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伊藤潤一郎 『「誰でもよいあなた」へ 投壜通信』 : 今どきの柔な「哲学書」

書評:伊藤潤一郎「誰でもよいあなた」へ 投壜通信』(講談社)

本書の著者は、フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーの研究者である。ナンシーの翻訳書を何冊か持つものの、自著は本書が初めてのようだ。

フランス現代思想の入門書程度は齧っているので、私もナンシーの名前くらいは知っていた。
もしかすると読んだことがあるかもと、そう思って「Wikipedia」を確認したが、それらしい翻訳書名が見当たらない。ただ、ナンシーの場合は、同じくフランスの哲学者である、フィリップ・ラクー=ラバルトとの共著が多いとあったので、たしかラクー=ラバルトの方は、笠井潔のミステリ小説『哲学者の密室』の参考文献になっていたことから、ずいぶん昔に読んだはずだと思い、それがナンシーとの共著だったのではないかと思ったのだが、やはり、ナンシーとラクー=ラバルトの共著にはそれらしい本がない。で、ラクー=ラバルトの著書を確認したところ、それがあった。『政治という虚構――ハイデガー、 芸術そして政治』(藤原書店・1992年)である。
私はこの本を、ナンシーとの共著のように記憶していたのだが、そうではなかった。両者には共著が多いことから、この本でもナンシーへの言及が多くて、それを記憶していたといったことか、あるいは、『哲学者の密室』の参考文献表に、ナンシーの著書も挙がっていたのに、そっちは読まなかったといったことなのではないかと思う。

ともあれ、ナチスに協力した哲学者であるハイデガーの思想を、その思想の次元から批判しようとしていた両者なので、基本的には私は、ラクー=ラバルトやナンシーに「共感的」な立場である。
だから、ナンシーの研究者である本書の著者伊藤潤一郎にも、大筋で共感的な立場だとは言えるだろう。

また、私が本書を購読したのは、紀伊国屋書店大阪本店の「思想哲学」の棚に、新刊として置かれていた本書を手に取りパラパラとめくってみたところ、中井英夫黒衣の短歌史』』(P127)という言葉が目に入ったので、これは読まねばならないと思ったのである。

そんなわけで、ひさしぶりに「フランス現代思想」系の、日本人著者による本を読んだわけだが、忌憚なく言ってしまえば、本書は完全に期待外れだった。

著者の「立場」については、いろいろと共感できる点が多い。

(1)硬直した「専門家」的なスタンスでは、物足りない。
(2)ジャンル越境的なものに惹かれる。
(3)本を買うことが趣味であり、読みきれないほど買ってしまうが、それはそれで意味がある。
(4)安倍晋三に体現された、自民党政治が嫌いである(オリンピックにも批判的。「勇気をもらった」とかいった言葉は馬鹿くさい)。

他にもあるが、だいたいこういったところだ。

しかし、本書著者に足りないのは、こうした表層的なあれこれではなく、思考の「徹底性」なのだ。
「哲学」における肝心要の部分で、物足りなかったのである。

これは、(1)や(2)に関わってくることで、たしかにゴリゴリに硬直した「専門性」の、「硬直性」や「権威主義」や「視野狭窄」や「独りよがり」といったものは私も嫌いだし、それではダメだというのは、著者と立場を同じくするのだけれど、著者の場合は、そういうものを拒否する一方で、哲学者(哲学研究者)には是非とも必要な「徹底性」つまり「ゴリゴリさ」の方も足りないのだ。

なにも矛盾した話をしているのではない。
そもそも哲学とは、「常識」に捉われることなく、物事のギリギリの起点にまでたち戻って検討しなおす、という思考作業のことである。だから、「起点にまで戻る」という作業自体が、まず「ゴリゴリの懐疑主義」でなければできないことだし、そこからひとつひとつ思考を重ねていくという作業は、「ゴリゴリの慎重居士」でなければできないことなのだ。
つまり、「適当に起点らしきところまで戻って、適当に思考を重ねていく」というような「世間並みの柔な態度」では、それは「哲学」ではないのである。

