見出し画像

目的と手段(ユダ続編)

前回、「ユダは裏切り者ではない」をテーマに書いた。

大前提、なぜイエスは刑に処されたのか。長くなりすぎるため、このことには触れなかった。前回の穴埋めをする。

今回は、イエスの極刑の背後にある歴史について。


後世に残された記録や証言は、私たちに、イエスの処刑に政治的背景があったことを伝えている。

これをテーマに執筆した作家が、こういう表現をした。「イエスの処刑は、宗教的・政治的権力者たちの煙に包まれた裏部屋から生まれた、犯罪だった」


イエスの生きた時代より少し前。

ユダヤの土地では、ヘロデ王が強権をふるっていた。そのため、統治はいきわたっていた。

ヘロデ王

マタイの福音書に、彼のことが書かれている。大規模な建設事業を次々と行うなどしたが、自らの地位を守るためには、妻子すら殺害した。そんな人物だったようだ。

ローマ皇帝は、ユダヤをヘロデに任せっきりにしていた。というのも、ヘロデさえうまく管理すれば、ユダヤの土地を労せず統べることができたからだ。効率がよかった的な。

紀元前4年にヘロデ王が亡くなった。

それからのユダヤの土地では、ローマとの関係をめぐって、内部で対立が生じるようになった。ヘロデの後継者には、この事態を収集する力がないと判断したローマ皇帝は、紀元6年、ユダヤの土地をローマの属州にした。


イエスは、30才前後で宣教をはじめた。それまでは、普通の仕事をしていた。大工だったのだ。その頃の、最もポピュラーな肉体労働だ。

『両親の家のキリスト(大工の仕事場) 』ミレイ

父ヨセフも母マリアも、手にケガをした幼いイエスを心配している。裕福ではなくとも、あたたかい家庭に見える。後ろにいるのは、祖母アンナ。一家総出で働いていたか。大変そうだが、それはそれでいいなと思う。

聖痕などの斬新な表現で、ミレイなりの宗教画なのだが(長くなるため、この作品の細かい話は今回書かない)。そんな風に想像しておくことにする。


彼は “なんら特別ではない” と同時に、やはり “特別” な人だった。と私は思う。懸命に働く心根のやさしい、あなたたち一人一人のように。

想像する。イエスが家具を作っていたとしたら、きっと、その家具は丁寧に作られていただろう。あなたが仕事でそうしているように。

「品質とは、誰も見ていない時にきちんとやることである」ヘンリー・フォード

テーブルとはただの記号である。その記号で認識される物を介して、おくられる人々の生活がある。

違法や不道徳なことでもない限り、子育てや家事なども含め、全ての仕事は良いもの。学生の勉学も仕事であるし、また、勉強とはテストのことではない。婚姻とは結婚式の日のことではないし、パートナーシップとは籍のことではない。宗教でいえば、日曜に教会ですることだけが、主への奉仕ではない。

十戒の中に、「私の他に神々を持ってはならない」とある。

つまり、仕事も神ではない。仕事を人生の真ん中におけば、仕事が神のようになってしまうだろう。それは、偶像礼拝の一種ともいえる。休息も大切。

ここで出すのがなんでこの曲なの?と思われるだろうか。私はMVも含め合うと思うんだ。お金は手段であって目的ではないから。

私は信徒ではないが、イエスは好きだ。失礼を承知で主観を書くが(誓って悪気はない)、コマーシャル要素もある4福音書とは違う、ユダの福音書の中の彼が好きなのだ。

気になった人は前回を読んでほしい。

「偶像から身を守りなさい」(ヨハネ 5:21)

偶像の意味が、今までとは違って聞こえてこないか。SNSだってそう、人づきあいだってそう。人が表出を選択したことは、全てではない。格言的な短いものにも、人の心の奥のように、いろいろな意味が含まれている。

余談
創世記39章に、職場のセクハラの事例が書かれている。上司の妻が誘惑してきたが、ヨセフは断った。彼女は逆恨みして、彼に言いがかりをつけた。ヨセフは不当に解雇された。
昔も、今と同じようなトラブルや悩みがあったんだな。


当時、神殿には、多くのお金が集まっていた。ニューヨーク証券取引所のように、と皮肉を言う学者もいるくらいだ。大祭司たちは、明らかに、金銭的な利益を得ていた。

イエスの考え方はこうだった。
神殿はみんなの祈りの家!


一部の指導者たちが、イエスのことを “処理” しようと決めた。

物理的な反乱を企てるような、政治的な集まりと誤解されただけでなく。中には、そんな一団ではないと解っていながらも、計画を実行に移した者もいたのだろう。

イエスが、皇帝や司祭は神や神々に認められていないと感じ、それを周囲に語ったこと。それは、へブライ人の統治者を新たに立てると宣言するのと同じくらい、ローマからすれば「扇動的」であった。

