見出し画像

子育てに悩む前に読むと、もしかすると参考になるかもしれないブログ

このブログの背景
子育て中の女性の方と話をしていたら、「一般の方、特に女性が陥りやすい、見落としがちな点について気づきがあった」と言われて調子に乗って書いてます。


幼稚園、保育園選び

 日々驚きと発見の連続である子育て。自分の目の届く範囲にある内はまだいいですが、子供を初めて保育園もしくは幼稚園に入園させるのは別格の悩みどころ、と言えるかと思います。初めての子供を入園させるときに体験した幼稚園についてのお話です。
 私たちが住んでいたのは人口10万人に満たない北関東の街。大手企業の工場がある工業団地があり、そこそこ栄えていました。そのため日々の暮らしの中で、あまり格差が問題になることはなかったです。
 近場に幼稚園がなかったため、バスで送り迎えしてくれる幼稚園をいくつか候補にしました。その中にカトリック系の教会が運営している幼稚園があり、最終的にそこに入れることにしました。クリスマス時の「聖劇」などキリスト系の教えに沿った行事に加え、「お仕事の時間」と言ったモンテッソーリ教育を取り入れるなど、他の幼稚園にはない特色があったからです。その半面、市の幼稚園としての基準を満たしておらず補助金がもらえないため教会と共同でバザーをするなど、金銭面では負担が大きかったように感じます。それでも入園させたのは、ある意味特別な教育ということと、ブランドイメージがあったからです。
 この幼稚園にお子さんを入園させている親御さん達も同じような感覚だったと思います。そのため普通の方々もたくさんいましたが、それ以上に教育熱心でブランド好きな意識高い系の人々もたくさんいました。私たちの失敗は、そういう御家庭の子供は荒れる傾向にある、という点を考えていなかったことでした。
 特に酷かったのは、お子さんが校長先生のお孫さんという御家庭で、この家族とはバスの乗り場が一緒だったのですが、子供がさんざん虐められました。全て幼稚園を卒業してから知ったのですが、わざと私たちの子供の後ろの席に座って、バスが園に到着するまで頭を殴り続ける、階段から突き落とすなどは日常茶飯事だったようです。子供がピアノを弾いているときに思い切り鍵盤の蓋を閉められそうになったこともありました。この時はさすがに大人が制止したようですが。
 行事等で園に行くと、皆大人しく装ってはいますが実は心の荒れた子供たちばかりだったと感じています。そういう嘘っぽい、本来エネルギー溢れる子供たちであるはずなのに何故か空虚な雰囲気が、園に蔓延していました。キリスト教の本来の教えである、優しさや思いやりを持つ余裕がなく、親からのストレスを他者へのいじめで発散させる場所になってしまったのです。園のシスターは今も交流させていただいているぐらい、本当に良い人で、先生方も志の高い人たちでしたが、そこに入園させている親が滅茶苦茶でした。
 幼稚園や保育園を選ぶときは、是非とも子供たちと親御さんを注視ください。バイリンガル教育など、もちろん大切だと思いますが、園の志を本当に親が理解し共鳴して入園させているのかどうか。

小学校入学時のお友達

 前回の幼稚園選びは長女の時でした。長男である弟が今度は小学校に上がるときのお話です。
 長女の時は北関東の街でしたが、それから私たちはドイツのデュッセルドルフで5年間過ごし、埼玉県北部の街に帰ってきました。長女の幼稚園選びで反省を得た私たちは、やはり色々と幼稚園選びをしましたが、他者に子供の教育方針を依存する方向を改め、家族皆が幸せになることを目的とした「全体最適」の考え方にシフトしました。その結果、最も近くて通い易く、私(ダンナ)が送り迎えできる、なるべく努力を必要としない、評判もそこそこで無難な幼稚園に長男を入れました。もちろん事前に下見はしました。
 長男が大人しい子だったこともありますが、子供の幼稚園生活は全く波乱もなく本当に無難な園生活だったと思います。嫌な思い出もないので、お遊戯会や、運動会など、子供のイベントが印象深い記憶があります。
 そうして過ごした園生活も終わりに近づき、私たちは卒園イベントの役員になりました。卒園イベントの役員は基本的に父母会的な活動とは別なので、自主選抜でした。役員の中にはママ友仲間だった一人の方も一緒に加わり一か月前ぐらいから準備がスタートしました。
 このようなボランティア活動のリーダーシップは本当に難しいものです。私たちはリーダーではなく、子供たちが楽しくいい思い出になるためのお手伝いとして参加したので、イベントでの行事は正直なんでもよかったのです。最終的に、こだわりを強く持つ人がリーダーとなりました。その方はママ友仲間の方でした。それまで普通の方としてお付き合いしてきた方なのですが、こだわりが強すぎて予算もオーバーするなど、イベントの直前には役員の一体感がなくなってしまった、とのことでした。イベント自体は園の協力もあり支障なく成功しました。
 そのママ友仲間のお子さんも男の子でした。普段から長男とは遊び仲間だったのですが、そのころから長男がそのママ友仲間のお子さんから、度々ちょっかいを出されていることを知りました。遊んでいるおもちゃを取られたり、砂場で作ったものを壊されたり、つかまえてイヤだと言っても放してくれない、などです。本人に聞いても、園に相談しても原因はわかりませんでした。
 小学校は道を挟んで幼稚園の反対側にありました。このまま入学したら間違いなく状況が変わらないと思った私たちは、小学校に手紙を書きました。状況と考えられる原因、そのママ友仲間のお子さんとは距離を置いていただく、という内容でした。
 小学校の配慮で、それ以来そのママ友仲間のお子さんとは同じクラスになることもなく、ママ友さんとの関係もなくなりました。人間ですので、気が合う合わないは必ずあると思います。どちらか一方が無理を続けると、結果としてバランスが崩れ、最終的には双方不幸になるので、結果オーライだったと思っています。

SDGsじゃなかった、七五三

 子供のイベント、楽しいですよね。今回のテーマは七五三ですが、お食い初めから始まって、初節句、初めてのお正月など、泣いてばかりの赤ちゃんだった頃から成長した子供の笑顔を見るのは絶対に譲れない親だけの特権。夢中になって準備して、失敗しないように用意して、それでも、あーした方がよかった、こーした方がよかった、と考えてしまいます。でも気にしないでください。それは誰でもあることですから。
 私達の子供は女の子、男の子でした。長女が先に生まれ、双方の家にとっての初孫でしたから、イベント毎に両家のおじいちゃんおばあちゃんから色々贈り物がありました。もちろん嬉しいですし、お金のない若い夫婦にとっては助かります。その時は貰って困ったということではないですが、はっきり言って面倒なのは着物と節句の人形です。特に着物については、長女の場合は三歳の時に買ってもらい、それを着て写真を撮り、神社にお参りに行ったきり着ませんでした。長男の五歳の時もほぼ同様です。当時は、「結構着るよね?」と思っていましたが、そんなことはありませんでした。
 私たち家族は、転職や転勤などで2年に一回引越しをしていました。引っ越しの度に荷物少はなく、断捨離をしなければならないのです。でも心理的強迫観念に近いものかもしれないのですが、貰った着物は捨てられません。和服は放っておくと虫が湧くので手間がかかります。着物だけでなく、下駄、手提げ袋など一式で段ボールひと箱はあります。
 引っ越しをする度に開けることのない段ボール箱を眺めて、フォトスタジオのレンタル着物でよかったかな、と思ってしまいます。そんな時「この罰当たり!」と戒めるもう一人の自分もいるのです。
 もちろん、おじいちゃんやおばあちゃんの気持ちも大切にしたいものです。悲しませたくない、とは思いますが時代が違いますし、SDGsも大切ですから。