したがって、「哲学する」者に必要なのは「ゴリゴリにやる徹底性」と同時に、「それだけで満足してはいけない。それだけでは不十分なのだ」という「自己懐疑」だ。
「ゴリゴリにはやるけれど、それだけでは十分ではない」という、そうした両面性を併せ持っていて、初めて「哲学」が始まるのである。

ところが、本書著者の場合、「ゴリゴリにやる」という部分が、ぜんぜん物足りない。妙に今風に柔で、変に物分かりが良さそうであり、要は、不徹底なのだ。

例えば、著者の伊藤潤一郎は、現在の日本における「哲学書」の劣化について、次のように批判をしている。

『いわゆる「大陸哲学」とそこに根差す「現代思想」にしばしばみられるこのような大風呂敷にどこか心を打つところがあるとすれば、それがひとつの時代の終わりを宣告し、新たな時代の始まりを告げているからだろう。とてつもなく大きな過去を相手にしているようでありながら、視線は現在からその先へと向けられており、期待であれ不安であれいかなる情動がそこにつきまとおうとも、閉塞することなき来るべき未来が率直に肯定されている。常識から出発した「等身大」の問題を明瞭・簡潔な学術論文のフォーマットに落とし込む哲学の勢いが強まり(そんな哲学はChatGPT にでもまかせておけばよい)、日常のモヤモヤを手がかりにするような哲学風エッセイが流行と化しつつある現在において、こうした巨視的な視座は時代遅れの過去の遺物にもみえるだろうが、その大風呂敷性にはいまだ考えるべき何かが残されているようにも思われる。』(P126)

『おそらく、こうした事態は「推し」という言葉に限らず、広く見られるものだろう。「ファンあってのプロ野球」でもなんでもよいが、ファンコミュニティに向かって「サービス」する言葉は最近はじまったことではないし、採算が取れなければ活動できず、収入がなければ生活できないのだから、文芸の世界にとっても無関係ではない。しかし、SNS(※ の「イイね」数)によってポジティヴな反応が数量として可視化される現在、書き手が承認の共同体の内部に向けて言葉を発する傾向は強まっているようにも思える。
 しかし、固定客向けの言葉はどこかで頭打ちになるにちがいない。なぜなら、そこには外部が存在しないからだ。オタク文化を超えて一般化した「推し」なる語が示しているのは、自己の存在のために他者を必要としながら、その裏で異質な他者とは出会わずに済ませたいという欲望である。「推す」側もあてこんだ言葉を投げ、「推される」側もあてこんだ言葉を投げる鏡仕掛けの装置のなかに、期待を裏切る他者は存在しない。たとえそれが時代の「約」(※ 約束・誓約)なのだとしても、少なくとも私は、そのような閉じた空間に言葉を投げたいとは思わない。私が立っているのは、吉田(※ 歌人・吉田隼人)と同じく「約」がすでに破られたところだ。「投壜通信」を標榜する以上、どこまでも遠く、期待の地平を越えて「あてこまない言葉」を投げてみたい。』(P133)

要は、現状流行中の、「哲学オタク」向けの言葉では「ダメだ」、もっと「強度のある言葉」を語っていかなければならないはずだし、自分はそれをしようと思う一一と、大筋でそのようなことを語っているわけだ。

で、このご意見には大いに賛成なのだが、しかし、ここで語られた言葉自体が、その決意を完全に裏切ってしまっており、いかにも「軽い」という印象が、否めない。

著者の「反時代的」に正統派の哲学者たらんとする熱意は本物だと仮に認めるにしても、それが実行できているとはまったく思わないし、なにより良くないのは、著者自身が「やれていない」という事実に、まったく無自覚な点である。

著者は、敬愛する先輩哲学研究者である細見和之の著書に倣い、「投壜通信」という言葉に、本書の主張を象徴させようとするのだが、それがどうにも独りよがりな自己満足の域を出ず、「なるほど」と納得させる域には全く達していない。
著者が自身が「これこそが投壜通信なのだ」とくりかえす、そんな押しつけがましさだけが、鼻につくのである。