やり方には絶対に反対だが、流れは解る。

このように。イエスが磔にされたことと当時の政治体制は、切っても切り離せないことだったのだ。


イエスの死を求めたのは、当時の腐敗した指導者たちだった。大衆や、そうではない指導者たちは、イエスを愛していたり認めていたりした。

イエスの裁判は、あえて、夜に行われた。民衆などの抗議が起きにくい時間帯に。

サンヘドリン。ローマ帝国支配下のユダヤにおける最高裁判権をもった宗教的・政治的自治組織。メンバーは祭司や法学者などだった。エルサレムにあった。

サンヘドリンのメンバーだった者の中に、イエスの埋葬を願い出た人がいた。非常にリスキーなことだったが、そうした。彼は「彼の中の神」に従ったのだろう。


その頃、政府とは神権的なものだった。宗教により政治を正当化する文化において、イエスは、宗教的および政治的な理由で処刑された。

これが、最も真実に近い端的な解説である。


パンデミックの最中(手洗いの期間中)、アメリカの保守派のコメンテーターが、大統領をこう非難した。「彼はポンテオ・ピラトのようだ」。

※後に詳しく解説する。

紀元25年~35年頃に、ローマ帝国のユダヤ属州総督だった人物だ。

磔刑を命じることができる唯一の立場だった。イエスの処刑にGOサインを出したのも、彼だった。

『この人を見よ (Ecce Homo) 』アントニオ・チゼリ

Ecce homo エッケ・ホモーとは、ラテン語で、「見よ、この人だ」という意味。イバラの冠を被せられたイエスを群衆に見せているのが、ピラトだ。


『パッション』

十字架を背負いながら歩くイエスは、意識を失いかけていた。ムチ打ちなどを受けた後だったため。自分の血で足を滑らせた。

ローマの兵士は、これが「ユダヤ人の王」というのは、いい皮肉になると思った。イエスにローブをかけ、杖をもたせた。極めつけは王冠だろうと、それらしき形を作って、頭に突き刺した。突き刺したでいいはずだ。そこだけそっと被せたわけがなかろう。

福音書にあることが、一言一句、真実だとはいわないが、イバラの王冠の話は信ぴょう性が高いという。

この映画も、現実ほどは生々しく描かれていない。『パッション』を観たことがある人は、あれでも?もっとひどいの?と思うかもしれないが。

その頃のムチ打ちはすさまじかった。数本の革ひもの先には、金属などがつけられていた。肉をひきさいた。骨や内臓が露出するほどに。

磔はてのひらではなく、厳密には、手首になされた。足首にも杭が打たれたが、それでも、自重により胸はひっぱられる。呼吸が困難になり、やがて、痙攣を起こす。ローマ兵たちは、この様子を「死のダンス」と呼んだそうだ。

私の知らなかった話がSNSに載っていたため、追加リンク貼り。↓


『手を洗うピラト』ヘンドリック・テル・ブルッヘン

罪を洗い流しているのだ。

ピラトに近い人物でさえも、「絶え間ない未検証の罪に対する罰」という表現を残している。ピラトはおそらく、仕事の枠を超えて、ユダヤ人を毛嫌いや敵視していた。

ところが。

福音書には、ピラトがイエスを有罪と宣告することに消極的であったと、書かれている。どの福音書にも、ピラトはイエスに罪はないと判断していたと、ほのめかされている。

では、「エッケ ホモー」は何だったのだ。なにかがおかしい。矛盾を感じる。


反ユダヤ主義が拡がっていた。ローマ帝国により、エルサレムの神殿が破壊されたり(これがクライマックス的)。

ユダヤ人なら全員が野蛮な反逆者だと。そんな恐ろしい認識が、蔓延していっていた。

だんだんと理由が読めてくる。仕方なかったのかもしれない。

キリスト教がローマの法と秩序を脅かすものではないことを示すために、両義的なピラト像を展開したのだ。

ヨハネによる福音書にて。「ユダヤ人」を悪魔の子扱いする人たちが登場し、敵対的に表現されることにより、イエスのフォロワーとユダヤ人は区別されている。ユダヤとローマではなくだ。

〜戦争なんて愚かな凶暴。関係ない知らない国の話。それならなんであいつ憎んで黒い気持ち隠しきれない理由。説明だってできやしないんだ。僕らはなんて矛盾ばっかなんだ。〜

マタイの福音書にて。ユダヤ側の指導者たちを非難することによって、ピラトを免責するパターンが見られる。

見られているのをピラトは気づいていないようだ。
事後なのだからイエスは実体じゃないのかも。
この構図深い。

時代的に、ローマ帝国がキリスト教を採用する頃には、ピラトはもはや肯定的に扱われるようになっていた。

神学者テルトゥリアヌス「彼の良心においてはピラトはキリスト者」。コプト教会「ピラトは聖人である」(公式宣言)。

イエスの処刑を命じた人なのに。

福音書の著者たちが、イエスはユダヤ当局ともめたのであって、ローマ総督は有罪にする気はなかったなどとしたこと。新約聖書の研究者らは、ハッキリと、福音書によるピラト(ローマ人)からユダヤ人への責任転嫁を指摘している。

これはたしかに嫌だろうな。どちらから見ても、腑に落ちないのではないか。メシアはどこ出身だとかよりも、争いの元になるのはわかる。


改めて。ユダの福音書の内容には、答えあわせができた感が、とてもある。

イエスは自分が死ぬことをわかっていて、それを受け入れていた。そうに違いないだろう。

イバラの冠など被らされなくとも、どこかの時点では、彼はわかっていたに違いない。これはイバラの道だと。もう引き返せない道だと。その時、きっと、腹をくくったんだ。

十字架の道行き

裏切られてーー。物語をひねり出したというのなら、まだわかる。本当にそう見えていたのなら、ユダ以外の側近は、彼の何を見ていたんだ。何も見てないじゃないか。(主観)

トンデモ話を足したりして、スーパー・ナチュラルなヒーロー列伝に仕立てあげなくとも。彼は、ありのままでじゅうぶんに、ヒロイックだった。


不条理な世界に諦めてはいけない。

水をブドウ酒に変えたりなどではない。世界の大きなことを解決することではない。私たち一人一人の日常の話だ。それになら手が届く。もっとギリギリまで、ケンカ以外の手段を考えなさい。

『進撃の巨人』

「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)