運動会とお遊戯会

 子供って本当に不思議です。日中の仕事で、倒れるぐらいヘトヘトになって帰ってきても子供の顔を見るだけで疲れを忘れてしまった、なんてことありますよね。ヒトは肉体ではなく、実は精神に支配されているということの証明で、子供はもはや親の精神領域を大きく占領しているのだと思います。それは、時間が経てば経つほどより深くなってきます。
 運動会とお遊戯会ですが、日頃園や学校の中で見ることのできない子供の活躍を見ることのできる機会です。実際私達も、子供たちの園や学校の思い出について目を閉じると運動会とお遊戯会が真っ先に脳裏に浮かびます。記録にも残していただきたいですし、是非思い切り楽しんでいただきたいです。一つだけ申しておきたいのは、私たちの場合だからかもしれませんが、後から撮った写真やビデオを何度も見直す、ということはほぼありませんでした。テープに取ったビデオをDVDに焼き直し、おじいちゃんおばあちゃんに渡す際に再生したことはありましたが、今では段ボール箱の中で捨てられない品物として熟成されてしまっています。一方写真は使うことがあります。小学校、中学校などで、卒業式のアルバムに使ったり、昔の自分を振り返る授業?みたいなもので何度か掘り返したことはありました。膨大な数から適切なものを探すのに大変でしたが。
 私たちの子供は、親もそうですが、運動が得意ではないので、かけっこで一位をとったり、リレーに選出されたり、表彰台に上ることはありませんでした。お遊戯会でも、王子やお姫様に選ばれることはありません。事前にわかっていますので期待もしていませんでした。それでも親の視界の中で自分たちの子供が光って見えます。遠くからレンズを通して、撮影後に違う子供だったということもあります。それでもいい思い出なんです。
 ママ友仲間の子供で、いつも一位だった子がいました。かけっこ、マラソン、何をやっても一番なので、そういう特性なのだと誰もが理解していました。あまりにも他の子供とかけ離れていたということはありますが、それについて羨んだり、妬んだりしたことはなかったです。一人だけ、子供を地元の有名サッカーチームに入れている親御さんがいて、なにかと張り合うような発言をする方がいましたが自然とグループから疎遠になりました。そのお子さんはスポーツは得意ですが普通の子で、いつも楽しく一緒に遊んでいましたが、みんなと遊んでいる途中にいつも親御さんから呼ばれて急いで習い事に通っている姿が印象的でした。
 運動会もお遊戯会も主役は子供です。それを頭に入れておいて、子供はもちろん大人も楽しめる行事にできればな、と思います。納得ができず、子供を不幸にする「ブラック校則」や、大人のための行事である「卒業式」* が早く改善されることを祈っています。
* 「ドイツのダイバーシティ事情」-「Coffee Break:インターナショナルスクールの卒業式」参照

コラム:親の無意識、社会の無意識

 先日会社の同僚と子供について話をしました。まったくたわいない、最近の子供たちの遊び事情についてでした。その男性は現在子育て真っ最中で、お子さんは小学校低学年の男の子と、幼稚園児の女の子です。
 外遊びの話となり、その方が比較的人の多い場所に住んでいるため、子供だけで公園などに行く際には車に気を付けなければ、と言ったところ
「大丈夫、うちのはビビりだから」
と言われました。私がもしこの方の子供でこの場にいて聞いたらきっと傷ついたな、と思いました。
 謙遜と卑下。自分自身でない場合に使うと聞いている人によってはあまり気持ちのいいものではないです。明らかに人権意識の薄い日本人を象徴するような表現になりますから。情報を正確に伝えることが誠意だとすれば、過度に子供を持ち上げれば自慢になりますし、反対は人権無視です。大げさだと思われるかも知れませんが、子供は大人が思っているより大人を観察し、そして傷つきやすく、悩み、大人に気に入られようと行動します。大人がイライラしていれば、原因がわからなくても、自分が悪いと思い込み、いい子になろうとします。大人が汚い言葉を使えば、それを学習し効果的に他人を攻撃することを覚えます。大好きな親は、絶対的な存在だからです。
 今の日本はジャニーズの問題や、ジェンダーギャップの問題で世界から注目されています。ある意味人権意識が低いと評価されている他の国と同等に見られています。これを解決する一つに「無意識の偏見」の改善があります。無意識に子供を卑下して傷つけていないか、という気持ちを持つだけで社会貢献だと思っています。 

運動会とお遊戯会2

 運動会やお遊戯会は子供が主役、という話をしたと思います。絶好の機会ですから、子供の様子を記録に残したいという気持ちは当然ですし、悔いが残らないように親も楽しみたいものです。一方で見方を変えると、これらのイベントは非日常ですから日常の規律で隠されて見えないことを発見できる貴重な機会であるのも事実です。
 次回テーマの「参観日」でも書きますが、これらの日は唯一親が、子供が主役である園や学校がどんな感じなのか確認することができる日です。ですので、子供が競技で活躍している合間に子供がどんな環境で生活しているのか確認しましょう。担任の先生がいたら、様子を見守り行動を観察してみてください。暇そうにしていたら労いの声を掛けるのもいいかと思います。忙しいようであれば、止めましょう。
 特に子供への接し方や、指導の仕方、笑い方、ほめ方、怒り方など、非日常の運動会では、ある意味その人の素が出ていると思います。可能であれば言葉遣いを確認したいです。子供に敬語を使う先生は少数派だと思いますが、それぐらい丁寧であれば子供を尊重し一人の人間として見ている証です。
 また、自分の子供の友達とその友達の相手に対するやり取りの仕方、接し方、話し方、笑い方が、不自然でないかどうかなどは、その子供の生活環境を現すときがあります。
 運動会などでは、お昼ご飯を子供と一緒に取ることがあると思います。お腹がすいた子供は御飯に夢中で、考える余裕がないので正直に答えます。是非運動会の感想を聞いてみてください。「楽しい?」「楽しかった?」という質問ではなく、「今日の運動会はどんな感じ?」という聞き方ですと、色々感想を聞かせてくれると思います。この質問は晩御飯の時でもいいです。ネガティブな回答が来たら、「なんで、そうおもったの?」とさりげなく一回だけ聞いてください。同じ質問を二回すると子供は構えてしまい、本当のことを言わなくなるからです。
 他にも見るところは沢山あると思います。自分の子供を見ることはもちろん大切ですが、子供の成長に大人がちゃんとサポートしているか確認しておくと、後々役に立つと思います。

