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玉川重機 『草子ブックガイド』 : 光は、 すぐそこに。

書評:玉川重機『草子ブックガイド』第2巻・第3巻(モーニングKC・講談社)

1年ほど前に、第1巻を読んでレビューを書いた。
その後、わりとすぐに既刊の第2巻と第3巻を購入していたのだが、何しろ濃密な作品だから、しばらくおいてから読んで、またレビューを書こうと思っているうちに、例によって、新しく購入した本がその上にどんどん堆積していった。
で、これ以上読まないでいると、例によって「発掘不可能」になると思い、昨日は意を決して堆積書を取り除き、本作第2巻と第3巻を救出して、ひさしぶりに「草子のその後」に接したという次第である。

さて、第1巻を読んだ段階では、私は比較的厳しい注文をつけた。
要は、「ちょっと甘いのではないか。綺麗事に過ぎるのではないか」という注文である。

こうした注文は、例えば、本書第1巻についてのAmazonカスタマーレビューで、レビュアー「ニルスネイス」氏が、「酷い犯罪者(苦笑)」と題するレビューで、次のように論じていることからも、決して例外的なものでないことがうかがえよう。

『どんな酷い犯罪者が出てくるのかとビビりながら読んだが。。。(苦笑)

たいした苦労も挫折もなく、悪い友だちもいない、波風立たない人生を生きてきた、他人に非寛容な人は読まないほうがいいです(笑)

たしかにいろいろぬるいんですが、そのぬるさが癖になる不思議さ。だから合わない人もいると思います。』

「ニルスネイス」氏がここでいう『たいした苦労も挫折もなく、悪い友だちもいない、波風立たない人生を生きてきた、他人に非寛容な人は読まないほうがいいです(笑)』というのは、要は「苦労と挫折を知らない人ほど、逆境に沈んでいる他者に寛容にはなれないものだから、本書を読んでも腹が立つだけだろう」ということだ。一一まさに、私のことを指して言っているようなものである。

しかし、今の私は、この「ニルスネイス」氏の指摘が間違っているとは思わない。

事実、私は『たいした苦労も挫折もなく、悪い友だちもいない、波風立たない人生を生きてきた』人間であり、『非寛容』とまではいかなくても、とても「寛容」だとは呼べない、きわめて「狷介」な人間であり、そのことは自覚もしておれば、自負さえしている。

だが、そうした私の立場に立ったままでも、今回のレビューでは、本作に対する評価に、少々「訂正」を加えなければならない部分があると、この第2巻、第3巻を読んで感じたのであった。第1巻読了の段階では見落としていた部分があったのである。それは、一一「草子の父親」の重要性だ。

本書がどういう物語かを簡単に説明すると一一、画家を目指しながらもまったく芽が出ず、日雇い労働に従事しながら飲んだくれの日々を送り、妻にも逃げられてしまったダメ父を持つ一人娘の草子が、そうしたつらい家庭環境にあって、それでも大好きな本から「生きる力」を与えられながら前向きに生きる健気な姿と、それをあたたかく見守る人たちの姿を描いていた作品、とでもいうことになろうか。

要は、この草子の「本から(前向きに)生きる力を与えられている」という部分や、周囲に良い人が集まってくるといった部分で、本作はいささか「ぬるいのではないか」「甘いのではないか」という感想も出てくるのであり、私も第1巻のレビューで、その点を指摘したわけだ。「読書が、現実逃避の具になってはいないか?」ということである。

しかしながら、第2巻、第3巻と進むにしたがってせり上がってくるのが、まさにこの問題なのだ。つまり、「現実逃避」の問題であり、要は「飲んだくれの父」の問題である。

草子の父は、決して悪い人ではないにしても、画家を目指しながらまったく芽が出ず、それで酒に逃避している「負け犬」と呼んでもいい人間である。
才能が無いなら無いで、腹をくくり、売れなくてもいいからとにかく好きな絵を描き続けると覚悟するとか、思い切って絵を断念するとかすべきなのだが、草子の父は、そうした決断ができず、ずるずるダラダラと現状に甘んじつつ、しかし、その苦しい現実から酒で逃避し、その結果、娘にまでつらい思いをさせているのだ。
何も、娘のために絵を捨てろとまでは言わないが、いずれにしろ中途半端なのである。

だが、私は第2巻、第3巻を読んで初めて、あまりにも大きな見落としをしていたことに気づいた。
それは、草子が「本好き」である作者の投影であるばかりではなく、この父親もまた「作家(表現者)」としての作者の投影であるという、わかりきった事実であった。

私たちは、当たり前のこととして、草子に「本好き」の著者の姿を見るけれども、それだけだと、草子が基本的には、しっかりとした良い娘であるからこそ、「読書」が彼女の支えになっていることに、一抹の不安を拭いきれない。
たしかに読書は、人に「知恵と勇気」を与えてくれるし、その意味で「救い」を与えてくれるのだけれど、それでも、どこかでそれが「現実逃避」なのではないかという疑いを拭いきれない。草子の「読書」と、父親の「飲酒」とが、本質的にどれほど違ったものなのか、という疑いである。

しかし、そう考えていけば、草子が作者の投影されたキャラクターであるばかりではなく、その父親もまた、作者自身の投影されたキャラクターだということが明らかになる。

要は、理想的に描けば草子になるけれど、リアルに描けば、あの「飲んだくれの現実逃避親父」にもなりかねない、ということだ。
作者は、自身を草子に投影しているのではなく、むしろ草子は、作者の「理想であり希望」であって、そうした「理想や希望」を必要としているのは、うまくはいかない現実の中でのたうち回っている「父」としての作者自身なのではないか。つまり、作者の中には、草子だけではなく、草子の父もまた、リアルなものとして存在しているのである。

