に、桜の木が邪魔だということで切られることになっていたが、ある夜、今日明日の命であるため血脈が欲しいといってきた若い娘がいた。その熱心さにほだされて住職が血脈を授けると、翌朝、桜の木にその血脈がかかっていた。住職は血脈をもらいにきた若い娘は桜の精かお芳の霊だったと悟り、桜の木を切るのをやめたという。そのような言い伝えにより、桜は「血脈桜」と呼ばれているという。(※1)

やっと「切られる桜」と「桜の精」にたどり着いた。

ちなみに「血脈」とは仏教用語で、師から弟子へと何代にもわたって教法が受け継がれることを血のつながりに喩えた言葉で、法門の由緒を証明するためのものだという(※2)。寺の桜の由緒を語る伝説なので、桜といえども仏道に帰依する心があったことで切られずにすんだという仏教説話的な結末になっている。

「切られる桜」と「桜の精」という共通点を持つ血脈桜と『桜心中』、どのような関係にあるのか。結局現時点では、その直接的なつながりを示す材料を見つけることはできなかったが、一つだけ興味深い解説を読んだ。それは血脈桜の伝説は、北前船という北海道から北陸側の日本海を経由して下関を周り込み、瀬戸内海に入って上方に到着した船の往来が持ち込んだ文化のひとつだということだ(※3)。

北海道と上方を結ぶ船によって、桜の名所である吉野からもたらされた桜だということなのだが、そのルートや造船には北陸の加賀藩も関わっていたという(※4)。加賀藩は鏡花の故郷金沢に城主を持つ、百万石ともいわれる大きな大名藩だったことを考えると、物品の通り道として、このような伝説も一緒に伝わっていたのではないか。

血脈桜は、「松前早咲」という品種で、基本的には本州にはない桜と考えられている。しかし、石川県農林総合研究センター管轄の林業試験場の樹木公園には、この品種の桜が植えられている(※5)という。この桜がいつの時代に植えられたものかは分からないが、北前船の往来によって血脈桜の伝説とともに、松前早咲がもたらされたと考えると、『桜心中』との距離がグッと縮まると感じるのは、想像の翼を広げすぎだろうか。


桜にからむ義経伝説との関係 その1 『義経千本桜』

さて、この血脈桜にはもう一つ『桜心中』との共通点がある。それは義経伝説を内包していることだ。といっても、血脈桜そのものというよりは、血脈桜が植えられている光善寺の伝説というべきなのかもしれない。源義経が兄頼朝の追手を逃れて、奥州藤原氏を頼りながらも裏切りに合い、衣川で討死したと言われているが、実はさらに北を目指して逃れたという義経北行伝説を伝える「義経山」の碑が血脈桜のそばにあるという(※6)。

『桜心中』では、江月寺の枝垂れ桜の精だと名乗る婦人が、夫と思う富士見桜とのことを以下のように語っている。

昔、義経主従が、山伏に成つて、安宅を越して、此の北国の海道筋を、大野の浜へ通る途中、此の樹の下にお憩ひだつたと言ひ伝へて、卿の君の記念(かたみ)に胎つて(のこって)、(君桜)と云ふにつけて、富士見の方は、判官桜と云ふんですつてね。

『文豪怪談ライバルズ!桜』49ページ(東雅夫編 ちくま文庫)

卿の君って誰だろう?

