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クリストファー・ノーラン監督 『オッペンハイマー』 : 他人事ではない。

映画評:クリストファー・ノーラン監督『オッペンハイマー』2023年・アメリカ映画)

『世界初の原子爆弾を開発した「原爆の父」として知られる理論物理学者ロバート・オッペンハイマーの生涯を描いた伝記映画である。』

(Wikipedia「オッペンハイマー(映画)」

第二次世界大戦後半、世界各国で「原子爆弾」の開発競争が加速していた。
戦況が不利に傾いていたナチスドイツは無論のこと、日本でも極秘裏に原爆開発が進められていたのだ。
当然、連合国であるアメリカやソ連も、ドイツや日本に先を越され、戦況の巻き返しをゆるすわけにはいかないから、必死の開発を進めていた。
そんなアメリカにおける、原爆開発プロジェクトが「マンハッタン計画」であり、その科学者スタッフのトップに立ったのが、本作の主人公であるオッペンハイマーであった。

結果として、アメリカが世界初の原爆を開発することになるわけだが、その大きな推進力となったのは、理論物理学の分野で、アメリカよりもずっと先を行っていたドイツなど、ヨーロッパのユダヤ人学者たちである。
知ってのとおり、ナチスドイツは、ユダヤ人を差別迫害し、最終的には根絶やしにする「ユダヤ人絶滅計画」を進めていた。当初は、別扱いにされていたユダヤ人学者たちも、徐々にその地位を追われることになり、命の危険が迫ってきたため、財産のほとんどを放棄するかたちで、家族を連れてアメリカへ亡命したのである。

亡命先がアメリカだったのは、無論、アメリカが、ドイツと敵対する連合国であり、しかも、ヨーロッパとは地続きではない別大陸だったということが大きい。ナチスドイツがヨーロッパでの戦争に勝ったとしても、アメリカまで攻め入ってくることは、まず考えられなかったからである。
また、アメリカは歴史の浅い「移民の国」であったから、移民となる亡命者たちにとっては、敷居の低い国だったということもあるだろう。

そして、さらに重要なのは、アメリカは歴史の浅い国だったからこそ、この機会に、ヨーロッパの優秀な人材を取り込もうとしていた、ということがある。学者や芸術家といった人たちだ。
例えば、第一次世界大戦時からのこととはいえ、ハリウッドなどもまさにそうで、現在活躍するハリウッドの映画監督の多くが「外国人」だというのも、「戦争」を避けてアメリカにやってきた人たちが、昔から少なくなかったからなのだ。それが今に続くハリウッドの(ヘッドハンティングの)伝統なのである。戦時、ハリウッドは、外国の巨匠たちを、比較的安価で雇い入れることができたのだ。
ちなみに、本作の監督であるクリストファー・ノーランも、イギリスからの移民の子だ。

だが、そうした大戦後期において、最も歓迎された「ヨーロッパの知性」とは、もちろん喫緊の課題たる「マンハッタン計画」に協力させることになる「科学者」たちであったことは、論を待たない。
彼らには、早くから、アメリカなどの諜報局員からの接触があり、高待遇を保証された亡命の勧誘を受けていたのである。

(本物である。もちろん、帽子をかぶっているのがオッペンハイマー)

私が先日レビューを書いた、アメリカのSF作家ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアも、そうした「亡命工作」に関わった「アメリカ陸軍」関係者であり、彼女の結婚相手は、まさにそうした工作活動の重要人物であった。
だからこそ、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアは、戦後、作家デビューする際に、筆名による「覆面作家」として、性別まで偽り、その身元を隠したのだと、そう考えて良い。身元がわかれば、彼女が戦中戦後にどんな仕事をしてきた人物なのかは、いずれ明らかになり、その経歴を快く思わない人も少なくないというのも、おのずと明らかだったからである。
戦前の彼女は「良家の子女」として、その身分に束縛されることを嫌い、芸術家として自由に生き、アナキスト(無政府主義者)を自認したりもしたのだが、開戦にあたっては一転、陸軍を志願して、「工作活動」の情報が集まる部署に配属され、そこでのちの夫と出会って結婚し、戦後は夫婦で「CIA」の立ち上げに尽力したというのだから、この夫婦が戦時中にどんな仕事をしていたか、おのずとその性格もわかろうというものである。

ともあれ、多くの「ユダヤ系の学者」が、ナチスの迫害から逃れて、アメリカに亡命した。
では、どうして、ヨーロッパには「優秀なユダヤ系の学者」が多かったのか、その説明をしておこう。