もちろん、最初にも書いたとおり、著者は、基本的には「真面目な良い人」なのだろうから、「投壜通信」という言葉を「鬼面人を威す」態の「ハッタリ」として使っているのではなく、あくまでも本気でそのようなものを書いているつもりなのだろう。
だがそれは、当人が思っているほどのものになってはいないし、なによりその無自覚こそが、著者の最大の問題点なのだ。

例えば、著者は、これもフランスの哲学者であるポール・リクールが、弟子の著作に対して放った「とてもよいですね、けれどそこに裏庭は?」という言葉を取り上げて、次のように書いている。
少々長い引用となるが、議論の前提として、著者の主張を正しく理解していただくためなので、ご容赦願いたい。

『 2.庭付きの言葉

「とてもよいですね、けれどそこに庭は?」
 博覧強記で知られる二〇世紀フランスの哲学者ポール・リクールは、弟子が出版した初の著書を読んで本人にこう告げたという。しかも、庭に面した窓を開けながら言ったというのだから、哲学者は弟子の本に何らか閉じたものを感じたのだろう。庭を欠いた言葉。とてもよくできてはいるが窓が開いていない言葉。それはどのようなものだろうか。
 まず気づくのは、リクールのこの言葉が何を謂わんとしているのかすぐにはわからないということだ。「とてもよい」と評価されたそばから、「庭」がないと指摘されたところで、何を言われているのか即座に理解できるひとはほとんどいないだろう。何かが欠けていると批判されたことはわかるが、それが「庭」だと言われても困惑するのが普通の反応にちがいない。むろん、リクール自身もそのような反応が返ってくることくらい百も承知のはずである。そうであれば、少しばかり視点をずらして、これはすぐには理解されないことを狙った言葉なのだと考えてみたらどうだろうか。つまり、謎めいた言葉を発するという行為それ自体が、この言葉を読み解くヒントになっているのである。
 相手に謎を与える言葉、これを「暗号」と言い換えるとしたら、若き日のリクールが傾倒したドイツの哲学者カール・ヤスパースの思想がまず思い浮かぶ。「あらゆるものが暗号に成りうる」と述べるヤスパースにとって、世界は暗号に溢れており、その暗号を解読することによって、超越者(存在や神)と束の間の関係を結ぶことができるのだった。あるいは、リクールと親しかった「人格主義」の思想家エマニュエル・ムーニエも暗号解読の重要性を語っている。主著『人格主義』の一節では次のように語られていた。

(※ 引用文始まり)
 人格によってなされる自己の召命に関する不断の解明は、利害、順応、成功等、あらゆる手近な目標を絶えず打ち砕いているものであるから、この意味において、人格とは、たとえ彼の行為の各々は約束されたものであり、誓われたものであるとしても、無償性そのものであると言うことができる。人格とは、人間のうちにあって、利用され得ないところのものである。
(※ 引用文終わり)

