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みんなの未来 - 向かうべき新しい社会 -大追改記

微積の夢から覚めたのち

■はじめに --- ご寄付のお願い ---

今回記事も、あおいのきせきの知見(存在の方程式)という否定の出来ない真理から、現在私たち人類が信じている宇宙像が、微分・積分というニュートン(やライプニッツ)の、極限で無限は無と等しいという「間違った夢」を基にして組み立てた末にたどり着いた矛盾に突き当たっている事についての論考を積み上げてきました続きになります。

この、ニュートン、アインシュタイン、そうしてボーアたちの発見を凌ぐ画期的な知見に尽きましては、是非、下 過去記事マガジン

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今回記事は、間違った宇宙像と今の社会システム(経済)が不可分に成立している、という論考へと進んでいきます。

何処に間違いがあるのか、では、どのような社会がもっとも人が生きるにふさわしいか、についての考察を致します。

今回も当たり前の当たり前でないことに気づき認知的不協和におちいることまず間違いはありませんが、是非、マトリックスを思い出して、エージェント・スミスと化さないようにお気を付けてください。弊社の知見を否定することは、ご自身の首を絞めることであると、(ご自身の寄って立つ無根拠な思考の前提の在る事にお気づきになれば)ご理解頂けることと存じます。


■粘菌(ネットワーク)型社会 へ

■一極集中と規格化したピラミッド型社会

まず、是非、上の過去記事をご参照ください。現代社会の問題点のありかが詳しく分かります。

生産性を極めれば一極集中(からのピラミッド構造)が効率的であり、故に、地方格差が生まれるのは必然である事が書かれております。

生産と分配の効率を極めれば、多極化とは反対の方向に行くのが必然ですが、世界で求められているのは、多極化の方向です。

この矛盾こそ解決を求められていて、これが解決しないことがほとんど全ての社会問題の根本原因であります。

この実体経済を巡る問題に、金融取引(経済)という、言うなれば仮想経済が絡みついて、問題の解決をひときわ困難なものにしています。

■人の未来を奪っている未来予測とは数という神

数学という名の神が現在地球を支配している絶対神です。その神は時間を計算に組み込むという不可能を可能たらしめ、未来を借金経済(信用創造)で支配しています。

貸し出されたお金はお金を増やすために同じ物を沢山作って売ることの効率化に邁進します。

人は、その為の手段として存在せざるを得ないのが今の世の中です。金融と人の主従が逆転しているのが現代社会です。人が生きて価値(通貨・貨幣)を作り出す為にはまず「貨幣・通貨」が必要である事がその証拠です。

人は「数字」という実体のない幽霊の使う「算術」によって導かれる予測可能性に従うことを強いられ、そこから外れる事は金融という絶対の法によって否定されます。(貨幣経済に則った金融と無関係に生きることはできません)

 神との契約(国家として、自治体として、個人として定められた返済計画)から外れることが、神の許しを得られないが如くです。

神は、数値化できない(商品として成り立たない、成り立つ見込みのない)規格外(外れ値)だと、計算によった未来予測ができず、生産性(という方程式)に直結する大量生産と画一的分配を図示できないからです。

つまり、数式によった神の支配する現代社会は、利益というラベルを貼られた唯の数字を最大化するのに関与しない者は排除されるよう働くのです。

■先ず神殺しから

この「神」の支配する宇宙は勿論「計算」によった世界です。神とは数学ですから宇宙は数学として指示・表現できなくてはなりません。間違っても、計算が合わない理由を神のせいにしてはなりません。そんなことをすると科学者(または金融機関或いは税務署)という名の神官たちに捕らえられてしまいます。

もちろん経済学も、いや、経済学こそこの神のメインフィールドです。

数学という神はもちろん数学しか理解しませんから、人間が人のごとく思いつく、という想像力を豊かに生きることを許しません。

神の考える人の理想形は計算から絶対に逸脱しない機械(ロボット)です。

(偽の)神は無から有を生む代わりに微積分という計算式と、数値化できないものをごまかす関数式と演算子を人間に与え、存在全ては計算である(計算で表現できない存在はあり得ない)と宣ったのでした。

しかし、こんなインチキな神こそ死んでもらわないといけません。

誰だ?神は死んだなんてウソついたのは?

■人のいない経済(または規格化された人間しかいない経済)

■金融経済に従わされる実体経済

私たちが目指すべき「未来予測」を数値化し、計算によって可能たらしめているのが、時間と価値を掛け合わせることができるという「幻想」の共有という名の支配であることは、既にご理解賜ったことと思います。

未だの方はまず是非とも下過去記事をどうぞ。

分かりやすく申しますと、

価値を、返済義務を負わせた数式に従い数値化したものと、金利を掛け合わせて弾き出した数字が、私たち全員全ての未来を拘束しています。

金融による実体経済支配は、いくつもの誤謬(インチキ)で成り立っている、と相成ります。

■向かうべき未来は金利(計算)に縛られてはならない

経済を、金銭に変換した価値(お金・金額)「だけ」を指標にしなければならないという必然は本来無いはずです。

明確に「ありません」

そもそも「人がよりよく生きること」であったり「人が幸せに生活する」ことを目的とした経世済民や、財を公平に分配するエコノミーという考え方(ものの見方)を「金額(数字)で縛る(計る・囲う)」のは手段であり目的では無く、つまり、ただの便宜の筈であります。

これは一種のアナログ/デジタル変換と言い得うるのですが、それら「人の心」や「精神」が係わることを「実数」として「数値化」することは元来不可能である事を論証いたしました。

さらに星(など物質)の運動(移動)を時間そのものと理解することで、未来までの「距離」を整数で計算することを可能にするというトリックが「金利」計算を可能たらしめているけれども、時間とは虚数でしか表せないというのが、上の本来を別の角度から説明したものです。

即ち「時間」とは「意識」(心・精神)の事である、という実際を真理から論考を重ねて導いたのが(も)今までの過去記事であります。

■ピタゴラスの呪いとは経済を数字でしか考えないこと

繰り返しますが「人(の心)」が係わることで、計算によっての未来予測はできません。

とは線形代数を複素数で表した場合の

y(未来) = ax + b

にて

b = i

の「i」に指示された対象ですから、未来はどうやっても整数(どころか実数ですら)表現は不可能です。

ですので、bはノイズ(外れ値)として計算から省きます。
又は、
「大規模言語モデル」の訓練(或いは機械(深層)学習)の如くは、誤差を微分し続けるというテクニックを使って未学習(外挿)を無限に内挿化するというトリックで「i」でしかあり得ないモノを実数として表現する(パターンマッチングを繰り返す)ことをもって「時間」を無限であることにして解釈を続けます。
(構造的に微分を複雑化しただけで、ポッキーを折り続けてもポッキーが無にならない問題の解決にはまったく関与していないことは明らかです。要するにいくら誤魔化しても「零の無限近似値」は「無」でも「虚」でもありません)

