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本能寺の変1582 目次小 信長の台頭 1信勝謀殺 240~244 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

目次小 信長の台頭 1信勝謀殺 240~244 

*240~244は、バックナンバーです。

240 永禄元年(1558)

   信長は、岩倉織田氏を攻めた。

    信賢は、信勝と通じていた。
    背後に、斎藤義龍の影がちらつく。
    信長は、岩倉勢を城から誘い出した。      『信長公記』

241 浮野合戦の事。             『信長公記』

    信長は、清洲に帰陣した。           『信長公記』 

   信長は、岩倉方に壊滅的な打撃を与えた。 『信長公記』

242 信長の名声は、大いに高まった。

    岩倉織田氏は、再起不能に陥った。
    信長は、家臣らに新知を分け与えた。
              「生駒家宝簡集」「大森洪太氏保管文書」

243 信勝が再び謀叛を企てた。        『信長公記』

    信勝は、岩倉織田氏と繋がっていた。
    信勝は、斎藤義龍と通じていた。
    柴田勝家が信長へ報せた。           『信長公記』

244 信長は、病を装った。          『信長公記』

   信長は、信勝を殺害した。        『信長公記』

    勝家は、やがて越前を手に入れる。       『信長公記』

信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。


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          ⇒ 次回へつづく

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