 ムーニエにおいて「召命」とは、神から呼びかけられるものであるが、それはすぐに理解できるかたちで与えられるわけではなく、あたかも暗号のようなものとして人間に現れる。その暗号を試行錯誤しながら「解明」することによって、はじめて人間は俗世の利害関係を超越し、社会的な有用性という尺度から解き放たれる。ムーニエの語っているところをこのようにまとめると、いかにも内省的で聖書の言葉を読み込むことを説いているようにも思えるが、遠藤周作とともに戦後いちはやく人格主義を日本に紹介した加藤周一が指摘しているように、ムーニエの思想の意義は社会変革を志向する点にあった。しかし、戦後を代表する知識人が注目した存在でありながら、ムーニエの名はいまやほとんど忘れ去られており(例外は、須賀敦子『人格主義』の訳者のひとり越知保夫についての若松英輔の仕事だろう)、その理由を探ることは戦後日本の思想史を考えるうえで興味深いが、この点についてはいまは措いておこう。いずれにせよ重要なのは、キリスト教的な語彙に彩られたムーニエの思想が、その実、人間の根深い欲望を捉えているということである。神から与えられた召命を解読することが生き生きとした人格につながるという発想は、暗号という謎の解明を生の原動力としている点で、見事に人間の欲望のあり方を組み込んだ議論となっている。暗号研究者の長田順行は、一九七一年に発表したその名も『暗号一一原理とその世界』(のちに『暗号大全』と改題)を、「情報化時代と呼ばれる今日、ある意味で暗号はまさに時代の花形である」という一文から書き起こしていたが、それから五〇年以上が経過した現在、暗号はさらに身近なものとなり、セキュリティが求められるいたるところに存在している。とはいえ、暗号の存在は、それを解読したいという欲望とつねに背中合わせにある。暗号を破ろうという企てがなければ、セキュリティを高めるためにより強度の高い暗号化方式を求めつづける必要などないだろう。ムーニエの思想が普遍性をもつとすれば、暗号を解読したいという人間の根本的な欲望を捉えているからにほかならない。
 そもそも覆いがかかっているとそれをめくって内側を見てみたくなるという人間のあり方は、暗号のみならず人間の営みのさまざまな場面に見られるものであり、フランスの古典学者ピエール・アドの『イシスのヴェール』は、ヴェールをまとった自然の女神イシスと、そのヴェールを外して自然を探究しようとする人間の知の二五〇〇年に及ぶ歴史を描き出すものであった。アドの著作を読めばわかるように、カバーとカバーを外すことが織りなす思想の物語は驚くほど多面的だが(たとえば、ゲーテは自然に剥ぐべきヴェールなどはじめからないと言う)、少なくとも二〇世紀の哲学や思想においてくりかえし問われてきたのが、ヴェールを外した先に何か真正なものは存在するのか、という問いであったことはまちがいない。ヴェールの先に真の姿があるという発想は、言葉の意味という面で考えれば、解釈を研ぎ澄ましていくことで、いつの日か唯一無二の真正な意味に辿り着くことができるという態度となる。これはいってみれば、現時点でさまざまな解釈が乱立して混乱しているように見えようとも、それらはいずれひとつの正しい意味に収斂していくという大団円の発想である。この場合、未来へと向かうことは、多様な解釈の可能性を削ぎ落として正解へと向かっていく過程にほかならない。他方で、この真正な意味を、いったん失われたあとに回復されるべきものと捉えたとしても構造的にはほぼ同じことになる。バベルの塔であれ原罪であれ疎外であれ、純粋無垢や統一の状態にあったものが毀損され、やがて回復へと向かっていく神話や物語は数多くあるが、それらにおいては原初の状態と未来のゴールが等号で結ばれており、向かうべき未来はあらかじめ定められている。いわば、失われた過去といまだ到来しない未来の到達目標は時間軸の両端で手を携えており、過去と未来はあたかも循環するかのような様相を呈するのである。もともとの意味にヴェールをかけて第三者から隠匿し、それを外すことで意味の復元をおこなう暗号解読もまた、この循環構造のひとつの変奏であるといえるだろう。』(P18〜22)

べつに難しいことを言っているわけではない。
簡単に言えば「完全な真相解明が可能だと無邪気に信じているような、そんな単細胞に硬直した態度では、見えるものも見えなくなってしまう。もっと、見えない余白に目を凝らすような態度が、哲学には必要だ」と、そういう話だ。

つまり、ポール・リクールの、弟子の著作に対する「とてもよいですね、けれどそこに庭は?」という、思わせぶりな感想の意味とは「なかなかよく書けていますね。しかし、君のこの本は、いささか硬直的でもあれば、独善的であるとも言えるだろう。自分に見えていない部分というのが、想定されておらず、自己完結的にすぎるんだ。だから、もっと、開かれた目で世界を見るようにしなければならないし、そのような本を書かなきゃいけないよ」と、そういう話だというのが、本書著者である伊藤潤一郎の「解釈」なのである。