つまり、いつまで経っても、未来予測は不可能です。

或いは

上の如くは過去記事の通り、人(の心)・時間とは実数表現可能な空間に非ずですから「虚数」としてしか空間表現できませんので、計算では社会の未来を有理数(または整数)として的確に言い当てることはできません。

唯一の方法はニュートンが嘆いたように「人を計算から省く」しかないという結論になります。

実際に経済学のしている事は、人間を短絡的に定義する事、要するに規格化する事で経済理論を組み立てる事ですが、人は規格化不可能です。

経済の関与する社会において、人が関係しない未来なんてあり得ませんから、計算で未来を決定する事ははじめから自己矛盾を抱えていることになります。人は規格化されたロボットではありません。

■数学が計算で(予)言したくて出来ない事とは

数が無限に零に近づけば零である、とは、無と有が接地するから、無から有が生まれるを「翻訳」した同じ意味です。言葉としては。(無から有を生むとは価値の創造と同じ意味に翻訳できます)

しかし、(  0(i) = 1(∞) )という等式をいくらこっそり採用しても、計算では実際に、無から有は生み出せません。 (価値は生み出せません)

つまり計算の結果、「アイデアが閃く」ことはありません。物が生まれ出ずる訳でもありません。

この絶対は超越できません。これこそ当たり前ですよね。

過去記事の通り、人は脳(心・精神)の働きによって「虚(無)」から「降って来た」かのように「思いつく = 有を生む」のであって、脳内で「微分計算」をした結果何かを「思いつく」訳ではないのは明らかです。

人の数だけ「思いつき = 自由意志」がある人の世を、人の自由意志を無視することでしか、数学(計算)は未来予測を、できません。

金融の根本問題がここに在ります。

金利を「計算」するのであれば価値の創造(大自然 = 無償)を基に計算しないと可笑しい。(価値はどこから来るのか?)

大自然からの恵みを得るには労働が必要である、という考えこそ、(マルクス)経済学のトリックです。大自然はその恵みと労働を対価として交換することを求めてはいません。

お金は価値のデジタル表現にすぎません。それ自体は無価値です。
金融経済という不透明なものが不透明である理由は、そもそも価値を伴わない価値を数字で表現したものが、金融取引の実体である事にあります。

おや。この話はどこかで致しました。

そう。

過去記事に記しました記号接地問題(シンボルクラウディング問題)は「実体と接地しない数字」という点において「金融取引で使われる金額」と同じ問題を抱えていると言い得うるのです。(有と無が接地していない)

そうして、よくよく考えてみますとそれは「数学」そのもの含有している根本問題である、と気づくのです。

「数字」はそれ自体で存在し得ず、何かの喩えとしてでしかあり得ないのが数学(数字)であり、現在私たちの抱えている問題の多くは、この(数学)数字を実体として物質と同様に、つまり空間存在として扱う事にある、と気づきます。

これもまた「時間・人の心・精神」という非空間存在(非物質)を空間表現せしめたニュートンの魔術と同等のインチキに人類が幻惑している問題、と理解出来るのです。(言葉もそうであるという意味で「全ては比喩」なのです。)

インチキは極まって「価値が価値を生む」という実際には人にしかできないことを、

「(価値と接地していない)元本というお金(数字)がお金(数字)」を生む

と言い換えたのですが明らかにこれは詐欺です。

そういえば原田武夫氏がお金の機能である

価値の「尺度」「交換手段」「保存手段」のうち「尺度」と「保存」が無くなると幾度となく仰っていたのを思い出しました。

つまりそれ自体では比較に於いてにしか意味の無い数字をもって「価値の尺度」として扱うのは可笑しい。CMではありませんが価値とは「プライスレス」が本当なのです = 虚数。

価値の保存という「概念」は、例えば麦とか米を保存することの比喩として思いついたのでしょうが、米や麦は食べ物という確かな価値ですが、お金(数字)はnullです。(このお話は大凡40年前の安部公房氏と養老孟司さんの対談でも議題になっていましたね)

つまり価値と接地していないお金は地上から消え去る!?

或いは、今後世界からここで指摘されたことが現実になることは決まっているのでしょうか(「バーゼル・ミッション」の一環として)

(ところで昔弊社小生はお金の機能に「支配」を加えた方が良いと考えたことがありました。お金は例えば労働の交換手段として介在しますが、給与というカタチでお金を渡す側は、お金によって「いうことをきかせる」ことができるからです。きかないとお金はもらえません。言うことを聞かせるとは言い換えれば支配です。)

■無から有を生み出すことのトリック

経済とは、広義において人の集団生活そのもののための仕組み(作り)それそのものを指します。狭義においては、価値の創造と交換をいかように行うかが経済の主眼です。

①いつのまにか実物の比喩である事に意味があった数字が一人歩きして、実物(価値)と接地していない数字も価値(預金など)とされてしまいました。(通貨には(あらゆる価値の交換に仲買として絶対に必要である事から)交換される全ての価値がある)

察するに、貨幣という実体は、紙に書いた数字と同じ価値(意味)しかありませんが、何らかの物質である分それ自体がまるで価値であるかの錯覚をもたらしました。

「(価値の)交換可能性」という価値の誕生です。現在の経済に於いては、この価値なしには、どのような価値も交換できません。そしてこの価値は通貨の発行主体に独占されています。

②微積分というトリックと、虚数としてしか存在し得ない非存在(時間・心)が関数や演算子を使うというインチキで、空間には存在し得ない数字が、価値(物事)を生み出すかのごとく装う。

この二点のインチキは、コンピュータはバーチャルしか生み出せない事とフラクタルです。というか、問題の根本を別のカタチで具現化された同一現象です。即ち金融経済は仮想経済である。

絵に描いた餅が食べられるかのごとく装いますが、数字は絵に描いた餅ですし、数字を算術で変化させても、絵が本物の餅になることはありません。(いったいどこから電子計算機が意識を持つ(作り出す)などという幻想が生まれたのか今回記事で明らかになりました)

虚無から有は大自然と人(身体+心)しか生み出せません。

すなわち実体と非実体(という意識 = 無ではなく虚(無))を繋ぐ機能は心を持った生き物にしかあり得ず、さらにそれをテクネーとして実現可能なのは人間及び人だけなのです。(このあたりの論考は過去記事を是非)