義経に関係のある女性といえば白拍子の静御前しか思い浮かばなかったのだが、ふと歌舞伎や人形浄瑠璃でお馴染みの『義経千本桜』を思い出し、そのストーリーを確認してみた(※7)。『義経千本桜』のストーリーは複雑なので詳細はここではふれないけれど、その中に卿の君はいた。義経の妻で、義経の不忠を疑う頼朝の使者に、平家の養女であることを疑われて、夫義経と本当の父親(実はその使者)を守るために自害する女性だった。

ただし『義経千本桜』の中には、婦人(桜の精)が語るようなエピソードはなく、奥州までの道々に残る義経伝説の一つなのかもしれない。

婦人は桜の精として、自分をこの卿の君に、夫と思う富士見桜を義経になぞらえ、そこに婦人自身が、結婚してたった3日で夫と死に別れた身の上とはかない縁を重ねている。妄想とも真実とも分かちがたい婦人の語りは、何度読んでも、桜の精としての話しなのか、婦人自身の話しなのかの区別がつかず、頭がクラクラしてくる。

そしてさらにもうひとつ、桜にからむ義経伝説がちらつく。


桜にからむ義経伝説との関係 その2 『一谷嫩軍記』

青年が、婦人の懇願により、富士見桜になりかわって一緒に死のうというと、婦人は本懐を遂げたといい、富士見桜から切りおとしてきた一枝を髪に挿して、自分の小指を切り落とす。

婦人は桜の一枝の代わりに指を切り落としたというのだが、これも最初、よく分からないなと思って調べてみると、『一谷嫩(いちのたにふたば)軍記』の重要なテーマになっていることが分かった(※8)。これも歌舞伎や人形浄瑠璃ではお馴染みだが、第三段の「熊谷陣屋(くまがいじんや)」が特に有名だ。

平敦盛が後白河法皇の御落胤であることを知った義経は、ある恩義から敦盛を救いたいと考える。一ノ谷の合戦で訪れた須磨の陣屋に咲く若木の桜に「一枝(いっし)を盗むものは、一指(いっし)を切り落とす」という制札(禁止事項を書いた札)を立てる。

その制札の真意を察した義経の家臣熊谷直実は、敦盛を討ったと見せかけて、我が子小次郎を身代わりとし、その首実検に小次郎の首と制札を義経に差し出すというストーリーだ。タイトルにある「嫩(ふたば)」とは、柔らかい新芽、つまりふたりの若者敦盛と小次郎のことなのだろう。

「一枝(いっし)を盗むものは、一指(いっし)を切り落とす」とは、敦盛(桜の一枝)の代わりに、小次郎(一指)を差し出せということを意味したわけだが、『桜心中』にもそのテーマが重ねられている、婦人は切られる枝垂れ桜の身代わりに自らの小指を切り落とした。私にはそう思えるのだ。

婦人は何の関係もなく桜の精だと名乗るのではなく、江月寺の脇に亡夫の故い屋敷があり、その奥まった二階から江月寺の枝垂れ桜が咲くのを眺め、それを楽しみにしていた。むしろ婦人こそが、枝垂れ桜にまつわる卿の君と義経夫婦の伝説に自分と夫を重ねて、その思い入れから桜にのり移った、あるいは桜の精を引き出したとも言える。

婦人にとって、枝垂れ桜は亡夫を偲ぶよすがであり、自分自身そのものなのだ。だから自分が身代わりになって一指を切り落とす(死ぬ)ことで、桜を救いたいと考えたのではないか。

さきほど、「江月寺の脇に亡夫の故い屋敷があり、その奥まった二階から江月寺の枝垂れ桜が咲くのをみて」と書いたのだけれど、作品の本文には「相馬の古御所のやうな奥にかくれて、忍びづくりの二階から(枝垂れ桜が)見えます」(51ページ)とある。

「相馬の古御所」というのも『世善知鳥相馬旧殿(よにうとうそうまのふるごしょ)』という歌舞伎の演目一つで、平将門が天慶の乱で討たれた後、遺児で妖術使いの滝夜叉姫(たきやしゃひめ)が相馬の古城に籠って、亡父の仇を討とうと天下転覆を謀る話しだ(※9)。

『桜心中』では、隊列の通り道にあると邪魔だという理由から枝垂れ桜を切るよう、軍隊が命を下したとある。「軍隊」とはおそらくときの国家体制や政治体制と同義であり、その命令が覆ることはない。

