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【短編】『飽くなきロマンス』(後編)

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飽くなきロマンス(後編)


 自宅に戻ると部屋中に散乱したいくつもの空瓶が私を出迎えてくれた。私は靴でそれらを部屋の隅にどかしては中央に空間を作った。カートに乗せてあった絵画を両手で抱え床にそっと置いた。包みは一度解いてあったために簡単に取り外すことができた。改めて絵画を見ると、窓の外を眺める少女の表情に目を見張るものがあった。どこか孤独で悲しそうな様子でありながら、その眼差しからは何かを信じているかのような希望さえ感じられた。ダニエルがこれはルノワールが描いた作品と言っていたが、ルノワールという名前はどこにも綴られてはいなかった。しかしよく観察をすれば、そう見えなくもなかった。私はテーブルにあった原稿用紙やら酒やらを全部どかして壁際にその肖像画を立てかけた。壁に釘を打って吊るしても良かったが、釘が折れて落ちることを危惧してあえてテーブルの上を選んだ。額縁に納められた少女は不思議な雰囲気を部屋中に漂わせた。薄暗くて汚いごみ溜めのような空間が多少は華やかになったような気がした。

 私は背広を脱いで一息ついてからいつもの如く素早くグラスを手に取った。前日に飲み残したバーボンを何杯か啜っていると、無性に自分を責めたくなる気持ちがどこからともなく湧いてくるのを感じた。私はなぜあんなパーティーなんかに参加したんだ。あそこに行かなければ良かったんだ。そうすれば私は彼女に出会うことはなかった。ダニエルの言う通りあれは見間違いだったのだろうか。いや、そんなはずはない。しかしなぜ彼女は私の前から姿を消したのだ。と今日一日の記憶が頭の中で錯綜する中、不意に別荘の玄関に立っていたドアマンのことを思い出した。彼の言っていたことは本当だろうか。ダニエルが人から土地を奪ったりするはずがない。彼は私の唯一の小説仲間だ。しかし私はあのドアマンに二度もチップを渡さなかった。いや、渡しそびれたんだ。あの時は彼女のことで頭がいっぱいだったんだ。そうだ、今からでも遅くない。彼にチップを渡しに行こう。と、独り言を呟きながら私はすぐに背広を羽織り外の通りに出ては、走り去るタクシーを何度も必死に追いかけた。ようやく一つが捕まると目的地の場所へと急いだ。

 すでに別荘に着く頃には日が沈んでおり、客たちがぞろぞろと建物の中から出てきていた。ドアマンは荷物を車まで運んでおり、礼儀正しく挨拶をしていた。

「おーい」

「あ、あなたは先ほどの。何かお忘れですか?」

「ああ、そうだ」

「でしたら今ボーイたちが片付けをしている最中なので、彼らに尋ねてみてください」

「そうするよ。それと、さっき渡しそびれたんだが」

と私は背広の内ポケットから財布を取り出し、普段のチップの五倍の額をドアマンに手渡した。

「こんな。いただけないですよ」

「いいや、君は良い仕事をした」

ドアマンはしばらく何も言わずに私の顔を眺めると言葉を続けた。

「わかりました。ではありがたく頂戴します」

「ああ」

と言って私はついでにダニエルに挨拶をしようと向かってくる客たちを避けて別荘の奥へと進んだ。再び気が狂いそうになる長い廊下を歩きながら私はダニエル、そして何よりも黒いドレスを着た女性の姿を探した。宴会場の部屋に入るもボーイたちが慌ただしく食器やグラスを片付けており二人の姿は見当たらなかった。私は広い敷地の中にある部屋の扉を一つ一つ開けて中を覗いてみては誰もいないことを確認した。すると、突然どこからか女性の叫び声が敷地内に響き渡った。私は何事かとその声のする方に向かって走った。叫び声は何度も廊下に響き渡りその悍ましさに妙な胸騒ぎがした。突き当たりを曲がるとすぐ目の前に開かれたドアから光が漏れ出ていた。私はどうか悲惨な状況になっていないでほしいと願いながら恐る恐る中を覗いた。とその時だった。目の前に男と女の姿がはっきりと映り、ダニエルらしき人物が背広のズボンを脱いだ状態で女の腰に跨っていた。目の前で体を曲げている女は黒のドレスを着ていた。私は一瞬何が起こっているのかわからずただ呆然と二人の姿を眺めた。すると、突然ダニエルが私に気付いては血相を変えてこちらへと走って向かってきた。暗転。

