Saki Saito/ Be forgiven 赦しを学ぶSakiというキャラクター
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外の世界の状況は、私の内なる平安には、全く、関与していない
Can I be cured? healed?: 私は治るでしょうか? 癒されるでしょうか?・Only LOVE can cure and heal anything. : 愛だけが全ての万能薬です。
「愛ってなんなんだろう」
そう問われ、杓子定規に、
「私たち人間にはわからない、人智を超えたものよ」と、答えてみた。
形而上学、形而上学視点を、言葉にしても、実践的な体験、経験がなければ、虚しい。所詮、形而上学に終わる、とは、こういうことだと、しっくりこない感覚とともに、感じた。
そして、ここ、最近の赦しの実践的な作用として、ただ、愛は、大いなる癒しのパワーだ、愛は、全ての心を包み込み、癒
赦せない自分に優しく、正直になる
『奇跡講座』(以後、コース)に書いてあることが、その内容の真髄が、わかるようになればなるほど、その内容を生きることの難しさ、その内容を生きることへの無意識のうちの抵抗、反発に気づく。
そして、まだ、氷山の一角すら、わかっていない(実践的な理解は伴っていない)のだ、、、と、気づく。
『奇跡講座』を独学で読んで、自己流の解釈をして、実はその内容はわかっていなかった時の方が、わかったつもりだった時の
個々人の肉体は自我or聖霊の指示に忠実に作動している操り人形「想念はその源を離れない」個人のものではない「真の目覚め」「真の悟り」を理解する
『奇跡講座』は、純粋一元論、純粋非二元論というジャンルの霊性の道、霊性の教えのうちのひとつ、つまり、「目覚め」や「悟り」を目的とした教えのひとつなのだが、そうではないものとして理解されて、そうではないものとして、実践されることがよくある。
ただ、それは、ある意味では、自我で作った(ように信じているこの夢の中の)この混沌の世界において、分離の象徴として起こるべくして起こっていることで、しようがない
「自分は間違っていない!こと」と「真に幸せであること」は、究極的に、どちらか一方しか選べない
心理学的に、私たちは、基本的に、無意識のうちに、デフォルトで、「自我」として生きることには、大いに意味がある、と思っています。
この世界は、目的を持った幻想であると、『奇跡講座』は言いますが、それ自体は、そういうものなのだということであり、個別性(個性)特別性、それは、なんの問題でもないのです。ただ、それを深刻に捉えている時、微笑みを浮かべて見れない時、問題意識が生まれ、内的な葛藤が生じます。
統合失調症の私たち〜私たちは全員が「心の病気」なのです〜『奇跡講座』のいうところの心とは、、、
心が病気ならば、心の癒し、真の根本的、根源的ヒーリングとしての原因レベルでのアプローチのゴール設定は、夢から目覚めていくこと、解脱の方向にしかない
心とは
心の病気とは
正気を取り戻すには
解脱の準備をする
1 心とは
私たちが、通常、心について語る時、私の心や、あなたの心、といったように、個々に分離した心が、それぞれに、何かを感じていることや、何かに反応して嬉しいとか、悲しいとか、知
「私はあなたの言動から何の影響も受けることはなかった」という愛の表現をしよう。
他者を真に愛したい人への
他者を苦しめたくない人への
『奇跡講座』的な
処方箋、、、
そう、私への処方箋。
「私の気分や感情は、私が決めている」という事実がある。
私がどの視点から見ているのか?が
私が何を知覚しているのか?の根源であり
唯一の真の原因だ。
「、、、?」ですよね。ここは、難しいところで、一言では言えませんが、
『奇跡講座』的には、
この幻想の世界において(『奇
『奇跡講座』の内容を理解していく際に起こると云われる「退化に見える進化」とは?その物足りない感覚を癒やす
私の赦しの実践の為の備忘録
『奇跡講座』の言うところの「赦し」の実践者ならば、この世界を「教室」として使います。
今、目の前のこの世界の現状を見て、今、目の前に見えているものに対して、大なり小なり、怒りや、不快感、憤りや、冷淡な思考、イラっとした感覚など、好ましくない、いわゆる、ネガティヴな感覚を覚えるならば、それは、赦しの実践の貴重な機会だ、赦しのレッスン、トレーニングの為の教材だ、と捉えま
『奇跡講座』リトリート@糸島・福岡
皆さん⭐️こんばんは!
今日は、『奇跡講座』リトリート開催のお知らせです。
今月、6/24(土)&25(日)に、2日間のリトリートを
福岡県糸島市にある
GLOCAL Hotel ITOSHIMA
https://glocal-hotel.com/
にて開催します。
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セミナー名
『奇跡講座』リトリート@糸島・福岡
講師