 馬上で樹の下を潜(くゝ)るのに、馬の鬣(たてがみ)が乱れます、旗を倒さねば成りません、槍を伏せねば成りません。
 槍は北斗の星をも貫き、旗は雲井(くもゐ)に翻(ひるがへ)るべきものなのです。鬣(たてがみ)の乱れるのは、崩(くづ)るゝ女の黒髪より大切です。
 切られなければ成りません。枯れなければ成らんのでせう。
 覚悟に未練は無いけれど、悲しいもの、貴方(あなた)、情けないもの、貴下(あなた)、果敢(はか)ないつたらないんですもの。

『文豪怪談ライバルズ!桜』49ページ(東雅夫編 ちくま文庫)

婦人はこのような覚悟したからこそ、滝夜叉姫のような抵抗を試みたのだ。

婦人は一見するとはかなく美しく、無力で感傷的な女性のように描かれている。しかし、夫と父親を救うために身代わりとなって自害した卿の君、敦盛を救えという命令に従って自らの子を身代わりに差し出した直実など、身代わりによる死をテーマとする歌舞伎、人形浄瑠璃の世界を幾重にも重ねるとともに、亡父の仇を討とうと天下転覆を謀る滝夜叉姫の世界を引き込むことによって、深い覚悟と激しい思いを持って桜が切られることに抵抗する婦人が読み出せるのではないか。

さて、小指を切り落とすまでの婦人の覚悟の甲斐あって、その直後、枝垂れ桜の伐採を命じた張本人の士官が現れる。ふたりのやりとりを背後の崖の木の陰から見ていたという。『一谷嫩軍記』で直実の持ってきた首を実検する義経のような存在で、婦人の言葉や行動に現れた軍人にもない覚悟に感じ入って、命令を取り下げると約束した。

しかしその約束に婦人と青年が安堵したのも束の間、思いがけない人物がやってくる。

蛇性をもつ盲目の男

前半、婦人が茶店で、金三十両での買い付けが決まっていた鶯を逃がしたのを根に持った盲目の男が、婦人の後をつけてきていた。士官と婦人と青年のやりとりをみていた男は、女ひとりにいい格好をしたくて命令をとりさげるのかと言いがかりをつけ、地元の有力者や新聞に訴えてやると言い出す。

この盲目の男は、下川忠雄という名で地元の金貸しの倅で(せがれ)あり、検校(けんぎょう)だという。

検校といっても、鎌倉時代末から室町時代に成立し、江戸時代まであった目の不自由な人たちによる平曲、地歌、箏曲、三味線、鍼、按摩といった職業を束ねる特権的な集団の最高位の検校ではなく、明治に入ってそれが廃止された後、音楽の技芸に携わるものに、技芸の資格名として与えられたもの(※10)だと考えられる。

前半、茶店の主人との会話から、下川は箏曲を生業とすることがうかがえるので、資格保有者としての検校なのだろう。

実家が金貸しを営み、金三十両がすぐに用意できるくらい裕福で、いいがかりの中に出てくる地元の有力者や新聞関係者とのつながりがあるもの、その昔、職業集団内で官職を得るのに納められた莫大な金銀(上納金)を使った金融業が、幕府から特別に認められていた時代(※10)の名残りなのではないか。

士官、青年、婦人の前に下川が現れたとき、青年が下川を激しく嫌悪して、「其は土着の動物です、此の国には穴居時代の、こんな、蜘蛛が沢山居ます。奇怪な道徳の巣を編む虫です。……様子が分からないと扱ひ悪い。」(59〜60ページ)と声を荒げる。

「穴居時代」とは前近代の江戸時代のことで、「土着の動物」や「蜘蛛」「奇怪な道徳を編む虫」とは、職業集団に許されていた治外法権を傘にきて、いまだに好き勝手傍若無人に振る舞う下川をそう表現している。