 私は自宅の椅子に深く腰掛けていた。頭を打たれたような感覚が俄かに残り、つい今し方見ていた夢での出来事を思い出そうとしていた。確かダニエルの別荘に戻ってドアマンにチップを渡した。そして部屋を一つ一つ覗き回っているとダニエルと黒いドレスの女に出くわしたんだ。すると、瞬時に彼らが行なっていた行為が脳裏に蘇り先ほど飲んだバーボンを吐き出しそうになった。しかし、あの恐ろしい出来事が何もかも夢であったことを知った途端急に全身の力が抜け、九死に一生を得たような感覚を覚えた。外はすでに暗くなっていた。どこか居心地の悪さを感じた私は、気を晴らそうと背広を羽織って近くのバーへと向かった。バーは多少混んでいて唯一空いていた奥から三番目のカウンター席に私は座った。手のひらサイズのメニューを眺めていると、突然バーテンダーに声をかけられた。

「何かの催しでも?」

「ああ、友人のパーティーにね」

「そうでしたか。お飲み物は何にいたしますか?」

私はすでにオーダーを決めていたが、意味もなくもう一度メニューに目を通してはバーテンダーの方に視線を戻した。

「ブラントンを頼むよ」

「かしこまりました」

と言ってバーテンダーは棚の奥からボトルを手際よく取り出してキャップをカウンターテーブルの手前に置いた。そのキャップには黄金のサラブレッドのフィギュアが溶接されており、バーボンを飲む前に馬と騎手の倒れ度合いを見るのが私なりの嗜みだった。私はしばらく何も考えずにグラスに入った氷を眺めていると、隣のカウンター席に座る男女の話し声が聞こえてきた。私は暇つぶしにちょうどいいと思い彼らの会話に耳を傾けた。

「あーあ、なんか面白いことないのかしら」

「何がそんなに不満なんだ」

「別に。あなたといることがつまんないわけじゃないわ」

「じゃあなんなんだ」

「何か物足りないのよ。こう、甘くて酸っぱいものみたいな?」

「そんなカクテルこの店にあったかな」

「そういうんじゃないのよ」

「そうか、さっぱりわからないな」

すると、男の言葉を遮るかのように不意に女が尋ねた。

「ねえ、ネバー・ゲット・タイヤード・オブ・ロマンスって曲知ってる?」

「知らないなあ」

「チェット・ベイカーの幻の未発表曲なんだって。なんでも薬物中毒で窓から飛び降りる前まで作曲していたらしいの」

「なんでそんなこと知ってるんだ?」

「知り合いのお金持ちが言ってたの」

「へー、どんな曲なんだ?」

「メロディは知らない。でもね、出てくる歌詞の中身が確か」

と女は宙を眺めて記憶を遡っていた。

「えっとね。とある男がね、街で見かけた女性に惚れてしまってね、ずっとその女性を忘れられずにいるっていう話だったような」

男はしばらく黙り込んでから女に返した。

「どこで聴けるんだその曲は?」

「だから幻の曲って言ってるでしょ」

「そうか。そりゃ惜しいな。きっといい曲だったんだろうな」

と言って男はグラスに入ったバーボンらしき酒を一気に飲み干した。

 私はふとパーティーで見かけた黒いドレスの女性のことを思った。彼女の真っ黒な長い髪。骨格が浮いて見えるほどのタイトな黒いドレス。そして私の目を見つめる黒くて美しい瞳。私は彼女の虜だった。彼女は私が失った全てを一瞬にして与えてくれた。そして全てを奪い去った。今はもう到底手の届かないところに行ってしまった。まるで額縁に収められた絵画の中に戻っていってしまったかのように。と先ほどまで隣の男女の会話に聞き入っていたことを忘れて、ただひたすら一時の思い出に耽っていると突然、何かを書きたいという大きな衝動に駆られた。私は席を立ち会計を済ませてから急いで自宅へと戻った。椅子に座ると一瞬グラスを手に取りかけたが、普段使い物にならない壊れかけの理性が奇跡的にそれを制御した。私は久方ぶりに机に向かい、友人からもらった高貴な肖像画を一目見て、すぐにペンを走らせた。


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