参観日

 初めての参観日も、なんやかんや言って悩みますよね。子供同士が親しい親御さんがいれば一緒に行くのもありですが、そうでない場合、参観時間のいつまでに行けばいいのか?何を着ていけばいいのか?一人で行くべきか?など、色々悩みどころがあると思います。
 私たちの場合は、行ける人ができる限り行くという姿勢でいたので、どちらかがその日仕事がある場合は無い方が行く、どちらも仕事がなければ夫婦で行く、お休みを取ることができれば行く、という形で参加しました。もちろん夫婦が参加できない日もありましたし、お父さんだけだったり、お母さんだけという日もあります。子供にとっては非日常ですので、子供なりに思うところがあったのでは?と思いますが、私たちの子供は余り気にしないタイプだったようで、参観日について家で話題になることはありませんでした。そのため行く前に色々悩んで損した、ぐらいのイベントだったと記憶しています(あくまでも私たちのケース)。
 学校側も透明性のアピールのための開催なので、どうぞ見てください、という姿勢がほとんどです。行きたいときに行って、帰りたいときに帰る、という印象が強いです。ただ回によっては参観後のクラス会や、PTA役員を決める話し合いがあったりするので、あらかじめスケジュールは確認した方がよいかと思います。欠席裁判も、ないことはないですから。
 授業参観ですから、基本は授業を参観します。授業が始まる前は、子供たちのソワソワが伝わってきて本当に微笑ましいです。中には後ろを向いて恥ずかしそうに親に手を振る子供もいます。授業が始まると自分の子供が気になります。手を挙げなかったり、発言が少なかったり、黒板を見ていなかったり、どうしても他の子供たちと比較して自分の子供が劣っているように見えますが、その日の様子が毎日というわけではないので気にする必要は無いと思います。
 その日のために用意したものもありますが、廊下や教室の中の掲示物は子供がどう扱われているかのヒントになります。過去小学校低学年だった時に、私たちの子供だけ提出物が掲示されていないということがありました。その提出物の事も授業参観で初めて知り、それをきっかけとして担任の先生と色々と話し合いました。普段見ない子供の様子だけでなく、学校の色々を発見ができる機会だと感じました。

お弁当

 お弁当のイメージもそれぞれだと思います。ちょっと昔、「あたしんち」という漫画で、主人公がお昼ご飯の時に友達のお弁当を見て、家に帰ってから母親に「うちの弁当は茶色っぽくって恥ずかしいから、友達の弁当みたいに華やかにして!」と主張するシーンがありました。煮物や漬物などがメインになるとどうしてもそうなりますよね。むしろ健康的でバランスが良ければ、それでいいと思いますが、お弁当屋さんの広告にあるような彩のよいお弁当は美味しそうに見えだろうし、なにより「映え」の時代ですからね。
 個人的な話ですが、私は小学校4年生から高校までお弁当でした。埼玉県のとある街に住んでいたのですが、当時の町長さんの意向で「親子の絆はお弁当から」ということで、他の地域が給食センターの設置に次々と乗り出す中、私たちの街に給食センターを作らなかったのです。1970年代の話です。今だったらあり得ませんよね。もちろん子供達には大不評でした。外食が今ほどメジャーではない当時は、給食は子供たちの絶大な憧れでした。そのため揚げパンの味や、給食のカレーを好きな子に多く盛ってあげるなどの経験を知らない(私は小学3年生まで他の街に住んでいたので、かろうじて給食経験者でした)給食ロストジェネレーションを生産してしまったのです。
 お弁当には当然思い出があります。いい思い出とそうでない思い出が半々ですかね。親が色々と工夫して作ってくれた、という想いは当然ありますが、正月明けのお弁当に伊達巻や小魚の佃煮が入っていて、全くおかずにならなくて困ったこともあります。せいぜい紅白のかまぼこにしてくれ、と思ったことも記憶しています。一方で私たちの息子はその逆で、伊達巻が好きだったので高校時代に普段から伊達巻をお弁当に入れていたら、友達から「正月以外に食っている奴初めて見た」と言われたらしいですが。
 結局、お弁当は子供の成長に影響を与えますが、子供の心の成長には影響を与えません。私も伊達巻が入っていたからと言って、親を恨んだりしていません。今思い出すと吹き出してしまうくらいおかしくて、いい思い出だったと思っています。むしろ今も食べたいぐらいです。買ってきたものでも、作ったものでも栄養を考えて親が与えてくれた食事は子供にとって嬉しいものなのです。
 

お弁当2

 我々がドイツに住んでいるとき、子供たちは小学生でした。上の子は日本人学校に通っており、下の子はインターナショナルスクールに通っていました。日本人同士でご飯を食べるとき、当然お弁当になります。それに対して現地の(ドイツの)子供たちはどんなお弁当なのでしょうか。
 時々インターネットで、外国人の方が日本人と結婚して子供にお弁当を持たせるときにカルチャーショックを受けるという記事を見かけます。私たちはさほど意識していませんが、日本のお弁当は世界に誇るべき文化であると共に、親にとってプレッシャーであり大切な時間を奪う負の文化と言えるかと思います。栄養が満たされていれば見た目はどうでもいいのに、どうしても見栄えにこだわってしまうあまり、ウィンナーをタコにしてみたり、海苔をパンダに抜いてみたりしてしまいます。時々はいいですけど、毎日は辛いものがあります。
 他の国は知りませんが、少なくともドイツの子供たちはそんな見栄えのいいお弁当を食べていません。ほとんどの子が、黒パンにハムとチーズとレタスを挟んだものをタッパに入れ、バナナと一緒に持ってきます。または、学校近くのパン屋さんでパンを買って持ってきます。ある時驚いたのは、いつもパンを持ってくる子が、その日は親が忙しかったらしくポテトチップ一袋にリンゴでした。ドイツの学校では、食堂でグループになってお昼ご飯を食べますが、みんな楽しそうに持ってきたものをそれぞれ食べます。その際、持ってきたものが買ったものであろうが、作ったものであろうが、気にしません。むしろ華やかなお弁当を毎日作って持ってくる方が少数派ですので。
 一方ドイツでは昼に温かいものを食べるという文化がありますので、親は温かい食事を会社のカフェで採っています。端から見たら子供の昼の食事と親の食事とに大きく質に差があるので、これは虐待ではないか?と思ってしまいますが、ドイツでは子供のお昼は見栄の対象ではないようです。楽でいいですねー。高齢化と少子化で、女性の社会進出や、時短などの効率化が話題になりますが、このような現場レベルでもっと楽になったらいいのに、と思います。子供のお弁当はお父さんが作る(お父さん、お母さん、どっちでもいいですけど、とにかくどちらか一方の強制的負担にならないようにする)、もしくは5分以内に完成しなければならない、という法律を作ったらどうですかね。そうしたらレンチンしてパンに挟んだだけ、もしくはお握りだけのお弁当、または子供専用のお弁当屋さんが主流になるかと。ポテトチップ一袋はさすがにやりすぎだとは思いますが。

テレビについて

 我が家にはテレビがありません。長男が幼稚園の年長さんだった頃に、テレビとBS付きのレコーダーを廃棄してから、自宅でテレビを見ることは無くなりました。それまでは普通にテレビを楽しむ一般的な家庭でした。特に、教育テレビの幼児番組や「ダーウィンが来た」のようなドキュメンタリーが好きでした。
 もともと、上記のように限られた番組か子供用のDVDを見るために使っていたテレビでしたが、その存在に終止符を打つ後押しをしてくれたのが、NHKの受信料契約を担当している方でした。ある時その方が来て、アパートにBSのアンテナがついているのを発見し、訪ねてきました。使っていたレコーダーにBSを受信できる機能があったのですが、私たちはBSを契約しておらずアンテナにケーブルもつないでいませんでした。しかしその方は、受信機があれば契約しなければならないし、本来なら過去に遡って契約料を払わなければならないと教えてくれました。我が家からテレビが消え去ったのはその次の日でした。
 子育ての中で、テレビがなくて困ったことはありません。特に息子からは、テレビという単語がその口から出たことはありません。一方で長女である娘は、成人してからテレビがないことで高校時代に周りと話題が合わず、肩身の狭い思いをしたということを打ち明けてくれました。それについては本当に申し訳なく思っています。それ以外は、テレビが無いことで特に不便さや、不自由さ、情報不足のための困難、最新情報が得られないことで起きる問題、等はありませんでした。インターネットからの情報でカバーできたからです。
 テレビが無いと子供は本や新聞を読むようになり教育によろしい、などという人がいますが、そんなことはないです。子供はテレビのような何も考えずに心を動かしてくれる何かが大好きです。電車に乗れば外の風景を見たがるのと同じで、いつも新しいものを探しています。ただ単に、なければ違うものを探すだけです。本や新聞は面倒で退屈なので一般的に子供は嫌がります。おじいちゃん、おばあちゃんの家に行くと、基本的にテレビが点いていますので子供たちは釘付けです。そのためゲーム用に買ったパソコンとパッドが子供の唯一の情報源になったようです。
 ちなみに、我が家は新聞も取っていません。これからも、この情報エコな生活を続けると思います。