青年には以前にもこの公園で、別の婦人が塞ぎ込んでいる様子をみかけながらも、声をかけることができないでいたら、後日身を投げて死んでしまったという過去があった。その婦人(実は良家の娘)が勤務する工場の主人が下川で、婦人を口説きながらも相手にされなかったことを恨んで、嫌がらせをしたことが自殺の原因だった。下川に関わってはいけないことを、青年は知っているのだ。

下川は前半から服装、姿かたち、話し方、笑い方などのすべてにおいて嫌悪すべき人物として描かれていて、ここでの登場では、「腹を引摺るやうに脊筋を畝らし、蛇のように潜んで居て、此のときのろりと立つたのである。」(58ページ)、「毒の溢れた紫色して、黄なる歯をむき唇を震わせながら、三人を見送って、の矗(しゅく)したる如く、背畝りして突立つたが」(61ページ)と「蛇」にたとえられている。

蛇と桜の組み合わせといえば、和歌山県の道成寺に伝わる安珍清姫伝説が舞踊化された『京鹿子娘道成寺』を思い出す。(※11)

桜が満開の道成寺では、鐘楼再興の奉納と供養が行われていた。そこに、ひとりの白拍子がやってくる。道成寺ではその昔、僧安珍を慕い追ってきた清姫が、大蛇となって安珍をかくまった鐘もろとも焼き尽くして以来、女人禁制となっていたのだが、白拍子の美しさにほだされて、舞を舞うことを条件に入山を許す。その白拍子、じつは清姫の化身で、舞を舞っているうちに安珍への妄執を思い出し、再び大蛇となって鐘に絡みつく。

『桜心中』に、『京鹿子娘道成寺』の桜や大蛇がそのまま当てはめられているというわけではないけれど、満開の桜のもの狂おしさ、蛇に象徴される手放しがたい妄執、そこからは決して逃れられない運命といったものが、響きあっているようにも思えてくる。

大蛇や蛇というのは、古来、水の神の化身であり信仰の対象でもあったが、時代が下るとともに、邪淫や妄執の象徴となった。上田秋成の『雨月物語』に収められる「蛇性の婬」も、かなり乱暴な言い方をすれば、中国の白蛇伝説(白蛇が美しい女性に化けて、淫慾を満たそうと若い男性をさらう民間伝承)と安珍清姫伝説を足して二で割ったような話しで、江戸時代後半には妄執ゆえの怨念と復讐のシンボルとなったという(※12)。

青年が過去に声をかけそびれた自死した女性への下川の執心を考え合わせると、下川の蛇性には、鶯を逃した美しい婦人(桜の精)への語られざる邪な執心が垣間みえる。

結局士官は、下川の「土着の動物」「蜘蛛」「奇怪な道徳を編む虫」そして「蛇」を思わせるいいようのない不気味さにうろたえ圧倒されて、桜の木を切ると翻意する。ついには婦人と青年を連れて、その場を立ち去るしかなかった。

下川は士官に言いがかりをつけ、婦人が大切に思う枝垂れ桜を切らせることで、鶯を逃したことへの復讐を果たしたのと同時に、決して手に入ることのない高貴な婦人(婦人はある公爵の娘で亡夫は子爵)への禁忌を犯したと思えるのだ。

ここまで読んできてはじめて、前半の鶯とその餌に混ぜられる蝮が、婦人と下川の関係そのものだったことに思い至った。そして桜に象徴される女性に対して禁忌を犯すのは、日本神話から続くモチーフである(※13)ことに気づくとき、それが「軍隊」や「士官」という近代化の象徴ですら飲み込む不気味な力となりうることに、身震いがした。

三人が立ち去ったあと下川は、婦人が切り落とした小指を投げ捨てた川に入って・・・

* * *

向かいのお屋敷の桜の木を切らないよう交渉をはじめた代表は、ある繁華街で事業を起こし、事業がある程度の規模になったタイミングで、この地域に住まいと事業を移してきた。