ヨーロッパにおいては、もともと「ユダヤ人差別」が、伝統的なものとして存在した(ユダヤ人は、イエス・キリストを殺した、呪われた民族だと考えられたりしていた。イエス自身がユダヤ人なのだか、そこは都合よく無視された)。
ナチスのユダヤ人政策が「最終解決」と呼ばれたのも、そうした伝統的な「ユダヤ人(害悪)問題」に、決着をつけるという趣旨のものだったためである。

したがって、ユダヤ人が「差別」なく就ける職業というのは、ごく限られていたのであり、そのひとつが、シェイクスピア『ヴェニスの商人』の登場人物「ユダヤ人シャイロック」で有名な金融業。つまり平たく言えば、「金貸し」である。
キリスト教の「聖書」には「利子を取って、金を貸してはならない」という趣旨の記述がある(旧約聖書「申命記」)。そのため、戒律に禁じられた「金貸し」は「賎業」だとされていたので、結果として、キリスト教の広まったヨーロッパでは、国を持たない社会的弱者であったユダヤ人が、皮肉にも、ユダヤ教の(旧約聖書の)戒律で禁じられた「金融業」を営むことになったのだ。
また、そうした経緯があって、独占的に金融を支配して金儲けをし、財を築いた(世俗主義の)ユダヤ人がいたため、ロックフェラーロスチャイルドなどのユダヤ閥が世界を裏で操っているといった「陰謀論」が生まれることにもなったのである。

で、話を戻せば、どうして、ヨーロッパには「ユダヤ系の学者」が多かったのかと言えば、それは、少なくとも「学者」の世界は「有能」でありさえすれば、ユダヤ人であっても、評価と地位を得ることができたからである。
例えば、言語学者と著名なルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが、金持ちの息子であり、学者だったというのは、ユダヤ人であることと無縁ではなかったと考えるべきなのである。

つまり、アメリカは、こうしたユダヤ人たちを味方につけることで、戦争に勝とうとしたのだ。「知性」も然り「財力」も然りだったのである。

一一と、ここまでは、本作『オッペンハイマー』に至る「歴史的背景」の説明なのだが、じつは本編の主人公である、ロバート・オッペンハイマー自身も『ドイツからのユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれた。』wiki)人だったのである。
だから、彼自身も、ドイツから難を逃れてアメリカへやってきたユダヤ人学者たちには深く同情していたし、尊敬の念を持ってもいた。本作で、印象的に描かれるアルベルト・アインシュタインもまた「ドイツのユダヤ人」だったのである。

(トム・コンティの演じた、本作のアインシュタイン)

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本作前半は、「原爆開発において、ドイツに先を越されるわけにはいかない」という科学者たちの大義が、積極的なものとして描かれる。
それは、ナチスドイツによる迫害を受けてきた人たちの、偽らざる実感であったからこその説得力だった。

ところが、そのナチスドイツが倒れ、日本の降伏も時間の問題となっても、「原爆」がその役目を終えることはなかった。

アメリカは、本土決戦を計画していた日本に対し、それに応じて自国の兵士を無駄死にさせるわけにはいかないという大義において、日本への原爆投下を正当化し、望みどおりに、戦争の決着をつけた。

だが、言うまでもなく、この原爆使用は、戦後世界の覇権を見据えたうえでのものでもあった。
この「最終兵器」を手に入れたアメリカこそが、戦後世界をリードする国になるのだという意思表示であり、もう一つの戦勝大国である「共産主義ソ連」の自由にさせる気はないという意思表示でもあったのだ。

だから、本作の後半は「赤(共産主義者)狩り」の話へと移っていく。
先に、ハリウッドの話をしたけれども、オッペンハイマーが「共産主義者」の嫌疑をかけられて、苦境に立たされていた時期のハリウッドでは、同様の「赤狩り」が行われ、少なからぬ映画人が、ハリウッドを去ることを余儀なくされたのである。

したがって、本作『オッペンハイマー』を評価する上で考えなければならないのは、本作は「ハリウッドの古傷」に触れる作品でもある、という事実である。
かつてユダヤ人を迫害したナチスドイツと同様に、ハリウッドは共産主義者を迫害したという「恥ずべき歴史」を持っているからこそ、その負い目が、この作品の評価に影響している部分が、確実にあろうからだ。

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さて、そうした「事情」を紹介した上で、本作に対する私の評価はというと、ノーランらしく「よくできた作品」だとは思うものの、本作がノーラン作品の中で、際立って良いなどとは思わないし、歴史に残る傑作だとも思わない。一一というようなことになる。
点数をつければ「85点」の作品であり、まだ見ていない作品は別にして、ノーラン作品の中で私が最も高く評価する『ダークナイト』(2008年)を「100点」だとすれば、当然のことながら本作は、それにハッキリと劣った作品、という評価なのである。