雛祭り

 3月3日は雛祭り、桃の節句ですね。女の子にとっては、誕生日以外で主人公になれる大切な日です。それに対して、端午の節句は男の子の日なのに、子供の日と称され不公平だ、と昔は思っていました。今思えばお菓子の量などを女の子だから、男の子だからという理由でヒイキされた記憶が無いのでどうでもいいことでしたが。
 ただ子供心に、子供の日よりも雛祭りのほうが華やかだった印象があります。雛人形の前で女の子が着物を着て遊んでいる風景は映えますよね。我が家にも、お内裏様とお雛様のセットがありましたが、引っ越しを繰り返しているうちに何処かへ居なくなってしまいました。子供たちも小学校の高学年あたりからこの手のイベントへの情熱が薄れてきたのか何も言いません。ある時は人形を飾る場所もなかったですし。
 豆まきの節分もそうですが、子供が小さいときは本当に心から楽しみますので、小さいうちはなるべく経験をさせてあげた方がいいかも知れません。大きくなってやらなくなっても、その頃の楽しかった経験は忘れないはずです。そうやって次世代に伝えていければと思います。子供が海外に出て、日本の文化を説明するときにも役に立ちます。経験的に、日本とビジネスをする外国の方は日本の文化に興味がありますから、このような伝統を知らないと説明できず苦労することになります。外国人とランチをすると、日本の伝統について聞いてきます * 。本当です。

* 「ドイツのダイバーシティ事情」-「ドイツのダイバーシティ その15: ドイツのバレンタインデー」参照

 また、本来楽しいイベントも無理矢理やらされるのは辛いです。無理矢理女子の友達にひな祭りの席に呼ばれ、白酒イッキさせられたりしたことはありませんが、節分の日に小学校高学年にもなって恥ずかしいのに大声で「鬼は外、福は内」と言わされたことはあります。大きな声を出さないと鬼は逃げない、などと言われたしなめられた記憶があります。あれができるのは幼稚園生ぐらいまでですかね。
 クリスマスやハロウィン、バレンタインなど新しいイベントも入ってきて一年中お祭りがあるので現代の子供は忙しいと思います。どのイベントも公平に仰々しくなく楽しめればいいと思います。親の思い入れを子供は不思議に思いますので、雛祭りだけ大掛かりなイベントにしてしまうと説明に困るからです。 

入園式、卒業式

 日本に限らず、入園や入学、卒園卒業を伝統的に祝うしきたりは世界共通ですね。伝統や形式を重んじる組織ほどその傾向が高いのは言わずもがな、だと思います。普段から忙しくている大人の場合は、そのような荘重な趣に心洗われる場合もあります。雰囲気だけで感情が高まり、目頭が熱くなる人もいるでしょう。一方で子供たちは楽しいのだろうか?といつも思ってしまいます。主役は子供たちであるはずなのに。もちろん目の前の子供たちが大きくなり大人になれば、自分たちが感じたこの感動を味わうことができます。そうやって繰り返していくのも悪い事ではないかもしれない、とは思います。子供の頃の疑問が今解けた、だからこそ感動もひとしお、なのでしょう。ただ個人的には来賓からの祝辞だけは時間の無駄なので止めた方がいいと思っています。その分子供が自分たちで企画した卒業パーティーなどに時間を使った方がいいのでは?と思ってしまいます。
 ちなみに、そのようなこだわりのない組織が卒業式をやるとどのようになるのか、ということをこちらのブログで紹介しています。*

* 「ドイツのダイバーシティ事情」-「Coffee Break:インターナショナルスクールの卒業式」参照

 日本において入園式、卒業式に欠かせないのが洋服です。特に子供が小さい時には、それきり着ないので無駄ですよね。肩身の狭い思いをさせたくない親は、どうしても用意せざるを得ません。私たちの息子が小学校入学時にも、私たちは周りと協調すべく入学式のためだけの服を買いました。残念ながらそれ以降使い道がないため、親しかった幼稚園時の知り合いに譲りました。その御家庭は女の子が息子と同級生で仲良くしてもらっており、女の子に弟がいたのです。日本ではもはや友達同士の関係が本当のお互い様になっていますので、このような譲り合いのできる関係はとても大切だと感じました。
 洋服と同時に、その時息子がハマって大量に集めたレゴも差し上げたのですが、それはもしかしたら迷惑だったかも知れなかったな、と考える時があります。親御さんは喜んだかも知れませんが、お子さんは果たしてどうなのか。散らかすことで、叱られる機会を増やしてしまった?とか。そういうことを考えだすと何もできなくなるのは判ってますが、何となくこだわりを押し付けたような感じがしてしまうのです。
 いま日本で起きていることのほとんどが、ある人のこだわり、または無意識からくる偏見的な感覚からきていて、自分たちの同意なしに進められている、と感じます。こだわることは自己主張なのでその人らしさの表現なのですが、こだわらないこと、またはそれを拒否し自分がやりたいことを実現することも自己主張だと思います。不要なものは不要と言え、私はこうしたいという自分と他人の意見を尊重して調整できる大人になりたいし、子供たちにもそういう社会を残したいと思っています。

お散歩

 先日、子育て真っ最中の女性と話をしました。そのお方は正規社員として外資系の会社に勤めているのですが毎日が忙しく時間が無いあまり、良くないとわかっていても子供が自分で服を着ようとしている時に親が着せてしまったり、時には厳しい言葉で急かしてしまう自分が嫌でたまらない、とのことでした。過去にその方とはドイツの子育てについて語り合ったことがあり、親が命令するのではなく子供に理由を聞かせてやらせる、子供のペースで終わるまで自分でやらせるなど、子育ての理想の姿について話をしていたのですが現実は厳しくできていないと嘆いていました。

「ドイツのダイバーシティ事情」-「ドイツのダイバーシティ その1:子育てと異文化」参照

 理想の子育てって、一体どんなものなんでしょうね。健康で社会に独り立ちできたら、それでいいと思いますけど。結局その女性とは、現代社会においてそのような子供の成長に合わせて親が見守るという理想の子育ては難しい、という意見で一致しました。
 さてお散歩についてですが、ある子育ての本で読んでから心がけていることがあります。それはお散歩など子供と外歩きするときに、親が前を歩くのではなく子供を前に歩かせる、ということです。親が子供の前を歩いていて目を離すと子供はすぐにいなくなります。子供は好奇心の塊なので、周りの楽しそうなものに引き寄せられるからです。子供が視界から消え何度冷や汗を掻いたかわかりません。知らないうちに転んでいた、ということもありました。特に時間のない時など急いでいて、子供に集中できていないときには要注意です。万が一トラブルが起きたことを考えると、手をつないで歩いたほうがよっぽど効率的だったと思います。
 ただし子供を自由に歩かせると、車が多い大通りなどでは逆に危険な場合がありますので、注意が必要です。公園内の散歩や子供が良く知った道など、危険が少ない場所であれば子供は得意になってガイドしてくれると思います。

