見出し画像

佐高信『池田大作と宮本顕治 「創共協定」誕生の舞台裏』 : 〈中立的第三者〉など、ここにはいない。

書評:佐高信『池田大作と宮本顕治 「創共協定」誕生の舞台裏』(平凡社新書)

「創価学会(含む公明党)」に興味を持つ人も、「日本共産党」に興味を持つ人も、決して少なくはないはずだが、本書が広範に読まれるとは考えにくい。
なぜならば、「創価学会」や「日本共産党」に興味を持つ人というのは、創価学会員か共産党員、あるいは、その熱心な「アンチ」でしかない蓋然性が高く、そうした人たち多くは、すでに、好意的であれ敵意的であれ「私は、その実態をよく知っている」と思い込んでいるので、いまさら「一般書」を読んでまで、勉強しようとは考えないからだ。

言い換えれば、「中立的第三者」の立場で、「創価学会」や「日本共産党」について、その実態を知りたいと考えるような人は、ほとんどいないと考えていいだろう。
現時点で、本書のレビューを書いているのは、私を含めて3人だけだが、この3人は、いずれも何からのかたちで、創価学会か共産党に関係した人、あるいはその熱心な「アンチ」だと考えていいだろう。レビュアーは、決して「無邪気無縁な第三者」ではない、のである。

画像2

つまり、本書を「読むな」「読む価値がない」と評している人は、まず間違いなく、本書で批判されている「創価学会」か「日本共産党」の関係者と見ていいだろう。
そうした人たちは、本書を読まれたくないから、第三者を装って、本書を「つまらない」と決めつけるのだが、実際のところ、本書を読んですらいない蓋然性がきわめて高い。

一方、本書を「読め」「読んだ方がいい」と薦める人は、基本的に「創価学会」や「日本共産党」を、批判的に見ている人、だと考えていいだろう。
日本における「創価学会」や「日本共産党」の存在が、今なお無視できない影響力と存在感を持っているという事実を認めており、だからこそ「批判的な検証が必要」だと考えている人だと言えるだろう。つまり、無視して済む問題ではない、と考えている人だ。

ただし、本書を「読め」「読んだ方がいい」と言う人は、基本的に「創価学会」や「日本共産党」を批判的に見ている人ではあっても、「創価学会」に対する「顕正会」とか、「日本共産党」に対する「ネトウヨを含む右翼・保守団体」といった「敵対集団」に所属するような人、つまりは「アンチ」ではない。

「アンチ」というのは、ある意味では、「創価学会」や「日本共産党」の裏返しであり「陰画」的な存在、だと言えるだろう。批判をしているけれど、あるいは、方向性こそ真逆であっても、体質的には非常に似通ったところのある存在であり、だからこそ「近親憎悪」が激しいのである。

そして、そんな「創価学会憎し」「共産党憎し」に「凝り固まった人たち」というのは、いまさら佐高信の本を読んだりはしないのだ。

彼らには、彼らの中だけで流通する、「反・創価学会」あるいは「反・共産党」的な憎悪を煽るための「内部資料」が豊富にあって、彼らはそうしたものしか読まない。
例えて言うなら、創価学会員が「池田大作の著作」と「聖教新聞」と「大白蓮華」を読むので精一杯で、一般書籍をほとんど読まないのと同じことであり、元の本山であった「日蓮正宗」をこき下ろす「身内向けの日蓮正宗批判本」しか読まないのと同じことだ。創価学会員は、一般的な「仏教の歴史(仏教史)」とか「日蓮宗の歴史」なんてことを勉強しようとは、つゆほども考えないのである。

一一そして、このような「視野狭窄的盲信性」というのは、「アンチ」についても、そっくりそのまま言えることであり、どっちにしろ「凝り固まった人たち」というのは「きわめて視野が狭く、本を読まない」人たちなのである。

では、かく言う私は、どうなのか?

私は、元創価学会員であり、創価学会を批判しているだけではなく、宗教そのものの問題を批判している、「無神論者」である(例えば、リチャード・ドーキンスダニエル・デネットなどと同じ立場だと言えよう)。
つまり、創価学会に限らず、宗教教団というものには、多くの問題や「偽善」「欺瞞」が存在していることの事実を指摘して批判し、当然のことながら、元は会員であった創価学会についても、同じように批判をする、という立場だと言えるだろう。言い換えれば、私は「創価学会批判者」ではあるけれど、「アンチ創価学会」ではない。

「信仰」や「思想」の問題に興味のない人は、こうした違いがピンと来ないかもしれないが、この違いはきわめて大きく、それは批判の仕方にも如実に反映してくるのである。

例えば、まともな「批判者」というのは、「批判対象」に「批判すべき(改善されるべき)点」があると考えるから、その点を批判し、そこが改められれば、それで良いと考える。いわば「改善指導」を行おうとしているわけだ。

ところが「アンチ」というのは、端的に「批判対象」を「敵」だと認識しており、感情的に「抹殺したい」と考えているから、「論理的批判」ということができない。
無論、彼ら自身は、自分が「論理的」に批判しているつもりなのだが、客観的事実を知ろうともせず、自身の「思い込み」を追認するような偏頗な情報しか集めようとはしないような(エコーチェンバーな)人(例えば、ネトウヨがその好例)は、決して、客観的でもなければ、論理的でも、合理的でもないのである。

そんなわけで、本書の著者・佐高信は「創価学会批判者」「日本共産党批判者」ではあっても、「アンチ」ではない。認めるべきところは認め、協力できるところは協力するけれども、是々非々での批判は、必要なものとして容赦なく行うという、そんな立場だと言えるだろう。

だから、「創価学会批判者」「日本共産党批判者」あるいは「アンチ」の人たちにとっては、本書は、まだまだ「手ぬるい」と感じられるかもしれないが、問題は「事実において、適切に批判する」ということであり、本書で目指されているのもそういうことなのだ。逆に言えば、「過激」「派手」であれば好ましいというのは、頭の悪い「アンチ」的発想でしかないのである。

創価学会にしろ日本共産党にしろ、漏れ出てくる「内部情報」や「告発」といったものが、どの程度の信憑性を持つものなのかの判断は、なかなか難しい。「忠誠と裏切りの世界」というのは「狐と狸の化かしあいの世界」だからだ。
しかし、だからこそ、豊富な情報を持っていてこそ、そうしたものとの比較考量の中で、情報の信憑性を適切に判断することもできるのである。

画像2

したがって、大切なことは、まず「知る」ことだ。「知る」ことなくして、「知らず」して、正しい判断などできないというのは理の当然で、「根拠薄弱な思い込みによる批判」は「読まないで、レビューする」のと同様の行いなのだと言えよう。
知的に幼い人ほど、自身の「好み」や「直感」を過信し、それに依存してしまうものであり、知的な人ほど「自己懐疑の慎重さ」を手放さないという事実を、少なくとも「読書家」ならば、明記すべきであろう。

「(十分に)知らないことは、正しく論じられない」というのは、知的な人間には、自明な大前提なのである。

だから「本書くらいは読むべき」である。創価学会や日本共産党の問題を論じるのに、ここに書かれていることくらい知らないようでは、その人が「当事者」としての「創価学会員」であろうと「日本共産党員」であろうと、あるいは、その「アンチ」であろうと、創価学会や日本共産党を論じる資格などないと、そう断じても、決して過言ではないのである。

初出:2021年5月28日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年6月7日「アレクセイの花園」

 ○ ○ ○





 ○ ○ ○




 ○ ○ ○



 ○ ○ ○







この記事が参加している募集

読書感想文