■言語獲得の秘密とAI

■二項対立の世界では、互いが互いを補える

価値の問題は、無から有を生み出すことの問題とイコールなので、もう少し説明します。(価値の大元は誰によって生み出されているのか。生み出された価値はどのようにして世界(宇宙)を巡っているのか?これこそが、経済で問われている問いです)

そうして、価値の創造とは、物質と意識(非物質)が人(認識主体)を結節点にして繋がっている宇宙の運動のことです。

(虚)無と有、意識と身体、時間と空間、

の間を

「何か(イメージや言葉など)」が移動すること、そのことを価値(の誕生)というのです。

そのためには、必ず両者が接地していなければなりません。
これが記号接地問題の本質です。

つまり、

記号接地問題とは、

(物質)

(実際には虚である時間・意識・心)

人(心を宿した物質(肉体))に於いて繋がっている

か、どうかの問題です。

微積分の採用する「無限に小さければ無」という無根拠の通り演算を突き詰めると所謂「ブラック・ホール」というモノにたどり着きます。

ブラックホールの意味するところは要するに「有」と「無」の結節点ですが、この働きは「脳」と同じと言うことは過去記事で何度も検証いたしました。

記号接地問題とは意識を電子計算機が持か否かの問いです。電子計算機は微積分というトリックで有無を接続した「ふり」しかしていませんから、(しかも数学自体は無の世界の「オハナシ」)そもそも所謂意識をもつとか、クオリアの問題をクリアするはずがないのです。

繰り返しますが、生物だけが、意識を心をとおして物質と繋いだ世界を生きています。

■記号接地機能は先天的なもの

私たちの言語機能とは意味の獲得が先であり、それを入れ物としての言語に喩えることに「気づいた瞬間」まるで「天地創造」のごとくにほぼ一度に「この世界」が完成します。

記号接地問題に寄せて申し上げますと、まず自他という意味が心と身体で「あおいのきせきの知見」の通りに記号接地することから、「はじまる」のです。

あとから、記号(シニフィアン・喩え)が(シニフィエ・内実・意味)を獲得するのではありません。

このことも「あおいのきせき」から理解が及ぶことです。(是非お買い求めください。歴史です)

■人はどのようにして言葉を覚えるのか? 非言語機能 = 比喩(メタファー)

言語獲得能力が生得でなければ(人の如く)言語を獲得できないので、当然プレ言語というものを持ったまま生まれてきているはずです。

普遍文法とは別の非普遍文法が存在するのは、「あおいのきせきの知見(存在の方程式)」から簡単に理解ができます。

非普遍文法は、では、どのような働きをしているのでしょうか。
比喩です。

比喩と言語は互いに教えあいっこをしているのです。(比喩的に申せば、です)

音が存在の比喩として使えることに気がついて、言葉を覚えます。
目の前にいて、やさしく乳を飲ませてくれる女性を、「まま(というシニフィアン)」で喩えられる(呼ぶ)ことが出来ると、分かります。 

そして、これが「記号接地」の意味です。
音が記号と化した瞬間です。
記号は本来対象物があってこその存在でした。元来、シニフィアン(音)とシニフィエは切り離せませんでした。

■写生画を知る。記号の一人歩き。文明の発達。

人は、音で何かを例えること(話し言葉)を覚えましたが、絵を描いたとき、絵でも意味を例えられることを知りました。文字の発生です。

実際の馬(シニフィエ)を馬の絵(シニフィアン)で例える事に気づけば、まもなく文字の登場です。

(ところで、聴覚ではなく、視覚情報を記号として言語を覚えた古代人はいたでしょうか?)

養老孟司先生のお話の通り、人の大脳皮質の連合野の発達は、このように、聴覚と視覚で存在を例えられること(言葉の獲得)を覚え、それらを組み合わせること(ロジックとアナロジー)で、現実の世界に手を加え、文化文明が発達したということです。

そうして聴覚情報(音)と視覚情報(絵・文字)をつなぐのが記号であり、その記号(に喩えられたもの)が存在(喩えた対象)と切り離され敷衍されたものが象徴であると考えられるのです。

神とか貨幣はこのようにして生まれたと、中沢新一先生のご研究を踏まえて、考えられます。

存在の方程式は、さらにその先に待ち構える問題、ではどうやって「まま」が実在の「まま」であると「気づいた」のかにも切り込みました。詳細は是非、過去記事を参照してください。

宇宙は物質と非物質とその境界である自己とさらに「それらに非ず」から成り立つことが「存在の方程式」からわかります。

脳のことを考えるばあい、脳内の仕組みだけで機能を説明しようとすると比喩的に「自己言及のパラドクス」とおなじ壁にぶつかります。非脳の働き(脳の外部)からの影響を考えるべきなのです。

■言葉は論理と比喩で働く

非普遍文法(比喩)による文法教育をうけた私たちは「文法」いわゆる言語を覚えていきます。文法機能(?)では説明不可能なアナロジー「比喩」表見が可能なのは、もちろん比喩という機能が生来であり言語と相互補完的に働いているからに他なりません。

私たちの会話などで普段使う文法に非ずの文法を比喩と理解すると、人類知の扉が開かれると思います。

すなわちロジックで説明できない所は比喩でしか言い表せないという真理を何処まで無矛盾で検証可能かの研究が待たれます。

まず、意味を音で喩えることを非普遍文法に則り理解(日本語の場合他者表現がそもそも難しい言語、と理解できそうですね=)するのが、言語獲得と定義して考察を続けるとAIの不完全であるところが分かります。

文法は比喩と対義的相補関係にありそうです。

■微積分の不可能(あわい)は比喩で埋めるしかない

自分で自分は持ち上げられません。つまり、自己言及はパラドックスに至ります。他者性のないところでは機能に限界がきます(或いははじめから矛盾する事が決定されている)

すると、アキレスとカメの話の通り、微積演算という「瞬間」に、有と虚無(1と0)の間を埋めることは、文法機能の一部である数学では不可能です。

比喩表現は普遍文法に非ずですから、もちろん現状のAIではそもそも比喩の理解は無理と言うことに相成ります。

■電子計算機は意識を持てません

パターンマッチングを繰り返して「学ん」で「言語空間」を形成していくということをいくら続けてもそれはただの偶然性の確率を上げた無限の愚行にしかなり得ません。

少なくとも感覚と言語は不可分であり、不可分であるからこそ言語の獲得が可能になったのです。

ルールに則った演算式を無限に繰り返してどうして「人工知能」が生まれ得ましょうか?