褒める、叱るについて

 最初に生まれた子の子育てと、2番目3番目の子育てが全く違う感覚であることは経験しないとわかりませんね。長子の場合はマンツーマンですから幅広く子供の様子を知ることで安心できることも多いですが、その分気になる点も多いです。物事によっては、子供の特性が大きく影響するため親がどうしようもない案件もありますから、その場合は成り行きに任せるのが一番です。例えば子供の能力に関する事とかですかね。2番目3番目の子育てになると、加減というか、バランスというか、子供への接し方が分かるようになるんです。昔の自分が見たら「いいかげん」と思うだろうなぁ、ということが「良い加減」に変わるんです。不思議。
 さて褒めることと叱ること、ですが私たちの子育ての場合、初めに述べた通り子育ての経験によってその考え方が変わってきました。子育て初心者だったときは、子育ての方法のほとんどが自分たちの母親や親類、ご近所さん、ママ友、「私はこうして子供を東大に入学させた」などの教育本、等の経験者の体験談が元になっていました。実体験ですし、多少の誇張があるにしても、事実として間違ってはいないと思います。ただし、最も重大なことが抜けていることに気づきました。それは、それらの経験談を自分の子供に当てはめていいのかどうか、ということでした。
 子供はみんな、違います。その違いも様々です。同じ人間なのに言葉の違いで意思疎通ができないのと同じで、子供の違いによって子育てのやり方も違って然るべきです。残念ながらそのことに気付くのは、2番目3番目の子育てになってからなのです。そのため長女には散々褒めましたし、叱りもしました。トイレトレーニングが他の子と比較して遅いからと言って、怒鳴ったりもしました。本当に申し訳ない思いでいっぱいです。当時は「褒めて育てることで子供の良い所を伸ばす」という教育が主流でしたので、目いっぱい子供を褒めるのですが、その半面親子のストレスも大きかったように思います。
 最終的に私たちが子育ての拠り所としてたどり着いたのは、心理学でした。故河合隼雄氏の「子供の宇宙」や岸見一郎氏の「アドラー心理学入門」などです。これらの知識は人間に全般的に当てはまり、目の前の子供を一人の人間として扱うにはどうすればいいかという課題に応えてくれました。
 教育経験が少ない小さい子ほど、子供は直感が鋭いです。教育によって埋め込まれた規範や標準などの無意識が存在しないからです。そのため子供は褒められると、自分が特別扱いされた気持ちになって嬉しくなります。ただし直感が鋭いので、言葉や態度によっては子ども扱いされた気持ちになって嫌悪感を抱きます。子供は、子ども扱いされるのが嫌いです。子供はいつも、自分は立派な人間だと思っています(立派な大人とは思っていません)。特別扱い = 主人公、に対して、子ども扱い = 差別、なんです。
 大人が子供を叱るのは、子ども扱いの最も典型的な例です。心理学的に言えば、叱る人の立場が上で、叱られる人の立場が下という関係性を作っている行為に過ぎないのです。もちろん緊急事態や危険行為、他の人を傷付ける行為などについては親としてではなく、社会を代表する大人として強くその行為を戒めるということは必要でしょう。
 では、どうすればいいのか。ある時、3歳の女の子がお母さんと産婦人科病院の待合室にいました。その子はお母さんの診察に付いてきたのです。診察が終わって、お母さんはその子が騒ぎもせず大人しく待っていられたことに感激し「大人しく待っていられたね。良くできたね」と言いました。女の子は嬉しそうににこっと笑いました。
 この例に対して、3歳の女の子ではなく、診察に付き添ってくれた人がお母さんの母親、もしくはお父さんだった場合はどうでしょう。お母さんは「ありがとう」と言って感謝を伝えるでしょう。「良くできたね」とは言わないと思います。褒めるときには、その行為によって生じた幸せと感謝の意を伝える。こうすれば一人の人間として誰にでも同じように伝えることができると思います。あなたのおかげでお母さんが幸せになれた、と言って喜ばない子供はいませんから。

毎日のご飯

 いつも思うのですが、ご飯の準備って誰がやるべきなのでしょうか。自分独りの場合はもちろん自分ですし、親子二人の場合は親ですよね。家族の人数が増えてくると、自然と役割分担が決まってくるのは当然ですが、初めからお母さんなど女性がやらなければならないというのは、歴史的背景と社会的要請かもしれませんが、やらされる方から見れば単なる押し付けだと思います。
 そういう我が家も、子供が小さい時は子供の母親が準備していました。ちなみに我が家は共働きではなく、子供の母親は専業主婦です。結婚当初から、それが自然でした。そういう風に教育されてきましたし、夫婦共々専業主婦である母親の家庭で育ち、他を経験していないので共働きの家庭がどういう物か知りません。
 私たちは共働きではないですが、今ではご飯の準備はほぼ半々の割合になっています。朝は各々好きなものを食べますが、お昼の準備は一緒に、夜の準備は食べたい人が食べたいものを作る、というシステムです。ご飯よりパンやパスタが多いので、割合としては私が準備することが多いです。私がパン派だったため、その影響で家族の傾向が洋食メインになってしまったからです。自分が食べたいものを作るので、やらされているという感覚はなく、基本的にゆでて混ぜる、混ぜて焼く、というような簡単なものか、一品料理しか作りません。それでも交互に作るので、同じおかずが続いたりはせず栄養の偏りはないです。子供たちもメニューに文句を言ったことはありません。中身が違っていてもサラダが続くと、肉が食べたいと言うことはあります。育ち盛りですから当然ですね。
 今年息子が大学生になり、大学近くの学生会館で独り暮らしをしています。民間の施設ですが、基本的に学校のある平日は朝食と夕食が出ます。生活をセットアップする際に調理器具一式を持たせました。サークル活動がある日は外食するようですが、土日家にいるときは自炊しているようです。卵が好きなので、オムライスがここ数週間続いています。はじめはコンソメや中華スープの存在を知らず、塩とコショーだけで味付けしていたようで、美味しくないと言っていました。母親がアドバイスし、美味しくなったようです。
 これからの社会を生き抜いていくために、料理のスキルは学校の知識と同じぐらい必要になるのかなと思います。男性女性関係なく、そうなって欲しいと思っています。何故なら生きるために絶対的に必要なスキルだからです。子育ての目的は、子供が一人で生きていける、自立するためのものです。料理は、自分のことは自分でやるという当たり前のことを教えるいい機会になると思っています。

