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小松左京 〈利権〉を確保せよ! : 『現代思想 総特集◎ 小松左京 生誕九〇年/没後一〇年』

書評:『現代思想 2021年10月臨時増刊号 総特集◎小松左京 生誕九〇年/没後一〇年』(青土社)

『(※ 小松左京の自伝的エッセイ集『やぶれかぶれ青春期・大阪万博奮闘記』の)「ニッポン・ 七〇年代前後」(一九七一)(※ の章)では、小松が大阪万博にどのようにして参画することになったか、万博や未来学会にどういう形でかかわっていたかの様子が詳細に描かれる。オリンピックに対する批判的目線を持ちつつ、万博の課題や意義について考えていた姿勢もうかがえ、その冷静な立場のとり方には感服させられる。「お国のため」ではなく「人類のため」に仕事を引き受けたというセリフは、なかなか簡単には言えないものだろう。』

(P289、宮本道人「小松左京ブックガイド 最初にして最大のSFプロトタイパー」より)

もしもあなたが、色々と問題(弊害)のあることを知っているオリンピックや万博について、政府から「有識者会議」に参加して「色々、ご意見をいただけませんか、先生」などと言われたら、どうするだろうか?

当然のこと、たんまりと謝礼ももらえれば、肩書き的にも「箔が付く」(その後の人生で、何かとお得)というのがわかっているわけだが、その場合、あなたも『「お国のため」ではなく「人類のため」に仕事を引き受けた』い、くらいのことは、平気で言えるのではないだろうか?

(ありし日の 小松左京)

私は、そんな「白々しいこと」は到底言えない(宮武外骨的に)残念な性格なのだが、多くの人は「カネと名誉」のためなら、それくらいのことは平気で言えるだろう。そうではないだろうか?

それなのに、これを『なかなか簡単には言えないものだろう。』などと言って、殊更に小松を持ち上げてみせる「SFプロトタイパー」の宮本道人は、きっと、こういう白々しいセリフを平気で吐ける人なのだろうし、政府からのお誘いには「待ってました!」とばかりにホイホイと応じて、その不相応な謝礼が「国民の血税」から支払われることにも、何の疑問も痛痒も感じない人に違いない。
ちょうど、オリンピック代表選手が、コロナウィルスで何人の(無名の)死者が出ようと、オリンピックは開催してほしいと言って憚らなかったのと同じで、要は、これすべて「利権」やら「既得権益」やらの話なのである。

(時に、金メダルは人命より重い)

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本特集号の執筆者を大雑把に分ければ、故・小松左京の「擁護派」と「批判派」に区分できる。

「擁護派」とは、要は、小松左京の「功績」を強調する人たちであり、多くは「日本のSF界」周辺で禄を食んでいる著述家である。その典型が、前記の宮本道人や、SF小説家で「SFプロトタイパー」の一人と言ってよい樋口恭介、あるいは「フェミニズムSF評論家」の小谷真理などである。

(上は、宮本道人とその著書)

一方「批判派」の方は、社会学者や科学史家といった学者で、小松左京を批判しても、仕事上の差し障りなどない人たち。例えば、酒井隆史塚原東吾などがその代表である。

周知のとおり『現代思想』誌は「現代思想における知の対象たるテーマや人物」を採り上げて特集を組む評論誌だが、「テーマ」については「批判的特集」を組むことがあっても、「人物」については、おおむね「人気者」を採り上げており、「人物」に関する「批判的な特集」というのは、ほぼ見当たらない。

無論これは、営業上の問題で、例えば「ドナルド・トランプ特集」をやらなかったのは、他誌との差別化のためであって、「ドナルド・トランプ(現象)が、現代思想における、知の検討には値しない」という理由からではないはずである。トランプ元米国大統領についても、考えるべきこと、検討すべきことはあるし、そのテーマで、それなりに読むに値する原稿も集まるだろうけれども、そんな「俗っぽい」特集をやっても、「知のエリート」を自負する読者には「ウケない」と分かっているから、『現代思想』誌は、「知の最前線(流行)」か「文化の最前線(流行)」に関わる、「人気者(流行)」の特集をするのである。

今回の「総特集◎小松左京 生誕九〇年/没後一〇年」も、小松左京の没後10年ということで、代表作『日本沈没』のドラマ化や小松の著作の再刊フェアなどが行われて、出版業界的に話題が盛り上げられるのは既定路線であるから、それに翼賛的に参加したということである。
言うまでもなく、没後10年だからといって、にわかに小松左京の「新たな価値」が見出されるわけもないのだ。

したがって、出版業界、特に小松左京の所属した「SF業界」に属する者は、小松が開拓した「市場」をしぼませることのないように、小松の仕事の価値を称揚し、さらにその「今日的な価値」を語って、その「市場」を受け継ごうとするだろう。SF業界関係者が、小松左京を持ち上げるのは、そういう「打算」があるからで、単純な「ファン」意識や「後輩」意識や「党派」意識などではない。

殊に宮本道人にように、自身の肩書きである「SFプロトタイパー」を、偉大な先達に冠して見せるというのは、要は自身の肩書きに対する「箔付け」に他ならない。
「自分のやっているSFプロトタイピングという仕事は、小松左京が先駆的にやっていたことの今日的な形である」だから「小松が偉大なら、SFプロトタイパーである我々の仕事も偉大である」ということであり、要は、自分たちも小松左京のように、「政府」や「経済界」筋からお座敷がかかるような有名人になりたい(高い所に登りたい)、ということなのだ。それで、テレビ番組のレギュラーコメンテーターにでもなれれば、なんてことだって頭の片隅にくらいはあるだろう。

だから、宮本道人や、そのお仲間の樋口恭介などは、ことあるごとに「SFプロトタイピングが流行している」とアピールするが、これは「我々は流行の最先端にいる」という、臆面もない「自家宣伝」でしかない(「流行っている」と連呼すると、それに食いついてくる、無定見な馬鹿は少なくないからだ)。
「SFプロトタイピング」というのは、「SF的発想術を援用した、ビジネスにおけるイノベーションの惹起法」であり、要は「ビジネスコンサルティング」の一種で、まんま彼らの「商売=稼業」なのである。

そして、そんな「今を生きる」彼らにとって、小松左京も今や「活用すべき資源」であって、素朴に「尊敬する作家」だとか「先輩」だとかいった話ではない。
星新一や半村良や眉村卓や光瀬龍や筒井康隆なんかがいくら好きで、そうしたSF作家をいくら持ち上げたところで、「没後何十年」かの特集号でも出れば、それに原稿料十数万円くらいの原稿を書かせてもらえることはあっても、「政財界」からお呼びがかかって、たんまり謝礼がもらえることなど、絶対に無い。
その点において「小松左京」は、どんな「日本のSF作家」とも違って、そうした意味での「別格」的資源なのである。

本号の内容を知りたければ、私がここに挙げた5人、小松左京「擁護派」の宮本道人、樋口恭介、小谷真理の3人と、「批判派」である酒井隆史や塚原東吾の文章を読めばいい。
私がここで書いたことが、身も蓋もない「業界的現実」であることを、多くの読者は(嫌でも)認めざるを得ないだろう。

要は、「小松左京ヨイショ派(擁護派=SF的新自由主義者)」と「小松左京がナンボのもんじゃ派(批判派=アナクロ庶民派)」の攻防が、「現代思想」編集部の「両論併記」の中立性アピールとして並んでいるのが、本号なのである。

一一まったく、ウンザリだ。

(2021年12月4日)

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