比喩表現と理論構築能力の融合が言語機能と理解すべきでしょうし、その言語機能の働く場(とでも言い得うる非場所 = 時間Fields)を、心というのではないでしょうか。精神とは言語を宿した心と理解できえます。

大前提として、意識は電気計算の仕組みとは全然関係ありません。電気計算機の機能表現を言語に似せていたとしても、それで脳が再現できないのは、紙を破っても雷が起きないがことくであり、むしろ逆に、今のAIを突き詰めて意識が立ち現れるとしたら、紙を破ったら、雷が起きるということわりが通る、と言うことになります。

■計算だけの世界は内実の無い記号同士の接続した無意味の世界

存在の方程式によって、物質と非物質が有るとわかります。そして非物質を意識と指示します。そう言って矛盾はまず今のところ起きません。

私たちには心がありますが、これも非物質ですから、心と意識は無関係ではありません。

私たちは物質でできているのは間違いありません。心は脳に宿るというのも確かです。

物質(有)と非物質(虚(無))は、人(生物)の心を結節点にして繋がっています。
記号接地問題とは、この機能を欠いているということを意味します。

(微分方程式(とは上の機能の比喩)を組み合わせて突き詰めたら「時空間」に(∞=0(i))というブラックホールが予(発)見されるのは必然であるとは過去記事に詳しく記しました。)

上の文脈において数字は非物質(非空間)の界(宇宙)に属しています。
これを空間(実体)存在と扱うという誤謬が、私たちの社会の病の根源です。
(もし、非空間存在(心の存在)を空間存在と見なすのを「精神病」と呼ぶのであれば、金融経済にしたがっている人はみな「精神病」とよんで無矛盾です。

記号接地とは、私たちが物質であり、心でもある事で、有と無(虚)を"接地"させる事の出来る生き物であるという話です。

金融経済が心を理解しない(無情な)のは当然です。

■経済は人の世界の学問なのに金融(算数)である故経済ではない語義矛盾

金融経済(お金を貸す・金利を付けて返済する)という仕組みを基幹として物事の全てを従わせるという経済の考え方はその始まりから破綻しているのです。

なんでもかんでも数にして計算してその結果に従うというのは、ピタゴラス教団と同じ無根拠な信仰の信徒に違いありません。

その意味で私たちの神は「数学」であると指摘するのはまるで王様を裸だと指摘するようなものなのでしょう。

「数学」の家来から石もて追われることでも、それが分かります。
数学の主は「銀行」主体の金融機関です。

王様の武器は、貴方の未来まで数字で言い当ててしまう数学なのです。

■未来予測が権威、現在ではお金が権威

「未来予測」が権威であり、それらに権力が結びつくというお話も致しました。

人が社会を構築して共生するにあたっての必然ですから、是非お読み頂くようお願いします。

要するに、集団として「明日(来年)どうする」を大枠決めることで計画が立ち、それに向かった努力が社会全体として役割を与え(貰え)る事に意義が生じ結果「幸せ」という「意味」に直結するのです。

と、これがマクロ経済の考え方ですが、この考えを効率よく実現させるとピラミッド型社会ができあがります。

ピラミッドの頂点が権威であるというお話は致しました。

それらは大昔、預言者の「おもいつき」である「詔」によって決定されていたのが、ニュートン(ライプニッツ)による微積分という詔の登場により、未来予測が計算や民主主義や経済学、など所謂科学にとって代わられたというのが歴史の大枠でした。

現在は経済(学)が金融政策という名の「未来予測」に基づいた計画に則りわたしたちの生活を遠くから囲っています。

私たちの抱える社会問題は、金利という誤謬に基づいた借金からお金が生まれる(信用創造)からはじまる現在の(貨幣経済)という仕組み(経済)を根本から見直して人のための経済を取り戻さなければ解決しようがありません。

■人の為の経済(または自由意志と計画の両立した経済)

■時間を取り戻す

実際の宇宙は、「すべての人達によって時間(心)と空間(物)が結びついた多様体」であります。

「宇宙は多次元な一つの時空間である」という人の存在を省いた今の宇宙像は人を省いた金融経済と不可分であり、それこそがニュートン由来の金融支配の正体であります。

逆に言えば金融経済支配からの脱却は間違った宇宙像の見直しと不可分であります。

即ち微積分と幾何学の夢から覚める、ということです。

まず、時間を時間泥棒から取り戻すのです。

■時間泥棒はみんなの時間を一つと言い張る

絶対時間を人と無関係な客観として提示し従わせることが時間を盗むことで盗人たちのしていることです。そうしないと「計算」できませんから。

都合良く、わたし達の住まう地球と星空の動きが客観という名の共有された主観として万人に認知され得たので、この「動きの間隔」を絶対「時間」ということにしました。

これで借金返済に対する日割り計算ができるようになりました。
おや。時間はどこにあるでしょうか?
もう貴方の中にはありません。
watchしないと分からない「空間」に持ち出されてしまいました。
するともう貴方の「都合」は借金とは無関係です。

雨が降って畑が流されようと、大事な家族が急病になっても、突然思いついて旅に出たくなっても、それらとは無関係に計算通りに決められたカレンダーの日には決められた金額の返済をしなくては「生活が立ち行かなく」なってしまうことになりました。

もちろん、これは今の世界の当たり前ですが、人の当たり前は本来「生老病死」しかないという論考は済んでおります。

今の経済は人を不幸にしています。

そこまで言わなくても人の(空間と時間の)自由を奪っています。これが時間という心の自由を奪われた事の実際です。

■実体経済では、時間の切り売り

まず大前提として人はだれしも時間(心)と空間(身体)の自由を得る資格(権利)があります。これは法律でも保証されていますが、実際は有名無実です。その保証された自由には「お金を空間と時間の自由の為に十分に使う事が出来れば(その為のお金は保有に限らないというインチキはまた別の話です)」という前提条件が隠されています。

そうしてこの前提条件(ただし書)の意味することは「金がない人は金のための奴隷である」
ということです。

何度でも繰り返しますが、
人を縛るのは「生老病死」だけです。
「衣食住」というアナログの話が「お金」というデジタルに(いつの間にか)変換され、それが「当たり前」の世界となっています。

なんとなればここがポイントでこれは誰しもが同意できることでしょうけれど「食べ物と住むところ着るモノ」があれば生きていけるのです。不足分は価値と交換するのが本来で、お金は「価値の代替」でしか無いことに立ち戻るしか方法はありません。

ほとんどの場合「他者に言われたことを行う」という労働に
「時間を切り売り」するという「価値」を、何らの価値と接地していない
「貨幣」と交換することで「貨幣」という「無価値」を介在させることで経済が回っています。

これは言い換えますと、本来切り売りの出来ない「時間」を切りうる為に不可能な「虚数の自然数化」を行うことの不幸と言えます。

これが元来がノイズである人間を規格化することにより個としても社会としても病んでしまうことの根本理由であります。

健全な社会とは規格と相容れない個(性)を容認する「遊び」の部分がなければいずれ崩壊するしかないのです。(このような社会の行く末が革命か被侵略かである、という流れは歴史から容易に見て取れます)

或いは、外部(他者性の排除・或いは恒常性の為に外挿を取り込む装置の社会的不備)を持たない硬直した社会はエントロピーの増大を招きます。(社会の散逸性構造)

そう、今の世界です。

人智を超えた、(外挿知である)あおいのきせきの知見からの社会実装こそ、問題解決の鍵だということはかねてから申し上げておりましたが、この文脈からもそれが理解出来ます。

■雇用する法人(個人)が生み出す価値とは

労働という価値は、労働することでどんな価値を生み出しているのでしょう?