習い事

 習い事をいつから始めるか、ということも親の悩み事の一つです。正解は無いですし、それぞれの考え方によって違って当然だと思います。よくピアノや英語などは、聞き取りが大切なので絶対音感がある小さいうちから始めた方が良いという人もいますが、絶対音感は素質もあるので早い方が良いという考え方が正しいとは限りません。1/100音程を聞き分けるピアノの調教師は誰でもなれるわけではないようですので。
 慣れるまでに時間がかかる、という意味では将来子供がつく職業が決まっている場合は早く教育を施し覚えさせる方が良いかもしれません。音楽家一家の場合はその典型かもしれませんね。子供が望んでなくとも、早いうちからその環境に慣れていることで実力を発揮できる場合があるということだと思います。親がサラリーマンの場合は難しいですけどね。一方で、情報が氾濫している現在においては、高い税金にさらされ、年金不安など将来設計が困難で、人間関係のストレスも大きく、理解不能な政策に対して受動的なサラリーマンとは異なる職業に子供を就かせたいと思う親もいるでしょう。
 私たちの場合、子供を特定の職業に就かせる予定はなかったため、健康と学習にフォーカスしていました。娘は幼稚園入園と同時ぐらいから地域のボランティアの方が主催する「アース」という活動に参加していました。「アース」は戸建ての民家を教室として貸し切り、主に子供たちを自然と接する活動をしていました。お散歩して拾ったドングリやまつぼっくりでリースを作ったり、絵をかいたり、畑で野菜を作ったりしていました。小学校ではお絵描き教室へ通い、高学年から公文に通い始めました。子供の好き嫌いに合わせて通わたのですが、どの習い事も彼女の現在の人生に影響を及ぼした活動であったと自信をもって言うことは出来ません。
 息子の場合は、幼稚園がやっていた放課後英語教室、幼稚園から小学校低学年まで水泳教室とチャレンジパッド、小学校4年生まで公文をやっていました。運動があまり得意でないため、水泳教室については他の子が進級する中で自分が取り残されるのが嫌で本当は行きたくなかったと、高校生ぐらいのときに告白されました。その他の活動については、現在の息子の状況を考えると身についているのでは?と思います。身に付く活動は、目に見える結果が出るものです。公文では親がちょっとびっくりするぐらい進捗が良かったですし、チャレンジパッドも課題をすぐに終わらせてしまうので物足りなそうでした。
 習い事は子供を社会に送り出すための準備として行うものですが、私たちの場合、半分以上は無駄に終わっています。習い事によっては、良くない記憶になってしまったものもあります。原因は子供の性質だったり、親の思い込みだったり色々です。時間を戻して繰り返すことは不可能ですが、選択肢がたくさんある中で100%上手くいくことも不可能だと思います。子供の特性に合わせて、様子を見て続けて、それでもダメだったら諦める、ぐらいの気持ちでいいかなと思います。
 子供への投資、という考え方は絶対にやめてくださいね。投資は将来必ず回収するためのものです。親が子供から回収を望むと、子供は親から離れていきます。

スマホ、マンガ、読書

 先日元同僚の方と話をしました。一人っ子の中学1年生の娘さんがいるこの方は優秀な技術者さんです。謙遜もあるのでしょうが、娘さんの話となると必ず「うちの娘はダメで」と言われます。穏やかで優しい方ですが、いつも技術者によくある歯に衣抜きせない物言いなので、本気でそう思っているのかな?と思わせます。先日は、動画ばっかり見て勉強もしない、目的のない日常を過ごしているから携帯を取り上げた、と言っていました。動画が見れるのであれば、スマホでしょうね。それはもう、しょうがないと思います。考える力を必要とせず、脳にグイグイ刺激を与える動画は子供の大好物ですから。
 私たちの子供はすでに成人と大学生なので、スマホもパッドも持っています。高校生の時から持たせましたが、中学生の時は持たせていません。連絡手段として必要なら持たせるべきでしょう。コロナ以降、学校によってはネットで課題や連絡事項を出すところもありますから。それぞれの事情で親子で決めるべきことだと思います。
 とはいえ、世間にはスマホ慎重論があるのも事実です。悪影響の可能性を大げさにピックアップしてあたかも真実のように主張します。スマホだけではありません。ゲームも同じです。作っておいて、子供たちには禁止する。わたしたち本当に自分勝手ですよね。振り返ってみれば、どんなものでも悪く言われた時代がありました。本ばっかり読んでいる子供はけしからんという声もありましたし、電話は無礼で煩わしい、外で遊んでばっかりの子供は馬鹿になる、など。
 結局、スマホやマンガやアニメ、読書、ゲームなど見方を変えれば全部同じ、知的好奇心を満足させるための手段だと思います。夢中になりすぎて目が悪くなったりするかもしれませんが、眼鏡もありますし、無責任かもしれませんが、電気代など他の要因が無ければどれでも同じように与えるべきかと思います。将来、スマホに替わる革新的なデバイスが主流になった時、それは子供の成長によくないからスマホにしておきなさい、という時代が来るかも知れないですからね。

インターネット

 世界経済フォーラムが毎年発行している「グローバルリスク」というレポートがあります。毎年発表されており、発行年からの2年後および10年後に世界で問題となるトピックを上位10点予想しているのですが、数年前から「サイバーインセキュリティ」のリスクが上昇してきています。これはインターネット空間における懸念で、コンピューターウィルス、フィッシング、ランサムウェア、フェイクニュースなど、テクノロジーを悪用し他人の情報を盗んだり、故意に危害を加えようとするものです。便利で楽しいインターネットが普及するのは当然ですが、普及規模が拡大するにつれ負の面も大きくなっていきます。悪いアイデアを考えて実行に移す人が必ずいます。犯罪がなくならないのと同じですね。
 そのようなインターネット空間に、何の対策もせず子供を放り出すのは危険と思われるでしょう。ではどうするべきか。
 無暗にインターネットを禁止すると、子供は隠れて使います。それよりも大人が見えている場所で、子供に使わせることが良いかも知れません。実際我が家では子供が高校生ぐらいまで、パッドやスマホは親が見ている場所で使っていました。何を見ているのかはわかりません。時々画面を見ながらフフッと笑っている時があり、気にはなりますが、何を見ているのかはある意味プライバシーですので、そこには干渉しません。ネットがつながらないなどの問題があると親を頼ります。親の前で使わせることで信頼関係が存在し疑心はなかったように思います。平屋の狭い家だから実現できたことですので、大きい家に住んでいる場合は難しいかもしれません。
 昔インベーダーゲームなどが出現した頃、ゲームセンターは不良のたまり場と言われ子供の出入りが禁止されていました。喫茶店なども同じ文脈で使われていたような気がします。今ではそんなことなく、ゲームセンターでUFOキャッチャーをしている子供のグループを見かけます。ファミレスなどに子供だけで行く場合もありますね。そもそも、大人がやっていいものを子供がやっていけない、という道理はないと思います。
 不意に広告が出てアダルトサイトや、課金のあるサイトなどに飛んでしまうのは、もはやしょうがない事だと思います。そのようなサイトにはフィッシングの危険が潜んでいますから、リスクがあることを説明して即座に閉じるように教えます。子供が見ているサイトを大人が評価するのは、子供が最も嫌う行為です。たとえ目についたとしても、大らかな心で対応したいものです。日本は今、気に入らない人へのバッシングなど不寛容な空気が蔓延しています。寛容に扱ってもらうことで、他人への寛容さを学ぶ場合もありますので。