公益に資する事業だったこともあり、町内会や自治会にも積極的に参加し、地域の行事やお祭り、催し物にも会社として協力してきた。東日本大震災のおりには、帰宅困難となった人たちの一時避難所として、会社のホールやロビーを解放した。

後で聞いた話しによると、お屋敷の解体工事とビルの建設を手がける会社が、その昔に代表が勤務していた大手商社のグループ会社だったこともあり、せめて桜の木だけでも残せないかと交渉したという。

しかしお屋敷の人たちにはその人たちなりの事情があり、大きな会社との売買契約が、桜の木一本で覆るはずもない現代、結局、木は切り倒され、池は埋められ、お屋敷は取り壊され、近代的なビルが建てられた。

ガラス張りの一見おしゃれなビルだったが、日中、それに反射する光に私たちは悩まされた。

ある年の春、年度始めのあれこれに忙殺されて、深夜残業をこなしていた。コンビニで買ってきた遅い夕食をとりながら、何の感興も湧かない向かいのビルを無気力に眺めていると、そのガラスの奥に、満開の桜が映り込んだ。




本文中に引用した『桜心中』本文はこちら。

※1 血脈桜の伝説については、以下を参考とした。

※2 「血脈」については、有料データベースジャパンナレッジの辞書、辞典類を参考とした。

※3 北前船と血脈桜の関係については以下を参考とした。

https://hokkaido-travel.com/spot/visiting/ho0868

※4 北前船の詳細については、以下を参考とした。

※5 石川県農林総合研究センター管轄の林業試験場の樹木公園にある松前早咲については、以下を参考とした。

※6 光善寺に伝わる義経北行伝説の「義経山」の碑については以下を参考とした。

https://hokkaido-travel.com/spot/visiting/ho0868

※7 『義経千本桜』のストーリーについては、有料データベースジャパンナレッジの辞書、辞典類を参考とした。

※8『一谷嫩軍記』のストーリーについては、有料データベースジャパンナレッジの辞書、辞典類を参考とした。

※9 滝夜叉姫については、以下を参考とした。

※10 検校については、有料データベースジャパンナレッジの辞書、辞典類を参考とした。

※11 『京鹿子娘道成寺』については、以下でも書いているので、こちらも併せてご一読いただきたい。

※12 日本の古典文学作品における大蛇、蛇の意味については、以下の「蛇」の項(128〜129ページ)を参考とした。

※13 桜に象徴される女性に対して禁忌を犯す日本神話からのモチーフについては、以下でも書いているので、こちらも併せてご一読いただきたい。


この『桜心中』、鏡花の作品の中ではマイナーなせいか、国会図書館、国文学研究資料館など、日本文学研究に関するデータベースで論文や評論を探したがほとんどなく、金沢の泉鏡花記念館の館長秋山稔氏による「泉鏡花『桜心中』論―輻湊するモチーフ」(2002年)を認めるだけであった。

ただ、歌人の水原紫苑氏による『改訂 桜は本当にうつくしいのか』(平凡社ライブラリー)の中で取り上げられていて、坂口安吾の『桜の森の満開の下で』や梶井基次郎の『櫻の樹の下には』を「能や歌舞伎の道成寺物の華麗な凄みを思うと、あまりにも線が細く、近代の知識人の神経の震えが感じられるばかりである。」とし、この鏡花の『桜心中』については「王朝から江戸までのさくら文化を自分のものにして、さらに独特の怪奇な美を加えている」と評価している。

また、「近世までの桜の共同幻想に、軍隊という近代の遺物を衝突させた鏡花の眼差しが鋭い。」として言及されていることを、紹介しておく。


第13回 少女と女王をつなぐ花 『森は生きている』(サムイル・マルシャーク)

第15回 片腕偏愛と白い花 『片腕』(川端康成)、『くちなし』(彩瀬まる)


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