利益という価値を求めて有形無形のモノを生産しているわけですが、ここで話はようやく過去記事(実体経済)に戻ります。(利益とは?)

何らの価値と無関係な貨幣単位である数字の増大だけを目的にしてあらゆる要素・単位を最適化していく過程で、人の人らしさを失う社会に陥ったのが今現在の問題の核心であります。

あらゆる時点で人は「人の心を持ってはならい」と訴求されてしまうのは何故かお分かり頂けましたでしょうか。

微積分だけにではなく実体の無い貨幣にも「心(という時間)」を奪われたのがそもそもです。

働きながら自由意志を持ちつつ価値を創造する社会のために出来る事をどの様に仕組み化(経済)していくかを考る時がやってきているのです。

大量生産による効率的分配が利益の最大化する道でありました。生産効率を上げて単価を下げたところで問題は何も解決致しません。

そもそも価値(利益)の定義が意味を欠いた唯の「数字」で在ることを理解しなければ、CSRを唱えたところで解決に至りません。

価値と利益が人の幸せや生きる意味に直結する(等式で結べる)ことでしか、経済の問題は解決しないのです。

つまりおなじみの「i」を「アイ」のまま、流通させることができなければ、人が経済によって救われることはありません。椅子取りゲームでしか経済的成功が得られないとすれば、要するに、奪うことでしか、争って勝つことでしか貨幣が手に入らない世にあって、成功者であっても心の安寧は得られません。奪った罪と奪われる恐怖から逃れられるのは狂人だけです。

今の経済システムは富める者も貧しい者も幸せに出来ません。

■無から有を生み出せない貨幣と数学は、奪う事しか考えられない(ニセの神であるから)

■贈与であるのが自然である経済が返却を義務づけられた貸与からはじまる誤謬

ここからは巨人の肩に乗るべきなので先ず中沢新一先生の御本を是非お買い求めの上お読みいただきたく思います。

サンプルだけでも肝心な部分を読むことができますが、現在の貨幣経済の過ちと、向かうべき経済の方向がダイレクトに記されております。

要するに、実体の無い「貨幣」も、貨幣経済の前提となる信用創造によった金利経済というモノも、全て「幻影(数字)」を価値その物かの如くに思い込ませることで偽りの経済を機能させております。

人はしかし霞を食べては生きていけませんので、どこかで「本物の価値」を手に入れる必要があります。

そもそも、

貨幣経済は交換を簡易化させたという「嘘出鱈目」に立脚しています。
貨幣の始まり(価値の生まれ方が)全て貸与であり贈与ではありません。

ここが、貨幣経済のトリックの肝です。

貨幣を使わざるを得ないということは、わたしたちが常に(中央)銀行に借りを持って生活していることを意味しています。要するに「殺生権」を通貨の発行主体に委ねて生活しているのと同義ですが、これの「陰謀論」ではないのは、実際にお金がないと、(自給自足も、お金がないと不可能)生きていけないことでわかります。

この不条理を「当たり前」の一言で押し通す力が権力でなくて、一体何が権力でしょう?

このシステムの問題点は、殺生権、もうすこし柔らかく申しますと、価値判断が常に「自己にない」という所です。

要するに、今の世界では、生きるにおいて「価値」を他者に(遡ると通貨の発行主体)に認めていただかないと生きていけません。(結果、金銭価値という名の偽の価値が生じる ← このようなものは不要です。混乱の元)

貨幣を得るという、生きるか死ぬかは、常に自己決定権がなく、お金をくれる相手(のよってたつ市場価値 = とは銀行の融資対象であり得るか否か)にその権利がある、という怖い仕組みになっています。

これを「当たり前」と思わせている所がものすごい権力であるとということが、過去記事と事実を以て接地したかと思います。

自身の価値、生きる意味は、自分がどのようにして衣食住を満たすか(生活していくか)と離れて存在し得ません。そのことの「満足」という心の働きこそが価値であり意味であります。

「時間(心)」を奪われた結果、どうやって生きるかの決定権が現在のシステムに剥奪されてしまったことが、あらゆる問題の根本にあります。これの解決なしに、何らの問題も解決しません。

つまり「仕事(という自分の時間)」に価値・意義・意味を見いだせない故に、人生の意味を問う羽目に陥っているのです。自分の求める生きることそのことが、じぶんの時間に直結していてなお「生きる意味とは?」という問いが生じることはそうはないでしょう。

金融経済では、恐ろしいことに「値段」が「価値」そのものであるという明らかな誤謬が(ほとんどの方々に違和感を与えたまましかし)そのまままかり通っております。

要するに、「金を払う(価値のあるのを認定する)のは「お金を払う側」に決まっているのです。

そうして唯一逆らえない暴力装置を有する他者(組織)、例えば「国家」と、その保護下にある金融機関だけが「金銭の授受」において「受け取る側」が「価値の交換」の決定権を持っているのです。

国家は中央銀行と不可分です。

ようやく「権威・権力」の話が回収できました。

「現在においての権威と権力とは、お金と中央銀行以下金融機関である」ということが、狡猾な「当たり前」によってその姿をステルス化されていたのです。

これが「交換可能性」という「力」を通貨・貨幣に独占させてしまったことの恐怖です。

価値判断と交換可能性が結合してしまった結果、お金の価値(判断)そのものがあなたの「生きるか死ぬか」を決定することになってしまいました。

「個人の意味・価値」と「人の生き死に」が同一であることは、明らかな間違いです。

大自然は、生き死にを「あなたの価値(商品価値)」によって決定しません。しかし、現在の経済はします。

ちょうど、出版されたばかりの中沢新一先生のご本でも、経済について触れられておりました。

今の経済では、現実の世界と接地しない記号や象徴ばかりが無軌道に増殖しつづけ、結果、自然の摂理と切り離されては幸せになれるはずもない私たちを苦しめていています。

一方、相互贈与では、ニュートンの考案した宇宙像によって省かれてしまった(感謝の)心がキチンと経済に組み込まれ、貸し借りのない公正な関係を皆が結ぶことで自然の法に則った経済が成り立つことが、記されております。