お受験

 我が家の子供たちは、小学校はドイツのインターナショナルスクール、中学校は日本の公立学校でした。息子は中学一年の7月にドイツから帰国したので、帰国枠で国立大学の付属中学校へ入学しました。帰国枠でも試験がありました。試験の内容は親には判りません。試験を受けた次の日合格の発表がありました。「難しかった」という態度が息子からなかったため、入試形式ではなく一般常識程度の問題だったと推測しています。
 小中学校における「お受験」は息子の中学編入時ぐらいで、まともに受けたものが無いため経験として語れません。とはいえ最近は小学校から私立に入れるご家庭も多く、私が通勤で使っている神奈川県内の私鉄にはたくさんの私立小学生が乗車してきます。一年生からいるので、小さいのに電車通学大変だなと思いつつ、時には微笑ましい光景もありますが、電車が走行中に移動するなど危険な場面にも遭遇します。
 入学当初は親がホームまで見送りに来ます。電車が走り出すと、そこはもう子供たちの空間です。本を読んだり、おしゃべりをしたり、まだ足がつかない列車の椅子に座って、皆さまざまに時を過ごします。大抵の子達は友達と一緒ですが、制服が違う子が一人で寂しく乗っていたりすると、ちょっと心配になります。後から友達が乗ってきてホッとすることもあります。他人の子供ですが、子供は今や貴重な社会の宝ですから、この心の反応は正しいと認識しています。
 電車に乗っている子供たちは、基本「お受験」をパスした子供たちなので皆幸せそうな表情をしているように見えます。良かったね。
 半面、パスできなかった子供たちがいるのも事実です。その子たちの毎日の表情はどんなものなのでしょうか。知る術はありませんが、そんなことを考えると、この電車内の空間と外が全く違った世界に思えてしまう時があります。考え過ぎですけれど。
 子供なのでお受験の意味を余りよくわからず、毎日元気に楽しく遊んでくれていたらいいな、と思っています。

お迎え

 私が通っている会社の近くの横浜の公立小学校では集団登校をやっていません。たいてい二人組の子供たちが楽しそうに朝、学校へ向かって歩いています。一人の子もいます。姉弟で通っている子供たちもいます。昔のように旗を持った班長を先頭にして一列に並んで登校する風景は、私の中では過去のものとなってしまいました。もちろん地域によっては大人が見守る中、そのように登校している子供たちもいるでしょう。
 集団登校には当然メリットもありますが、友達関係が難しかったり、突出した個性に振り回されてしまうなどデメリットもあるかと思います。最近よく聞く車の事故に巻き込まれてしまうと、集団登校ではダメージが大きい場合もあります。議論が盛んになり、いろいろと選択肢が出てくるのはよい事だと思います。あくまでも子供優先で考えた場合に、です。
 さてお迎えについてですが、保育園や、幼稚園はお迎えが必要です。お迎えは職員の先生や、他のお母さんと交流し情報を得るいいチャンスです。園によっては、ぐずぐずしないで速やかに立ち去ってください、というところもあると思いますが、是非自分の子供の様子だけでなく園や他の子供やお母さん方の様子も観察していただきたいと思います。挨拶だけでもいいでしょう。短い挨拶ほど、ほんの短時間でその人の育った環境や人間性が現れる行為は無いと思いますので。
 私たちの長男の幼稚園は、ありきたりの普通の園で地方都市だったため、特にお迎えについての規制はありませんでした。駐車場がなかったので車でのお迎えは限られたものになっていましたが、私たちの場合歩いて5分程度の場所だったため、ゆっくりとお迎えに時間を費やすことができました。もちろん、親同士の会話もゆっくりできますので貴重な情報源となったことは言うまでもありません。園の経営状況や、園長先生と職員との関係性(私立の場合はたいてい対立していることが多い)、地域の情報や、進学についてのことまで(上に兄弟がいる場合)、親身に教えてもらえます。この時の知り合いがその後小学校に上がっても続くのです。
 親が話している間は、子供は園庭で遊びます。園庭が解放されていない場合は、交通の邪魔にならないようにしましょう。子供は基本じっとしていないので、手をつないでいないと園から出たとたんに何処かへ行ってしまいます。特に通行量の多い道路は注意が必要です。
 先日ワンオペで働いて子供を育てている女性の方が、やっと念願が叶い近くの公立の認可保育園に子供を入れることになったと話をしてくれました。その保育園で配られた説明書にはお迎えについて「仕事が終わったらすぐ迎えに来ること」「買い物はしてはいけない」「延長保育はしていません」など強い物言いで注意事項の記述があり、それを見ただけで自然と涙が出てしまった、と言っていました。その話を聞いた時、私も悲しくなってしまいました。
 公立保育園は、働いている人のお子さんを優先的に預かっています。だからこそ、会社帰りに息抜きしたり、買い物したり、自分の時間を持つことは生きるために何より大事なのに、ここまで厳しい社会になっているということに愕然としました。これでは子供を産んで育てようなどという人が増えないのは当然だと思います。ちなみにその公立保育園は土日の保育もやっていません。「病院にも行けない」とその女性はうつむきながら自嘲気味に悲しく笑っていました。

お金

 子供にお金を与える機会は幾つかあります。お小遣いに、お年玉。知り合いのおじさん、おばさんから貰うこともあるでしょう。その度に、私たちは子供からお金を取り上げてきました。こう書くと、虐待ではないか?と言われるかもしれませんが、ちゃんと子供名義の口座に貯金していたので問題ないと思います。そのお金は、大学生になった時に通帳とともに渡しました。郵貯の学資保険にも加入していたので、その満期が18歳だったためです。
 よく子供にお金の使い方を学ばせる意味で、早くからお金を渡した方がいいと考える場合もあるかと思いますが、そんなに単純なことではありません。子供はお金があると、あるだけ使います。子供にとって、何の苦労もなく手に入ったお金は、魔法の杖のようなものですから。かといって、お金を手に入れるプロセスを身をもって教えるわけにはいかないので(働かせれば、場合によっては児童労働になってしまいます。子供同士のお金の取引もトラブルの元ですからやめた方がいいでしょう)、そうなるとお金に関する知識と能力(ファイナンス・リテラシー)がある程度構築されるまでは、できる限り自分でお金を使わせない方が良いと考えたからです。ただし子供が欲しがる必要なものを買う場合は、子供が能力的に選べない場合を除いて、その選択は子供にさせます。そうしないと、子供は親が選んだからという理由を覚え責任回避をするようになります。
 そのため我が家でお小遣いが始まったのは高校生になってからでした。子供が小学校、中学校時代には、近所の友達でお小遣いを持った子が遊びに来ましたが、一緒に何かを買いに行かせるということはしませんでした。遊園地に行けば遊ぶためにお金は必要ですし、ゲームセンターに行くことも反対ではなかったですが、私たちの中ではお金を使うことは消費なので、お金を使うことが目的となるような行為は、遊びと一線を画した方が良いと思っていたからです。

毎日のおやつ

 食べるのが好きな子。好き嫌いの多い子。ゆっくり食べる子。ご飯に興味のない子。色々います。どんな子でも親は気をもんでしまいます。もっと噛んで食べなさいとか、こぼさないで食べなさいとか、残さず食べなさいとか。しつけはもちろん大切ですし、ご飯を全く食べないなど状況が酷すぎる場合を除いて子供の人生に大きく影響はないので心配しないでいいと思います。親が望むように完璧に食事ができる子供なんていないし、そもそも気にしすぎるとストレスになって親子関係が悪くなります。そっちの影響の方が良くありません。
 女の子、男の子ということもあったのかもしれませんが、我が家では女の子の方は食べることに興味があり、男の子のほうは全く興味がありませんでした。興味がないと言っても食べないということではなく、張り合いが無いんです。お腹がすいている時には「美味しい」ということもありますが、たいていは出されたものを黙々と口の中に運ぶだけです。それでも小さい時はにこにこしながら食べていましたが、小学校高学年あたりからはおかずを一心に見つめ、頭を動かさずお箸の往復運動が繰り返されるだけになっていました。
 そんな息子はおやつにも興味がなく、その場にあれば機械的に食べますが自分からおやつを要求したことがありません。本当に子供ってそれぞれなんですね。
 我が家では基本的に親が食べたいものを買って、それを子供に与えていたような気がします。そのため娘は高校生になってお小遣いがもらえるようになると良くコンビニでお菓子を買っていたようです。反対に息子は自分でお菓子を買ったのを見たことがありません。遠足の時ですら、親が用意していました。彼にとって、遠足のおやつにバナナは含まれるのかどうか?という誰もが一度は悩む問題は全く関心がなかったようです。
 結局おやつは心に安らぎを与えますが、生きるために必要というわけでもないので、私たちはそこに労力を掛けなかったという印象です。それでも何とかやっているので皆さんもご心配なく。もちろん、雛祭りには雛あられ、クリスマスや誕生日のケーキは食べました。これはもはや、毎日のおやつというよりはイベントですので。

