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【連載小説】陽炎の彫刻

18
不思議な男との、どこにでもあるような交遊録。全18本。
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記事一覧

【連載小説】『陽炎の彫刻』序

手記を受け取った君へ

 はじめに、推理小説が好きな方には残念なお知らせをしなければならない。この手記には、いくつかのミステリーはあるものの、エラリー・クイーンやアガサ・クリスティは登場しない。この手記は、それを書く者の側に先に挙げた二人のような推理力が求められる類のものではないし、そのような推理を所望する読者の期待に沿うものではないということをご理解いただきたい。
 確かに、梶川君に関するミステ

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【連載小説】『陽炎の彫刻』1‐1

 コンビニのトイレで用を足さなければいけなくなったことに、僕は全くもって納得がいかなかった。梶川君の住むアパートを見る限り、トイレが他の部屋の住人と共用ではなさそうだったし(社会人の一人暮らしがわざわざそんなところに住む理由もないし、今の時代そんなアパートもそう多くはないだろう)、それ以外にも他の住人と共用するらしい場所は見当たらなかった。それに、玄関を入ってリビングまで行く直線の短い廊下の途中に

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【連載小説】『陽炎の彫刻』1‐2

 彼は、僕を玄関に向かって右側の、それでいて玄関から一番近いドアの前に導いた。彼はドアの前に僕を立たせ一言「開けてみて。」と言った。僕は、そのドアを開けた。
 するとそこには、コンクリートの壁が現れた。コンクリートは、ドアの枠ギリギリまで迫っていて、ドアを開けても一歩も踏み出せないようになっていた。通常、ドアというものは、ある空間Aと空間Bを隔てたり、繋げたりする機能を持っているものだ。しかし、今

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【連載小説】『陽炎の彫刻』2

【連載小説】『陽炎の彫刻』2

 食事は、梶川君の家の近くのファミリーレストランで摂ることになった。ここは僕と梶川君の行きつけの店になっていた。ちょっとした理由から、ここでよく一緒に食事をするようになっていた。
「これといって個性のないところがいいよね。」
 若干不躾にも思える感想を彼は言った。正直なところを言えば、僕も彼と同じように感じていた。店員に聞かれていなければいいが。そう思いながら煙草に火を着けた僕を見て、梶川君は「そ

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【連載小説】『陽炎の彫刻』3‐1

 この辺で、僕と梶川君が出会った時の話をしておこうと思う。僕と梶川君が出会ったのは、僕の今の職場だった。諸々の理由から具体的な仕事内容などの説明は差し控えることにする(仮にそうしたとしても、物語の本質を解する上で困ることはないだろうから。最も、この話に本質というものがあればの話であるが)。僕は、別の会社から今の会社に転職してきたのだ。そこに彼がいたのだ。当時はお互いに24歳だった。
 転職してきて

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【連載小説】『陽炎の彫刻』3‐2

「助手席、来ませんか。」
 梶川君が言った。僕は驚いた。僕も車を運転する人間だが、初対面の人間を助手席に乗せることに何となく抵抗を覚えないものだろうか、と瞬間考えた。
「いいんですか?」
「後ろの席からの景色も飽きたんじゃないかと思いまして。」
 佐々木さんの家に着くまで、窓外を所在なさげに眺めていたことに気付かれてしまったかもしれない、と気まずい気持ちも多少あった。しかし、どうせなら眺める景色を

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【連載小説】『陽炎の彫刻』4‐1

 秋。「大人になるということは、飽きるということです。」と、大学生の時とある教授がそう言っていたのを思い出す。
 秋は老いの季節だと思う。日差しも草木も何もかもが、老いて色褪せる。秋は「飽き」という言葉からきているのかもしれない。そうであれば、秋は老いの季節だというのも納得できる気がしないだろうか。飽きるということは大人になることで、大人になるということは、その分だけ老いていくということなのだから

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【連載小説】『陽炎の彫刻』4‐2

 チェーン店の喫茶店に入った。ここに来る道中、何人かの客寄せに声をかけられたが、都会に何年もいれば、いなし方も覚えるものだ。きっと彼らの方でも、いなされ方を知っているのだ。レジでブレンドコーヒーを頼んで、喫煙席を探して座る。
 携帯電話を見ると、佐々木さんから着信とメールがあった。