■精神の考古学

私たちの世界は中沢先生の御本にございますように、全て贈与されることからはじまっています。なにより、私たち自身が在るのも自然から心と体を贈られた故でしょう。

私たちの生きるに不可欠な物も、もとは御本の通り「自然からの贈り物」です。

或いは死によって肉体や精神を「返却」しなければならいという観点から贈与では無く貸与だと言い張ったとしても、貸してくれたのは地上に住まう誰か(例えば銀行家)ではなく「自然(宇宙)」です。

にもかかわらず現在の貨幣経済は無根拠な(本来は贈与ではじまるべき経済を)返却を義務づけられた全て貸与から始めています。

お金が価値の比喩(代わり)だというなら、大自然と同じく、発行主体が無償で全ての価値を生まなければおかしいのです。???

トリックに気づきました?

今の貨幣経済は先ず立脚点に誤謬があります。ここを糺すべきです。

でないと全てがうまく回らない(今の社会のような、必ず他者にババを引かせなくては幸せになれない)という結果になる他はありません。

しかも、貸し出されているのは何らの価値と接地していないただの「貨幣」です。

何故か、にも関わらず、貨幣には数値と等価の価値があります。

所で、価値は、どんな価値でも通貨と交換しなければ、誰とも交換可能な価値を持てないのが、貨幣経済、今の金融経済のトリックです。

まず生きる為にはなんとかして貨幣を買う事から始めないと生きられないのはおかしいですね。

独禁法に抵触しそうな話です。

価値と貨幣がかならず等価であるなら利子にも五分の理があるかもしれません。

貨幣は価値の代替(無価値でなくてはならない)であるのにも関わらず、それ自体に価値(値段がある)のは何故でしょう?

価値は経済に係わる(要するに社会に生きる)全ての人が創造可能であるにもかかわらず、実際に価値とイコールの筈のお金を創造することはできません。

人は労働によって価値を創造している(無から有を生み出している)にもかかわらず、その価値は(貨幣)と交換してもらわないと手に入りません。

わかりやすく言いましょう。

今の経済に於いての価値は創造したとしても交換しか出来ません。あなたの持つ価値が普遍性・交換可能になる為にはまず、その価値を貨幣と交換しなければならない。

しかも、

価値とは心の別名(心と不可分である)であるにも関わらず、心(価値)を他人が値踏みする。つまり、貨幣経済下に於いて、価値判断は他者任せ。これも、時間を泥棒されるという事です。

交換可能性を奪われては生きていけませんがそれが当たり前であるという経済の仕組みが明らかに間違いです。

微積分と同じトリックが経済にも適応されています。価値を創造するといういわば「神の行為」が銀行家に奪われています。

借りたお金は増やさないと利子をも返せませんが、その分の貨幣は絶対に自分では造れません。借りた貨幣を元手に作った価値を売ったとしても売買は価値の交換ですから、価値を創造したわけではない(価値は創造出来ない)という仕組みのインチキは中沢先生の御本からもお分かり頂けます。(弊文章を繰り返しお読みいただき是非理解してください。結構巧妙な詐欺です)

いくら働いても、交換することでしか価値は手に入れられません。

この仕組みではどこかに必ず借金漬けのまま(平然か平然じゃないかはともかく)存在する主体があるということで、このような経済は健全ではいられません。

それは例えば「国家」です。(国債ってなんでしょう)

日銀はお金を創造しますが価値は創造していません。無価値を貸し出し価値を作り出させることで成立しているのが銀行(家)です。(再び信用創造)

無から有を生み出せないのに生み出せるが如く偽装したことにより(時間の)計算を可能せしめ、結果、発生した金利(分の創造された筈の価値)は、交換することでしか価値を生み出せ(手に入れられ)ません。すると、生まれた価値は何処へ行ってしまうのでしょうか?

もちろん銀行家の所でストップするのです。

こう言い換えましょう。

金融経済、現在の貨幣経済とは、

凡ゆる取引に銀行(券)という仲買を雇用しなければならない仕組みの別名です。

時間泥棒の正体とそのトリックを多少は明示できたでしょうか。

■価格というトリック

ここまでお話しして参りますと、価格というもの自体が金融経済という権力による詐欺であるという事がご理解頂けるかと思います。

米や麦であれば、価格という価値の数値化が論理的に可能です。数えられますから。或いは重さを計れます。

貨幣経済の成立する大前提として、価値の数値化が可能でなくてはなりません。しかし、現代社会に於いてそれは不可能である、とということを申しております。

数えられる、計れるという自然数の価格(数値化された価値)以外の価格の論理的根拠は皆無です。

そんなの当たり前だから、それはさておき、でしょうか?「スミスさん」

前提が間違っていれば、結論も間違っているのは当たり前であり、結論とは目の前の社会問題すべて。

要は、お金を(稼が)ないと何も出来ない事であります。

これを解決するには大前提を取り替えること以外に術はありません。

その過てる大前提が

価値が数値化できている
というトリック
と、
時間が数値化できている、
というトリックなのです。

明確に数値化可能(数えられる・計れる)もの以外、価値の数値化は不可能であるにもかかわらず、それが行われていることが大問題なのです。

このトリックはなかなか(ロジックを以て)見破れませんよね。

即ち現実には出来ないことを信仰によって可能せしめている事こそ、数学(金融)という名の神(全知全能=価値の数値化と金利を出現させ)たる由縁です。

■労働と貨幣を価値を介在した等式で結ぶトリック

行為それ自体を対価として貨幣と交換可能であるというのは大自然と人の関係性を模して考えると全く相容れない事がすぐわかります。

畑作業は、農作物が対価です。
手工業も、作成物が対価です。

目的が対価として行為と直結していなければ、その行為に意味も目的も見出せないのはある意味当然です。  

そして、現代社会が人が幸せにできない大元です。要するに時間が自分の物では無い、ということの現実です。

大前提として価値はこころが決めます。価値はこころとセットです。自分にとっての価値は自分が決めるのです。が、時間という心を計算によって取られてしまうと、お金(権威・権力)為に他人の価値(利益)を生きる羽目になります。

現在の大量生産・大量消費を当たり前(大前提)にした社会に生活していると、大変愚なことを申していると解釈されることは理解できますが、もうそういうことはやめよう、というのがダウン・サイジング社会です。

