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謙虚であるための魔法のひとこと


「謙虚でありたい」と「堂々と意見を述べたい」が噛み合わない

自分で自分が偉そうだと思うことがある。あたかも色んなことを分かっているような顔で話してしまうときだ。
たしかに将来立派な大人になるべく、あらゆることに興味関心をもち、積極的に学んでいるものの、所詮は20代。社会的には未熟者である。

自分が偉そうだと感じるたびに反省をする一方、仕方ないとして自己を肯定したがる自分もいる。
もしかしたら、「上手な反省」をできていないのかもしれない。
それとも実際自分にはソコソコ語れるだけの知識があって、他人もそれで気づきを得たり何かしらのメリットがあったりしたら、それは「仕方のないこと」なのだろうか。

この判断を自分でするのは難しい。

謙虚さとは何か

自分の知識と経験をもって考えや意見を述べることと、分かったような感じで話すこととの差分は何か。
単純に「言葉の選び方」や「話し方」の問題だろうか。
もしそうでないのであれば、知識が少なく経験も浅い未熟者は、いったい「いつ」「何を」「どのように」話せばいいのか。

自分の考えや意見は述べたい。しかし、偉そうな人になりたいわけでもない。むしろ日々謙虚でありたいと願っているし、そうあるべきだと信じている。

沈黙や萎縮することが最適解ではない

ただ、黙り続けていれば自分の考えは周囲に伝わらず、人の目には「意見がない人」「よく分からない人」として映りやすい。あらぬ誤解を生むこともある。
人は千差万別なので誤解を恐れていてはキリがないが、避けられる災は避けたいものである。

発言するたびに、自分の意見は間違ってるかもしれないと思いながら恐る恐る話せばいいのだろうか。それでは弱気に見えてしまって、話の内容をちゃんと聞いてもらえない。

黙り込むことも、恐る恐る話すことも最適解とはいえなさそうである。

素直でいることがベスト

いっそ、「自分の話は間違っているかもしれないけれども」と前置きしてしまうのはどうだろうか。

いちばん正直かつ素直で、率直、端的である。聞く側は気持ちがいいかもしれない。また、自分も取り繕う必要がなく、精神的に楽そうだ。

松下幸之助は生前、「素直」という言葉にこだわった。私はその真意を理解したいと思う。
そのためには自らが日々意識し、実践し、ときに間違えながら、素直が何たるかを徐々にハラに落としていく必要があろう。

ということで、まずは「自分は間違っているかもしれないけれども」というひと言を大事にしようと思う。


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