やあ、久しぶりに飲みに誘うおうと思っていたが、外から帰ってきたら君の方が先に帰っていた。梶川君と会ってるんじゃな

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【連載小説】『陽炎の彫刻』5‐1

【連載小説】『陽炎の彫刻』5‐1

 年が明けた。その年の東京は雪が降った。
 僕は雪の降る中を滑りそうになりながら歩いていた。休日の昼頃。通りには僕だけではなく、何人かの往来がある。後ろの方からコンクリートに金属が引きずられるような音が聞こえた。通りを歩く多くの人が振り返って音の在処を探した。タイヤにチェーンを巻いたバスが慎重に通り過ぎていく。この街の人の多くは、雪に慣れていない、もしくはそれを忘れてしまっている。
 僕は寒さと靴

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【連載小説】『陽炎の彫刻』5‐2

【連載小説】『陽炎の彫刻』5‐2

 別の日。雪が降ってから2週間程経ったが、気温が下がらないため雪がなかなか溶けない。それでも、あの雪の日よりは大通りも随分歩きやすくなった。
 僕は奈沙の家にいた。2月。土曜日。朝はまだ凍えるようだった。奈沙は朝食の準備をして、僕はコーヒーを淹れていた。昨晩一緒に観た映画の感想は真っ二つに割れた。あの映画は彼女には少し退屈だったらしい。だから何だと言われれば、別にどうということはないのだが。
 コ

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【連載小説】『陽炎の彫刻』6‐1

【連載小説】『陽炎の彫刻』6‐1

 4月。もう花は散り始め、少しずつ葉桜に変わりつつあった。
 空気も暖かく、日夜過ごしやすくなってきた。その日は土曜日で、仕事が午前中で終わった。僕は家に帰り、昼食を摂った。冷凍していたご飯を解凍し、チャーハンを作って食べた。奈沙からのメールを返信して、溜まった洗濯物を片付けた後は、コーヒーを淹れて寛いでいた。外にはホトトギスの鳴き声が聞こえる。窓から外を見ていると、時々ツバメが猛スピードで、カラ

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【連載小説】『陽炎の彫刻』6‐2

【連載小説】『陽炎の彫刻』6‐2

 土手の上の方からミクを呼ぶ声が聞こえた。声の聞こえた方向に目を向けると、ミクの母親と見られる女が自転車から降りてハンドルを握っていた。ミクは土手を登っていった。途中で一度だけ僕たちの方を振り返った。ミクが母親のところまでたどり着くと、母親は僕らの方に軽い会釈をした。その会釈の中に、僕たちに対する猜疑心と警戒心(ミクが初対面の僕に見せたものよりも強い)を感じた。それは梶川君も同様だったようだ。

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【連載小説】『陽炎の彫刻』7‐1

【連載小説】『陽炎の彫刻』7‐1

 5月の連休。汗ばむ陽気になった。
 僕は自分のささやかな好奇心に突き動かされていた。梶川君が汗をかくのか、気になっていたのだ。ちょうど汗をかきやすい時期になったので、梶川君にちょっとした実験(と言っては大げさかもしれないが)をしてみようと思ったのだ。
 僕は梶川君を近くの公園に呼び出した。僕は待ち合わせ場所で梶川君を待っていた。外に出るためにジャージを着たのは久しぶりだった。しばらくして梶川君が

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【連載小説】『陽炎の彫刻』7‐2

【連載小説】『陽炎の彫刻』7‐2

「明日も休みでよかったよ。」
 僕は呼吸を整えながら、明日の筋肉痛を確信した。広場の方では、子どもたちが走り回っている。その両親と見られる二人が遠目から子どもたちを見守っている。さっきまで天を仰いでいた梶川君は、いつの間にか正面に向き直っていた。
「子どもは無尽蔵だな。」
 そう言って梶川君は少し笑い、またスポーツ飲料を一口含んだ。僕たちの呼吸は、段々整ってきた。僕の方は、まだ身体に熱がこもってい

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