食品ロスの問題を過去記事で記しましたが、ここを解決しなければ、いつまでも生きる意味と生産活動が繋がらず、意味のない経済(つまり無駄になる生産)はなくなりません。

交換可能性にしか価値がない通貨という価値が利益であり、人々の行為が、その通貨によって、目的の為の行為と分断されたが故に、無駄なものを生産する結果になっているのです。

価値という目的のために必要な行為、と利益が無関係であれば、利益のためにいくらでも不必要な行為(生産)を求めていく結果になるのは必然です。

これを解決するのは価値と時間(行為)を分断せずに繋ぐ他ありません。

そんなことをしたら、人手のかかる物はどのようにしてつくるのか?
ほとんどの大きな産業は、価値のための行為が労働に担保されているからこそ成り立っています。

労働自体を貨幣の対価として扱わないと人が集まらず、造れない物は造らなければいいのです。

何か大きな物を造る場合、それに賛成し、協力する人たちが、労働それ自体を対価とせず、みんなで造る他ありません。

これは自分で書いていて、なかなか受け入れられませんが、大自然の摂理から逸脱しない、人を規格化することなく、生きていきける社会を考えた場合、必然的にたどり着く結論です。

行為から意味を奪って人が幸せに生きていける社会は不可能です。

いずれ考察を深めたいと思いますが、手段と目的を分割して、通貨を介在させるというトリックが、社会の前提となる宇宙像、世界観と不可分であるとだけ、記しておきます。

これはどんな行為にも当てはまる絶対です。いい方を変えると「労働」という概念は消えないといけません。目的のための行為は自らの意志で行う、というのが絶対で、故に、粘菌型社会では一人一人がヘッド・クォーターとなる人材の育成システムが不可欠である、と申し上げたのです。

(心配をしなくても、大きなビルを必要な所に必要なだけつくる人材も技術もなくならないと予想します。それどころか予算(という概念もなくなります。建築を縛るのは予算では無く環境適応性にになると予想します)とは関係ない夢の建築が各地でつくられることと思います。楽しみですね)

利益が意味も目的も欠いた「数字の積み重ね」ではないようにするには、それしかありません。

書き手自身も「当たり前」にかなり毒されたエージェント・スミスの気があると分かりますが、これこそ戦争をなくすのに必要なことだと分かります。戦争も、それ自体なんらの価値と接続していない貨幣の数を最大化させるという目的が絶対であり、手段が無目的・即ち無価値であるからこそ起きるのです。

まちがいなく、貨幣経済はダウン・サイジングされますが、利益は数に比した交換可能性ではなく生きることの価値と直結したものと定義が変わりますので、生産性があがり利益もやりがいも増すという結果になることが予想され得ます。価値を求める行為に無駄がなくなりますから、イコール必要のないものが生産されることも無くなります。必要の無いモノを通貨を、獲得するためだけに生産販売することもなくなります。つまり、経済は本来の意味に於いて真の発展を遂げるのです。

お分かりになりませんか?誰(自分自身すら)も必要としないのは、誰も生産しないという事です。

貨幣経済では、現状、環境適合性が企業の生産性と相反するのはあたりまえでした。価値と行為の結線が正常化すると全てが丸く収まるのです。交換可能性という価値しかない通貨ではなく、価値(為になるという事)それ自体を"最大化"させる事を利益と定義を変える事です。

■行為が価値(目的)と接続していない悲劇

貨幣経済に於いての経済活動だと、行為と価値の間に必ず貨幣という、それ自体は無価値だけれどそれがないと何らの価値が得られない事による価値、が必ず介在していることが、およそ全ての問題の根源です。

即ち社会活動で、目的と行為が必ずしも、というか、現状に於いてまったく接続していないことが諸悪の根源です。

食べ物を手に入れたいと思ったら、まず、貨幣を手に入れなければならず、その為に貨幣を手に入れる行為は、現状時間の切り売りという労働によらなければなりませんが、その労働が何であるかの選り好みは先ず不可能です。

これを別の角度から述べてみます。

要するに目的価値の為の行為に頓着する必要はありません。というか、頓着する自由はまずありません。

何なら、犯罪に関与する可能性のある行為であっても、行為自体の目的がそもそも交換可能な価値以外の価値のない貨幣なのですから、そうなるのもある意味不思議ではありません。 

自分の必要な価値とは無関係の価値(貨幣)の為の行為に自由を奪われて健康でいられる方が難しいのではないでしょうか。

時間を切り売りするということが、自分の心を破壊する事に直結することがご理解いただけますでしょうか。この例からも時間とは心の事だと分かります。

交換可能性という価値しかない価値(貨幣)が量と比例していることが恐ろしい結果に繋がります。この保存可能な交換可能性という価値は数に比して万能性を増すのです。全ての価値が法定通貨という唯一を経由する為、その力は万能です。

反対に、生きることそれ自体の行為が結果(目的)と直結すると、人殺しをする人はまずいなくなります。要するに大量殺人を目的とした行為を行う人はまれでしょうし、現代の戦争は破壊と想像が万能な価値(つまり貨幣経済)に直結しているから発生します。

経済のための戦争がなくなってなお戦争をする目的は価値の強奪か、分配量を増やす事以外にありませんが、価値が法定通貨の独占から解放されればそれも回避できそうです。もう一つピラミッド型社会の維持という目的が考えられますが、これも粘菌型社会にすれば問題はなくなります。

収穫と切断された、目的と接続していない労働それ自体を価値と定義したのは、時間を売らせる(無価値であるはずの貨幣と交換させる)為に思いついた詐欺です。

価値のための行為(例えば製作工程)にも関わらず、価値(完成品)が他者に属する行為に、つまり、行為そのものに対価のない作業自体に価値がありようがありません。

まず、時間を売る事を禁止すべきです。

■価値の創造主は誰か

■通貨発行権は大自然(神)にしかありません

現代に於いてお金が絶対的権威・権力、即ち神だという意味はここにあります。

価値の大元は大自然です。全ての価値は大自然によって生まれます。
貨幣を価値と定義するのであれば、貨幣を生み出す事の可能なのが特定の主体に限るのはおかしい。

大自然にアクセスするのは誰でも何処でも可能です。しかし金融経済は銀行を通してしか大自然(価値 = 貨幣)にアクセスできません。
(教会を通してしか神にアクセス出来ないカトリックとおんなじ仕組みです)

大自然は贈与によって動いています。金融経済は貸与によって動いています。価値を貸すってなんですか?