したがって、ノーランが初めてアカデミー賞の「作品賞」や「監督賞」を取ったとか、そのほかにもめぼしい賞を取ったとか言ったところで、そんなものは、もっぱら「商業主義的な話題」でしかなく、客観的な「作品評価」と直結するものではないと考えている(ここて付言しておくと、ルイス・ストローズ役のロバート・ダウニー・ジュニアのリアルな演技は、際立って良かった)。

アカデミー賞に限ったことではないけれど、それなりの「背景」があれば、その作品が「過大評価(あるいは、過小評価)」されることもあるというのは、常識に類する話だ。
例えば、世界的な「#MeToo運動」のきっかけとなった、ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインによる女優たちへの性暴力・セクハラ事件があったが、この事件が明るみに出る以前、彼が製作した『恋におちたシェイクスピア』(2008年、ジョン・マッデン監督)が、他の有力候補作をおさえて「アカデミー賞・作品賞」を受賞したのも、ワインスタインの政治力の賜物だったというのは、今では常識に類する話になっている。
そんなわけで、「アカデミー賞」というのは、単純に「その作品の出来が良い」ということだけではなく、「誰が作った作品か」「何をテーマに扱った作品か」といった、もろもろの「その他の要素」も、当然のことながら、選考に大きく影響しているのである。

(ハーヴェイ・ワインスタインと元妻)

したがって、本作『オッペンハイマー』の場合は、直接ハリウッドのことを描いていないとはいうものの、後半で「赤狩り」を扱っているという点において「古傷に触れる作品」だったという事実は、無視できないことなのである。

では、本作が「100点」とはいかなかった、「マイナス15点」分の弱点とは何か?

それは、すでに多くの人が指摘しているとおりで、この映画は、「ロバート・オッペンハイマーの生涯」についての予備知識が無いと、ほとんど理解不能な作品になってしまっている、という点である。

私の場合はたまたま、原作本ではないものの、数年前にオッペンハイマーの評伝を読んでいたから、映画の展開に、なんとかついていけたけれど、それが無ければ、本作の十全な理解などとうてい無理であった。
むしろ、予備知識もなくこの映画を見て「わかったようなこと」を言っている人というのは、間違いなく「後知恵」で知ったかぶりをしているだけだと、そう断じても良いくらいである。

ロバート・オッペンハイマーという存在とその生涯というのは、アメリカの知識層にとっては常識でも、日本人の多くにとっては、常識でもなんでもなく、知っている人の方が少ないと断じても良い。
つまり本作は、アメリカの知識層を基準として作られた作品なのだから、それを評判の高さだけで見に行った日本人の多くが、理解できなかったというのは、当然の結果でしかないのである。

したがって、ドキュメンタリー映画出身の社会派映画監督・森達也が、本作『オッペンハイマー』を高く評価しながらも、あえてその「説明不足」を指摘したのは、至極もっともなことであった。
森個人は、社会派だからこそ、オッペンハイマーについての予備知識も、それなりに持っていたため、本作を理解することもできた。
しかし、前作のSF映画『TENET テネット』(2020年)を「何度見ても理解できない」と、あえて言うのは、正直な感想なのではあろうが、同様の問題点が、本作にも現れているということを言いたかったためであろう。

『TENET テネット』は、SFマニアが見たって、すぐには理解できないほど「難解」な、「凝りに凝った作品」なのだが、そのことが意味するのは、要はノーランは、自身の作品を見る観客に期待する「知的水準」が、極端に高い人だということなのである。
無論、森達也が注文をつけたように、それがノーランの欠点でもあるわけなのだが、私はこうしたノーランの「敷居の高さ」を必ずも否定しようとは思わない。なぜなら、「馬鹿に合わせて、内容の水準を下げない。薄めない」という、ある種の「傲慢さ」があってこそ、彼は「オンリーワン」の作家であり得てもいるからである。それは彼の「芸術家的非妥協」という意味において、稀に見る「美質」だからだ。

が、それはそれとして、そうした「個性」を個人的には支持するとしても、やっぱり本作の「難解さ」は、「無駄な難解さ」でしかないという点で、「マイナス15点」なのだ。
SF映画である『TENET テネット』であれば、それは「難解なパズル映画」としての価値もあろう。だが、実在の人物であるオッペンハイマーの「人生」を描くにあたって、このような「わかりにくい構成」にする必要性はなく、ほとんど「趣味に走っただけ」としか評価し得ないからである。

その、問題の「趣味」とは、無論ノーランお得意の「複雑精緻な時間操作」である。

(『TENET テネット』の複雑な時間軸)