だが、この程度の話なら、さほど「難解」なものとは言えないだろう。
例えば、私は先日、黒柳徹子の自伝『窓ぎわのトットちゃん』を論じて、次のように書いている。

『アニメ(※ アニメ版『窓ぎわのトットちゃん』)でも描かれていたとおり、トットちゃんも「教室」の管理的な運営に馴染めず、すぐに外を眺めては、好きな「チンドン屋さん、来ないかなあ」などと考えているような子だった。
だから、先生も心得たもので、トットちゃんに窓際の席につけることで大人しくしていてもらおうと、いちおうは妥協し、折り合いをつけていたのである。

そんなわけで、トットちゃんは、「邪魔者として窓ぎわに追いやられた存在」だという意味で「窓ぎわのトットちゃん」ということになったのである。

だが、トットちゃんの「窓」とは、無論「外部」へと開かれた、自由の呼び声を伝えてくる開口部だった。
だから、大好きなチンドン屋さんが通りかかると、トットちゃんは興奮して、教室の窓から身を乗り出し、大声でチンドン屋さんに呼びかけるのであった。そのとき彼女は、「境界」を超えて「自由」の側に大きくはみ出していたのである。
また、だからこそ、退学にもなったのだ(ちなみに、かつては「チンドン屋さん」もまた、社会から蔑視された、職業被差別的な存在であった)。』

つまり、トットちゃんの「教室」の場合は、「窓という境界」を介して「外部」と直接接していたのだけれども、リクールの弟子の著作は、そもそも「外部」が無かった。
より正確に言うならば、想定されていて然るべき「外部」が想定されていないから、そもそも「窓」が存在せず、議論が「部屋の中」に終始する「自閉的なもの」にすぎなかった。だから、リクールは弟子に対して、「外部に開かれてあれとまでは言わないが、せめて内部と外部を繋ぐ媒介空間としての中庭くらいは、備えておくべきだよ」と、そう助言したという話なのである。

したがって、「中庭」が「外部への開かれ」の象徴(比喩)であるといったことくらいであれば、哲学の素人である私ですら気づく話なのだから、まして、リクールの弟子が、この程度の「謎かけ」を「難解」だなどと思うことはありえないのである。

では、その「ありえない」ことを、さも「そうであるかのように」、本書著者が描いてみせた意図とは、奈辺にあったのか?

それは、「外部への開かれ」というのは、なかなか困難であり、「だからこそ本書の主張も、まさにそこにある。投壜通信という比喩は、読者を限定せず、すべての読者である、あなたがた個々に開かれた本書のことなのだ」という主張を際立たせるための、いささか手前味噌な演出だったのである。

だから、上の引用部分で、著者は、

『 ムーニエにおいて「召命」とは、神から呼びかけられるものであるが、それはすぐに理解できるかたちで与えられるわけではなく、あたかも暗号のようなものとして人間に現れる。その暗号を試行錯誤しながら「解明」することによって、はじめて人間は俗世の利害関係を超越し、社会的な有用性という尺度から解き放たれる。ムーニエの語っているところをこのようにまとめると、いかにも内省的で聖書の言葉を読み込むことを説いているようにも思えるが、遠藤周作とともに戦後いちはやく人格主義を日本に紹介した加藤周一が指摘しているように、ムーニエの思想の意義は社会変革を志向する点にあった。しかし、戦後を代表する知識人が注目した存在でありながら、ムーニエの名はいまやほとんど忘れ去られており(例外は、須賀敦子や「人格主義』の訳者のひとり越知保夫についての若松英輔の仕事だろう)、その理由を探ることは戦後日本の思想史を考えるうえで興味深いが、この点についてはいまは措いておこう。いずれにせよ重要なのは、キリスト教的な語彙に彩られたムーニエの思想が、その実、人間の根深い欲望を捉えているということである。神から与えられた召命を解読することが生き生きとした人格につながるという発想は、暗号という謎の解明を生の原動力としている点で、見事に人間の欲望のあり方を組み込んだ議論となっている。』

と書いて、「ムーニエがキリスト教徒だからこそ、外部としての神を想定した議論を展開しているのだと、そう考えるのではなく、結果として、そのような態度が、人間というものを考える上で、より厚みのある思考をもたらしているという事実にこそ注目すべきなのだ」と強調しているのだけれど、これは、いかにも手前味噌にすぎよう。