■母なる大地(価値を生み出す大自然)

私たちが生きるのに必要な物事を価値というのであれば、それらを生み出せるのは大自然だけです。勿論私たちの身体も大自然から生まれた大自然の一部です。大自然を物質というのであれば、非物質すら大自然と呼んで不都合はありません。ビーバーのダムのごとく、人工である様々も元をたどれば自然の営みに源流を持ちます。なら私たちがダムを造っても価値でしょう。

さて、貨幣とは価値そのものだといいます。
貨幣は果たして、正確に価値をトレースしているでしょうか?
いません。
これが金融経済のトリックです。

因みにに大自然に無価値なモノは存在し得ません。創造は自然から可能だからだし、創造を可能たらしめるものは全て価値があります。

もし、誰かが価値を選別できたとしてそれ以外には価値がないと言ったらどう思われますか?

誰かの価値に同意するのは、当たり前でしょうか?

さて。

貨幣が価値であり、経済が価値の生産・循環のことを言うのであれば、経済は大自然の営みを正確に模倣する(喩える)必要があります。

不完全な喩えを上手く行うことが経済を正常化すると言うことに他なりません。


■物理現象を擬態する貨幣(金融)経済

経済とは人為でいかようにも組み立てることが可能です。逆らうことの出来ない物理現象とは違います。金融経済は、意図の有無は問わず、結果としてその「動態」があたかも「物理現象」かのごとく振る舞います。或いは「学問」的に、そう扱われています。

経済政策を、あたかも、最新の科学的知見を科学技術にフィード・バックして新しい「装置・機械」を組み立てるかのように、扱います。

しかし、これはある意味「茶番」です。

経済のルールは物理法則とは異なり人が決めたものだからです。
ロケットは例えば万有引力に逆らうことは許されませんが、経済政策は違います。

金利は物理法則ではありません。
金利を万有引力かのような絶対の法則として扱い、公定歩合をロケットの推進力かのように振る舞い、「上手く飛ぶかどうか」実験を続ける必要があるのが「経済」である、という命題を疑うことはないのです。

お金の発行のルールもそうです。そこに地球があるごとくの「当たり前」として借金スタートの経済を運営していますが、それは違います。

このルールを変更すると、或いは税金というものすら国家権力の運営に必要がなくなることは論理的にも明らかでしょう。(ロジックさえあれば、パラメータの変更だけで理解出来るかと予見致します。よね、苫米地英人先生!)

確かに経済は物理法則に則って運営すべきなのです。その意味するところは「大自然の法」に逆らわない仕組みでなければ、上手くいかないことに、間違いは無いからです。

すると、大自然は贈与からはじまっていることに簡単に気づきます。であれば、経済が、銀行(家)に返却を義務づけられた貸与で回すことを大自然が「許す」はずもなく、自然の一部でもある人々の生活に馴染む訳がないのです。

馴染まない結果が新聞やテレビを賑わす全ての出来事であると言って過言ではありません。

■本物の経世財民に銀行はいらない

■サトシ・ナカモトの夢とは

価値の発行主体は誰でも良いのです。
即ち誰でもお金が刷れるはずなのです。なんと言ってもお金とは価値の偽装形態の一つなのですから。

嘘の世界はもうさよならしないと、世界(地球)は持ちません。

弊社に是非寄付をお願い致します。

貴方の時間を取り戻すために、弊社の知見が必ずお役に立ちます故。

まもなくTIMEOVERです。
(是非ご記名してくださいね)

何度も記しますが、これは歴史です。

価値も非空間存在ですから本来虚数としか数値化できません。

贈与経済はどんぶり勘定になるのが自然になりそうです。

慈悲によった非利己的社会、PaxJaponicaは、ギブアンドテイク(のふりしたテイクオアテイク)ではなくギブだけで成り立つでしょう。

現代社会の問題・混乱は、先ず全て物と事の間に通貨が介在することで、行為が意味と価値の間で混線していることに起因しているといって間違いはありません。

究極、お金が実在しているという錯覚は、全て数学・幾何(学)が実在していないのにも関わらず、数字や図表として実在している事のトリックであり、お金のトリック(金融経済のトリック)とは、微積分が時間を盗んだ事で、金融経済が未来予測(金利計算など経済計画)を可能たらしめているという、数学自体のインチキの事なのです。貨幣経済とは計算・演算と同義であります。

計算(演算)は全てロジックで出来ていて、しかし、ロジックが不完全である事は既に人知です。もちろん、アナロジー(メタファー)を体系化しなければ叶うはずも無かったのです。それこそがレンマの知恵でしょう。

贈与経済は自他の価値観に基づく開かれた社会です。貨幣を介在させた交換をあてにしなくても価値の循環する経済です。貸与による交換は見返りを強要しますが、贈与は違います。貨幣経済のエネルギーは欲望ですが、贈与経済は相手を想う気持ちです。

夢物語だと思われますか?
いや、
"お金"こそ夢なんですよ。

■権力が生まれたのはいつどこ?

ヨハネの黙示録

新約聖書のヨハネの黙示録に金融権力についての記述があります。

[6] 天の戦い、地における獣の増大、地の刈り入れ(12章-14章)

(5) 獣が地から上ってくる。獣の刻印を付ける (13:11-18)

「また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」

(新共同訳聖書 ヨハネの黙示録13章16-18節)

有名な聖書の一節ですが、ここに現在の権力を指示した記述を見つけました。このような「神の書」へ、隠喩を使って書き込むことしかできなかったのですから、貨幣経済(金融経済)がどれほど強い権力であったかわかります。

実際のところ、この一節が書かれたのは、いつだったのでしょうか。

「刻印」を通貨(貨幣)と読み替えれば、この預言は未来ではなく、今だとわかります。あるいは書かれたときにはまだ実現していなかった故の警告だったのかもしれませんが、今では「獣の刻印」は全世界の金融経済下の人々みなに押されています。

売買はお金のあるものでなければできません。

そして「獣の数字」を値段(価格)と理解するとすんなり意味は通ります。

有名な666ですが、ここからは「都市伝説チック」な読み替えにトライしてみますが、「信じるか信じないかは、あなた次第です」

6は、アルファベットの六番目ですから「F」と読み替えることができます。

さて、主語は「中央銀行」です。中央銀行は日本を見つけ(Find)ました。
「日本銀行」が作られました(Found)。
「日本銀行」はお金を貸し出しました。(Founded)

日銀がFFF(666)ですね。(あっ!マークが目!(笑))

ちなみにこのような「読み(換え)」は文学(論)では常套(当たり前)です。

「また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者に中央銀行が貸与した通貨を使わせた。そこで、この通貨のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この通貨を基軸にした貨幣経済には貨幣価値、あるいは価格(値段)がついている。ここに知恵が必要である。賢い人は、貨幣価値(価格)にどのような意味があるかを考えるがよい。通貨は人間を指している。そして、人間の価値を決めるのは市場の名を借りた中央銀行である。


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