歯磨き

 食べたら歯磨き。大人にとっては常識ですね。でも、子供にとってどうなのでしょうか。子供の態度から想像してみますと、面倒くさい、やらされ感たっぷりの、どうしても上手くいかない、怒られるばっかりで、せっかく美味しいものを食べて気分が盛り上がったのにがっかりする嫌な習慣だと思います。
 ただこればっかりは、子供の成長を促すための補助的な他の習い事などとは大きく異なり、それが役立つかどうかに関係なく、小さいうちから子供の自主性に任せてやらせるという方針は見直した方が良いかと思います。何故なら健康にかかわることですし、乳歯の時はまだいいですが、永久歯に生え変わった後虫歯になったら取り返しがつかないからです。徹底して歯磨きの習慣をつけさせましょう。
 習慣をつけて毎日歯を磨いても虫歯になります。磨き方に個人差があるからです。必ず、少なくとも半年に一回は歯科検診に行きましょう。虫歯にならないで成人したとき、100%子供は親に感謝します。これだけは言い切ることができます。
 我が家の娘、息子は虫歯がありません。そのように指導してきたからです。初めて歯が生えた時点から歯磨きを教えてきました。もちろん当時は嫌がりますので無理矢理です。でも、時が経つにつれ慣れてきて親のなすがままになります。子供によっては激しく嫌がることもあるかと思います。まず親が磨いている姿を見せ、「歯磨きの時間だよー」といって子供を誘います。子供の頭を膝に乗せ、そのまま磨きます。歌を歌いながらリズムに乗って磨くと比較的ウケが良かったです。歯磨き粉を付けるのは自分で磨けるようになってからです。美味しくないので嫌がりますから。
 歯磨きを徹底してきたのには理由があります。私たち夫婦は、奥歯のほとんどが虫歯で悩まされ子供の頃から歯医者さんのお世話になってきました。虫歯は完治することはありません。痛くなって歯を削ったり、神経を取ったりして治療をした後、歯医者さんは治ったとは言いません。「安定した」と言います。ひとたび虫歯になって歯を削ってしまうと、それ自体が病気の状態でただ進行しないというだけなんです。いつ繰り返してもおかしくない状態というわけです。
 健康で、不自由せず育ってきて親には感謝しています。しかしながら虫歯だけは、きちんと指導して欲しかった、と今も思います。昔は虫歯についての知識が薄く、私たちの親もほとんどの歯がありません。要介護になり、今では柔らかいものしか食べることのできない親を見て、反面教師の正しさを実感しています。

遠足に?

 親として子供の遠足の思い出はなにか?と自問自答すると、子供たちが小学校以上の場合は、何もないというのが回答になります。親がついていくわけではないので、記憶に残らないんです。子供によっては、お菓子に何持ってく?とか、いくら使う?とか大騒ぎする場合もあるかも知れませんが、私たちの場合は、あらかじめ親が買ったお菓子を持たせるというスタイルだったので、刺激的な催しではありませんでした。
 思い出に残っているのは、子供たちが幼稚園の頃の遠足です。それが主流かどうかわかりませんが、私たちの子供の幼稚園では親がついてくことができました。バスの手配など先生方も大変だったろうな、と今でも思います。しかしこの「親がついていく」遠足が侮れないものなのです。自分が子供の時、遠足はもちろん楽しかったと記憶しています。そんな興奮状態の子供を間近で観察できるなんて、夢のようだと思いませんか?
 幼稚園の遠足は、たいてい遠くてもバスで一時間程度の場所に設定されることが多いと思います。私たちの場合もそうでした。その間、いつもの幼稚園服をきた子供と一緒に座って目的地を目指しました。バスの中でどんなアトラクションがあったかは覚えていませんが、園児みんなが頬を紅くして、一生懸命に外の風景を眺めながら、目をキラキラさせ今にも笑いだしそうな表情でバスに揺られている様は本当に微笑ましかったです。
 目的地に着いてからは、家族毎の行動でした。遠足というよりは、家族でお出かけという感覚だったと思います。子供同士が親しい家族同士でお弁当を食べたりしました。子供は大はしゃぎです。はしゃぎ過ぎて、娘の遠足の時には噴水の池に靴を流されてしまったこともありました。慣れない場所なので子供から目を離さないようにしましょう。
 親御さんが来れない子供たちは園の職員と一緒です。それはそれでいい思い出になると思います。私たちも毎年付き添っていたわけではなく、行けるときに行っていました。義務ではないので、親が行かなくてはいけないわけではありません。主体はあくまでも子供ですので、一緒に行けた場合ラッキーぐらいの感覚がいいと思います。寂しい思いをさせる、などと心配するかもしれませんが、無理をする必要は無いと思います。子供はそれほど、気にしてませんから。

お買い物をする母娘

 先日とあるドラッグストアでお買い物をしている母娘を見かけました。広く、比較的静かな店の中で子供たちが大きな声で会話しているのが気になったのです。白を基調としたスーツっぽい服を着たきっちりとしたお母さんと、小学校中学年の姉、小学校低学年の妹の3人でした。二人とも真っ黒に日焼けしていて健康そうでしたが、小学校低学年の妹の足が傷だらけでした。また妹は常に大きな声で話をしていました。自分の主張を聞き入れてもらえない、日頃から抑圧されている子供の特長なのかなと思うぐらい大きいのでした。考えすぎならいいですが。
 通りすがりに、家族の会話が耳に入ります。お母さんが子供たちに「何がいい」と聞くと妹が我先に大きな声で応えます。それを聞いた姉は必ずさらに大きな声で「それはダメだ」と否定するのです。イチゴがいいと言えば、すぐ悪くなるからダメ。メロンがいいと言えば、甘すぎて虫歯になるからダメ、という具合に。それに対してお母さんは何も言いません。きっと姉はお母さんからそのように言われてきたのでしょう。そしてお母さんが二人から目を離した隙に、姉は妹を手の甲で眉間を殴るようなそぶりをし、一瞬妹は顔を背けましたが、何事もなく妹は元の通り明るく振舞っていました。ああ何時もこうなのだな、と思い悲しくなりました。
 「幼稚園・保育園選び」の中で、”親からのストレスを他者へのいじめで発散させる”と書きましたが、まさに姉がその状態だと感じました。姉に対してお母さんは何も言いません。それどころか、二人の喧騒を気にしないまま、どんどん先に行ってしまいます。まるで意図的に無視しているかのように。
 ただこの状態だけを見てお母さんを責めるべきではないと思います。もしかするとお母さんのストレスの原因が夫婦関係にあるかも知れないからです。
 先日発表されたベネッセ教育総合研究所の「子供の生活と学びに関する親子調査2023」の結果では、親が幸せだと子供も幸せ、子供が幸せだと親も幸せの好循環が報告されています。逆もしかりで、親が不幸だと子供も不幸になる悪循環だと思いました。この母娘がその典型でないことを切に祈っています。


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?