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私になるまで

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私になるまで27

私になるまで27

アラフォーになり、少し自分のしたいことをしようと、以前から絵が描きたいという思いを持っていたが、中々手がだせないでいた。思いきって、小学生の時お世話になった恩師に手紙を書いた。その恩師は、地域の絵のサークルに入っていた。だから、私の手紙を送った後にすぐ返事が来て、「絵描くの賛成!一緒に描こう。」ととりあえず、道具を揃えるところから手伝ってくれた。油彩画を描くのは初めてだったが、「水彩画と同じ。ただ

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私になるまで22

私になるまで22

新緑の季節だったと思う。またまた友達の車で講演会に行く。この時は職場のおばちゃんが、「私も二次障害の事知りたい。」と3人で行くことになった。場所は、神戸。あの大地震が起きる数ヶ月前の神戸だった。詳しい場所は忘れてしまった。割と大きな建物の大会議室って感じ。前にスライドを映すスクリーンがあり、先生はそこに映し出される症例を見て説明する。身体が歪み車椅子に座るひと。首の手術後の様子。首のMRI写真。見

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私になるまで19

紹介してもらった作業所に履歴書を送ると、その作業所の事務局長なる人物から電話がかかてきた。会いたいから、来てください。最寄り駅でこちらに連絡して貰えたら、迎えに行きます。」それで連絡先の電話番号をメモして電話を切る。

よし!今度こそ!と気合い入れる。

面接当日。ー大阪駅から4駅目だったと思う。ーで下車、電話をかけようと番号を書いた紙の切れ端。カバンから出そうと探す。え〜忘れた。頭が真っ白になる

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私になるまで18

先行き不安な私に、ゼミの先生が、大阪市内で自閉症の人達の作業所を立ち上げるから、行ってみないかと、救いの手を出してくれ、とりあえず面接に行く。中度知的障害があり、その母親と共に待つビルの一室で面接。「あなたのようなな端的に指示を出してくれる人が欲しいです。」あまり初対面の人とベラベラ話す事が、苦手な私をそんなに喋れない人だと思ったらしい。給料はちゃんと払うと言うので自閉症の人との関わりは少し不安だ

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私になるまで17

そもそも「普通」って何だろう?普通に暮らす。普通に学校にいく。普通に仕事する。

何故かそれが一般的な考えになっている。大学4年時は、バブルも弾け就職氷河期に入った時。バブル期は人材確保に企業も引っ張りだこの学生は就活に苦戦を強いられる。私は、あと一年頑張って採用試験を受けようかと悩んだが、やめた。

卒業まであと少し。進路の決まってない子もいたが。私の友達はだいたい行き先を決め次のステップへの準

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私になるまで16

教員採用試験は見事に落ちたが、養護学校の教師の資格は取ろうと心に決めた。

そのためには養護学校の教育実習は必須だった。私が、行ったのは、家からフェリーに乗り、更に、普通電車で1時間の所にある養護学校だった。最初は、電車で行ったが、養護学校に私が小学校の時にいた先生が偶然そこに赴任していて、翌日から毎日車に乗せてくれた。有難い話だったけど、電車なら眠れたが、そういう訳にもいかず色々雑談しながら2週

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私になるまで15

4年生になり、教育実習に行く日が間近に迫った時、教務課に呼び出された。

障害特に言語障害がある私に、授業をどう進めるか、色々アイディアを提供してくれ、私もどうする事が生徒に伝わるか、考えた。

その結果事前に大きな模造紙に話したいことを書き、それを私が読む。

社会科の授業自体、だいたい教科書を読むだけみたいなところもあるため、教科書は、生徒に読ませ、その捕捉を大きな模造紙に書いたのを読むことで

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私になるまで14

話は前後するが、初めての○○でもうひとつ学生時代の重大ニュースに入る出来事。そんなそれは、大学二年生の初夏の頃。私は昼食を食べに友達と雑談しながら、学食へと向かう。当時は、学食は2つあり、一方は古い校舎の地下。もうひとつは新しい校舎の地下。新しい方はエレベーターがあり、バイキング形式に好きなものを取り、レジへと向かう。古い校舎の学食は、階段を降りていったところ。食券を買って注文カウンターで交換する

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私になるまで13

大学生となり。家から遠く離れ暮らすようになって、初めての○○が増える。そして趣味へと繋がる。 その中で印象深い初めての○○は登山だった。

ある日友達に、「ちか今度の日曜日、友達とピクニックに行くけど、一緒に行かへん?」誘われれば行くって友達は確信して聞いてきた。もちろん、返事はOK!

ってことで友達と、友達の友達数人とピクニックに行く。ちょっと人見知り発動…最初はあんまり話す事もなく、電車に揺

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私になるまで12

教師になるための勉強を始めた私は夜昼問わず参考書と向き合った。気に食わないが、障害児が通う学校は特殊教育。その前に中学社会教師の免許が必要で母校に教育実習に行くことになった。この頃も私の話してる言葉が、伝わるかどうか不安だったが、勇気を振り絞って、母校に電話をかける。一呼吸おいて、「私、H大学の社会福祉学科の浅野です。」電話に出たのは教頭らしい。間が空いて「はい。」言葉が、伝わった!「教職課程の取

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私になるまで11

大学3年生の秋深まる頃。大学から山の方に上がったところにある精神薄弱児更生施設ー当時は、そういう呼び方だったーに実習に行く事になった。夏休みに一緒にに実習をする子と園長に挨拶に行く。ここの子達は、叫んだり暴れる子もいるけど大丈夫?って聞かれ私は、障害者の余暇活動のボランティアをしてると言うと、じゃ、大丈夫やね。の一言で終わった。ここは実習生に対して指導はしないから、他の職員がやるの見てやる事自分で

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私になるまで10

その時の私は、漠然と私みたいな障害者の役に立てたらなぁ…と思い始める。しかし、コンプレックスである喋る事が出来なければ、どうしようもない

時代は昭和から平成へ移り変わり…障害者が大学に行くということもさほど珍しいことでは無くなった。大学の中では、何もかも平等だった。勉強しなければ単位は落としす。私はそんなに真面目な学生ではなかった。タバコは吸うわ、酒は呑むわ…親が知ったら、殺到してきそうな不健全

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私になるまで9

高3になり、みんな何となく、進路について話す事が、多くなった。小さい頃から母から「あんたは障害あるし、大学行って出来る仕事見つけるしかないよ。」と言われて育った。学歴が全てではないがその時は、何になりたいかも何をしたいかもわかってなかった。ただみんなと同じ事がしたい。上手く話せないもどかしさは、当時私のコンプレックス…頑張り屋さんの愛ちゃんは実は内気な人見知りさんだった。だから何?友達という存在に

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私になるまで8

私になるまで8

コンプレックス…どんな人にも、一つや二つあるだろう。私にとって、それは言語障害があるということだった。友達や家族には普通に話せても、知らない人には中々話しかけられない身体が強ばって緊張しなくてもいいのに緊張して、余計言葉が通じなくなる。「分からないからもう1回!」って言ってくれたらいい。しかし、大半は、わかった振りをして頷いて聞き流す。

その頃は、それが一番悔しかった。

私も笑って誤魔化す。あ

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