例えば、草子の父は、第2巻所収の第10話で、ひさしぶりに自作を「公募展」に出品する。
父の前向きな姿に喜ぶ草子だったが、しかしその結果は悲惨なものであった。単に落選したのではなく、信頼する先輩画家に、次のように評されてしまうのだ。

『 いろいろ試してて…、技術と画材のお祭りみたいだ。にぎやかだねぇ。…ハデさだけ見えて……この人(※ 絵の作者)が全く見えてこない。確かに褒められたくて、セノビしすぎて、今にも転びそう。こういう絵は一一「ウマイ」とか「ヘタ」とか「ウツクシイ」とか「キタナイ」とか以前一一「クダラナイ」と言う。』

手厳しい感想だが、要は「ウケ狙いのくだらない絵」だということであり、今風の言葉で言えば「承認欲求だけで描いている、中身の空っぽな絵だ」ということだ。

そして、実際のところ私たちは、そんなものがネットに氾濫している現実を、嫌というほど知っているのだが、一一そういうものは、「作品」と呼ぶに値しない「クダラナイ」ものだ、ということでなのである。まれに、「商品」に化けることはあっても、決して「芸術」とは呼べない、と。

で、問題は、本作の作者である玉川重機の中にも、この草子の父と同様に「派手にヒットする作品を描きたい」という気持ちは、当然あるだろう。
だがその一方、そういう作品は、自分の作風ではないというのもよく知っているから、作者自身は、草子の父のような愚行には走らず、まさしく、

『我この道を行く この道の他に我を生かす道なし』

という、武者小路実篤の言葉を地でいく道を選び、この一コマ一コマ手のかかった作品を描いてきたのである。

だが、その結果がどうであったか?

それでも、「連載打ち切り」一一これが現実であった。

草子の父のように、安易にウケに走って転んだというのなら、それは自業自得であり、仕方がないと言っても良いだろう。
だが、本作の作者は、誠実に自分の持てる力を振り絞って本作を描いたにも関わらず、非情にも打ち切りになってしまったのだ。これが、現実でなのである。

しかし、草子の父は、こうした挫折を繰り返す中で、少しづつ自分の道を見出していく。それでもまた苦難に見舞われ挫折を繰り返すのだけれど、作者が、その先の「光」を見ているのは、間違いないと言ってもいいだろう。

ありのままの自分に根ざした作品を描くしかない、というのは、草子の父も気づいたことではあるが、そう気づくだけでは、人は変われない。
「ありのままの自分に根ざした作品」を描けば、それでたちまち、人が評価してくれるようになるというほど、創作というのは甘いものではないからである。

だが、なかなか変われない草子の父とは違って、作者は、自身の創作者としての嘆きや苦しみを、草子の父に投影しつつも、「草子=読書」が、自身を支えてくれていると信じているし、すでにその先を見ているというのは、間違いのないことなのだ。

たとえ父の絵が決して「売れない」ものであったとしても、それで娘までが不幸になって良いというものではない。彼は「売れない」絵を描きながらでも、自分のその背中を見せることで、娘を幸福にすることだって、きっとできるはずなのだ。
草子が、いま不幸なのだとしたら、それは彼の絵が売れないから、ではない。「絵が売れない(満足できるほど評価されない)」という欲望に、彼が負けているからなのではないだろうか。

しかし、草子の父が、そうした本当の敗因に気づくのは、そう遠い先のことではないと私は思うし、今は「読書」によって生かされているような草子が、その枠を超えていくのも、そう遠い未来ではないと私は感じている。
本作は、「ビルドゥングスロマン」としての形式を、すでに八割がたまで完成させているのだ。

一一だから、「連載打ち切り」になってしまったとは言え、それでも本作は、完結させられなくてはならない。
草子親娘が、今の宙ぶらりんのままであっていいはずがない。もう、父娘の明るい未来は、すぐそこに見えているからである。

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そんなわけで、本書第2巻・第3巻を読んだ私は、本作の行く末がどうしても気になり、出版業界にいる友人にそのあたりの事情を探ってもらったところ、どうやら作者は、他の仕事をこなしながらも、本作の完結に向けて、意欲的に動き出している、らしい。
ファンにとって、こんなに嬉しい情報はないと思うので、ここに、不確定情報だと断った上で、報告をしておきたい。

仮に、作者にその気がなかったとしても、ファンの声が大きくなれば、きっとそれが作者を励まし、動かすことにもなろう。
一介のファンに大きなことなどできないけれど、「信じて待っています」という言葉だけでも、ファンとして発し続けていくことならできるのではないだろうか。

作者・玉川重機の奮闘とともに、玉川ファン、草子ファンの奮起にも期待したいと思う。

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【各巻に登場した文学作品】
(詳細は、Wikipedia「草子ブックガイド」を参照のこと)

ロビンソン漂流記(ダニエル・デフォー)
ダイヤのギター(トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』)
山月記(中島敦『山月記・李陵』)
山家集(西行)

老人と海(アーネスト・ヘミングウェイ)
山椒魚(井伏鱒二)
バベルの図書館(ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』)
銀河鉄道の夜(宮沢賢治)
夏への扉(ロバート・A・ハインライン)
月と六ペンス(サマセット・モーム)
飛ぶ教室(エーリヒ・ケストナー)

夢応の鯉魚(上田秋成『雨月物語』)
百鬼園日記帖(内田百閒)
イワンのばか(レフ・トルストイ)
ハローサマー、グッドバイ(マイクル・コーニイ)
新しい人よ眼ざめよ(大江健三郎)
荒野のおおかみ(ヘルマン・ヘッセ)

(2023年8月22日)

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  ○ ○ ○(海外SF)


 ○ ○ ○(国内SF)

 ○ ○ ○(国内SF映画)


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