たしかに「外部」を想定することは重要である。人間に「すべてのことが理解できるわけがない(どこまで行っても、外部は残る)」というのは明白な事実なのだが、しかし、だからといって「神はいる」とか「神の存在は否定できない」などと言い出すのは、いかにも「盲信者らしい手前味噌」でしかないのと、これは同じ話だからである。

実際、本書では説明されていないが、ここに登場するキリスト教徒は、なにもエマニュエル・ムーニエだけではない。

ポール・リクールも「神学書」を持つ、神学者の側面を持ったキリスト教徒(たぶんカトリック)だし、著名なカトリック作家である遠藤周作は無論、須賀敦子若松英輔越知保夫カトリック加藤周一も、亡くなる間際になってカトリックの洗礼を受けた人であり、要は、長らく無神論者を装ったカトリック」だった人に過ぎない。

そしてそれどころか、本書著者の伊藤潤一郎自身が、万が一にも「カトリック」だったなら、本書の主張は、伊藤の「無知」に基づく「偏頗で不十分なものの見方」であるに止まらず、カトリック信者による意識的な「ペテン」だということにもなりかねないのだ。
「外部を想定せよ」とは、結局のところ、これらの人たちにとっては、「神の存在を想定せよ」というのと同じことであり、伊藤の議論は、カトリック信者の「ヤラセ」だとも、「出来レース」だとも言えるからである。

さらに言うと、伊藤はここで、「暗号」という、いかにも「非宗教的」に聞こえる話題を持ち出しているけれども、キリスト教における「自然神学」とは、要は「自然の中に隠された、神の言葉(痕跡としての暗号)を読み解け」という趣旨の「信仰的学問」である。
「神がこの世界を創造したのだから、この世界の中には、神の意図が畳み込まれているはずだし、そのヒントも隠されているはずだから、それを見つけて読み解かなければならない」というのが「自然神学」であり、そう言いながら「神を完全に理解することは、人間には不可能」だともする。
ともあれ、この「自然神学」から「自然科学」が発展してきて、のちには「神学」と敵対するものにまで成長してしまったのだ。

しかし、こうした「自然神学」なるものが、学問として必ずしもフェアではなかったというのは、「異端審問」や「ガリレオに対する宗教裁判」などでも明らかだし、最近では、魚豊『チ。―地球の運動について― 』などでも、呵責なく描かれているとおりである。
要は、キリスト教会は「自然の中に、神の声を読み解け」と言いながら、その読み解いた答が、教会の教えに合致しないものであれば、それを「異端の説」として、引っ込めろ(さもないと火刑だぞ)と脅したのである。

つまり、ムーニエやリクール、あるいは、遠藤周作、須賀敦子、越知保夫、若松英輔、加藤周一と言った「著名人」たちが、「開かれてあれ」と、もっともらしく語ったとしても、それが純粋に哲学的な意味で語られたものだという保証などないといった程度のことは、議論の前提として、当然踏まえて然るべきことであった。
それらは「党派的な意図を隠し持った主張(ヤラセ)」だったのかもしれないし、その疑いは十分にあるのだ。
だから、そうした事実を踏まえ、しっかりと確認した上で「仮に彼らが、神の存在への信仰を証言するという、誤った開かれ方をしていたとしても、それでも、人は自閉するのではなく、正しく開かれてあるべきだという一点だけは、正しかったのだ」と、そう主張するべきだったのだある。

だが、本書の著者には、その程度のことすら出来ていないのだから、薄っぺらいとか、柔だとかいった印象になってしまうのは避けられないところなのだ。

著者は、本書の中で「哲学者と哲学研究者を区別することに、本質的な意味はない(要は、形式ではなく、中身の問題だ)」といった議論をしており、これについては、実にもっともなことだと同意する。

だが、自身のやっていることを「哲学」だと称するつもりなら、「疑うべきこと」に対しては、もっともっと徹底的に、ゴリゴリなまでに、疑わなければならない。
「徹底性を欠いた哲学」などといったものは、語義矛盾であり、まさに「神」のごとき「非存在」なのである。


(2024年2月19日)

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