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定型に関する覚え書き
定型詩の定型に関してつらつらと呟いたツイートをまとめておく。
あとから読み返すかもしれないし、これらのツイートの存在を忘れて似たようなことをツイートするかもしれない。
ツイートは広く公開されるものであるから、自分のためのメモというわけではなく、他者に益することをいくらかは期待してツイートしているのだけれども、さてはて、どうであろう。
「詩としてデコードする/される」という概念の面白さか
あとがきのようなもの(「ウタノミタマ 第一宵」アフタートークのメモ)
※この文章は「ウタノミタマ 第一宵」のアフタートークのために用意したメモです。本編をご覧になったあと、お読みくだされば幸いです。
「定型幻視奇談」というタイトルについて「定型幻視奇談」というタイトルは塚本邦雄の『定型幻視論』に由来する。これは名前だけ拝借したもので、内容との関連性はない。
『うたう百物語』との組み合わせを考慮するなら、ここは「定型幻視怪談」としたいところだが、あまり語呂がよくな
人に造られたヒトについて
諸器官ごとに分解された人体を想像するとき、私は血潮滴る肉の断片よりも、機械部品のようなものを連想してしまう。解剖学の知見が乏しいのもあるけれど、人間の身体に血肉が備わっているという実感もまた、私には乏しい。
幼少期に特別なきっかけがあったようには思われない。田舎育ちなこともあり、幼少期は外で遊び回り、生傷の絶えない日々を送っていた。臆病で、痛みにも幾分か過敏なほうであったから、よく泣く子供で
箴言と讒言は似ている
愛は祈りで、小説も祈りであるなら、箴言はささやかなワガママ、欲求に対する批評である。
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箴言に深味や含意を読み取るのは、あくまで意識だ。一つの情報から、複数の意味を想定するのは、知能ではない。技術である。才能が必要であるとするならば、それはホラを吹く才能だろう。
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「いいか、ここでサイコロを振ったとしよう。実はこの世に存在するサイコロの出目は、どんなものであっても二種類しかない