「過去と現在が激しく交錯する」あるいは「時間の流れを細切れにしてから再構成する」といういつものパターンは、SF映画やミステリー映画などにおいては「真相を隠す」手法として、有効ではあろう(一種の「叙述トリック」である)。
だが、「オッペンハイマーの生涯」を描く本作において、そのようなことをする必要はない。ノーランとしては、たぶん「サスペンスを盛り上げる」といった狙いから、いつもの「時間操作」をやったのだろうが、要は、趣味に走って、やりすぎなのだ。

特に、「戦後の2つの裁判」を複雑に交錯させた結果、オッペンハイマーの生涯についての予備知識を持たなかった観客には、何がどうなっているのか、さっぱり訳がわからなかったことだろう。
簡単に言えば、くり返し「これは裁判ではない」と言いながら行われていた、オッペンハイマーを共産主義者だと認定するための「聴聞会」と、戦後にオッペンハイマーと袂を分かった「アメリカ原子力委員会の委員長」のルイス・ストローズが焦点人物となる、オッペンハイマーの評価に関わる「裁判」。このふたつは、当然、時代も場所も違う別物であり、前者がカラー、後者がモノクロで描かれ、それで区別はされてはいるものの、常識的な感覚からすると、カラーの方が古い話で、モノクロの方が新しい時期の話だというのは、不必要に紛らわしい。
前者は、オッペンハイマーの世間的な評判を落ちすことになった裁判(聴聞会)であり、後者は、いわば「オッペンハイマーの名誉回復」がなされた裁判なのだから、普通なら、古い方をモノクロ、新しい方をカラーにすべきなのだが、主にオッペンハイマーが登場するのは前者なので、前者をカラーにしたのではないだろうか。

つまり、こうしたことは、「オッペンハイマーは原爆の開発によって、一度はヒーローになったものの、水爆の開発に反対するなどしたために、共産主義者として、実質的に一度は社会的に葬られた。しかし、のちに、その名誉が回復された」という流れを知っているから、この「2つの裁判」の区別がつき、前後関係もわかるのだが、そうした歴史を知らない人には、オッペンハイマーの「老け化粧」程度では、やはり区別がつけられなかったはずなのである。

そんなわけで、本作『オッペンハイマー』は、森達也の言うとおり、「わかりにくい」というところが欠点であり、さらにいうなら「無駄にわかりにくい」という点が、その明白な欠点だと言えるのである。

したがって、私個人としては、この映画そのものの価値を、あれこれ論じることに、さほどの意味を感じなかった。

それよりも、オッペンハイマーの不幸は、「今ここの日本人」の問題である、という点こそが重要であり、私はそこに注意を促したいのである。

つまり、昨今の中国がきわめて危険だとしても、だからといって、日本が、「武器を開発したり、輸出したりできる国」になってしまっているという今の現実は一一「自衛」の問題としては、ある程度は仕方ないものだとしても一一、結局のところ、「オッペンハイマーの原爆開発」と、同じことなのである。

「自国で武器を作れば、アメリカからお古を高く売りつけられることもない。どうせ必要なものなら、自国で安く調達し、うまくいけば、それを外国に売って、それで潤うこともできる」などというと、ついそれに乗せられてしまう日本人は、決して少なくないはずだ。

しかし、日本で作った武器は、日本で人を殺すことはなくとも、海外で「人殺し」に使われるのである。その際に「子供を標的にしてはダメ」なんて注文は、当然つけられない。

また、自衛隊が、公式にも米軍の指揮下に完全に組み込まれれば、自衛隊が、世界の紛争地域に派遣され、そこで一人前の「軍隊」として殺し合いをすることにもなるし、当然のことながら死者も出るわけなのだが、いったい誰が、そんな自衛官(?)に志願するのだろうか?

ベトナム戦争時のアメリカのように、白人と黒人とを問わず、公平に「貧乏人」が、軍隊に行かざるを得ないようになるのではないのか? 
「幸いなことに」今の日本は、経済格差による二極化が進んでいるから、兵隊にとるための「貧乏人の子弟」には、事欠かないのかもしれない。いや、有事のためにも、今から、少子化対策に本腰を入れなければならない、ということなのかもしれない。

その結果、金のある者が、金のない者に戦って守ってもらい、それで日本は安泰。日本の「面子も立つ」。一一と、それで良いのだろうか?

「止むに止まれず作った原爆」であっても、その結果、想定外に「多くの無辜の人々を殺すことになった」のであり、オッペンハイマーは、その「罪の意識」から自由ではあり得なかった。良心の呵責に、彼は責められ続けたのである。

「日本で武器を作るのも、輸出するのも、日本の国益のためには必要」だと、確かにそれはもっともらしい言い草なのけれど、しかし、そんな意見を支持した人々は、あなたは、その責任を、オッペンハイマーのように背負う覚悟があって、この映画を見たのだろうか?



(2024年4月14日)

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