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生き物として「好きに鈍感嫌いに敏感」は当たり前の機能だと気付いた(好きについて1か月考えた②)

↑前回のこちらの続編

「好き」についてLINEでメモをするという
画期的な方法を編み出したのに
数日で飽きてしまった。

これについて少し考えた。

私は転職を考えた時にどんな職場に就きたいか分からないくせに

家から近くないと嫌
営業は嫌
テレアポも嫌
時間に自由が利かないと嫌

というように嫌な条件ばかりポンポン出てきた。

転職サイトのチェック項目。
どこにもチェックできなかった。
何が"良い"からこれが"良い"
がうまく言葉にできなかった。

食べ物でもそう。

私が嫌いなトマト。

青臭いし
ジュクジュクしてるし
食べて吐いた記憶がある

と I don't like●●の後に理由を言いやすい。


大好きな鯛焼き。

なんとなくいつの間にか
大好物だった。

と、好きなの思い出したくせに説明できない。

好きに鈍感嫌いに敏感。

生き物の本能的に
「これヤバイ!」「これ危険!」
と察知しやすいのは当然。

逆に心地がいい感覚は
直ぐに感じ辛くなる。

不幸な時はめちゃくちゃ幸せについて考えるけど
幸せな人は幸せについて考えないし。

お腹が痛い時は痛いを感じるし
お腹が痛くなくなれば...と考えるけど
何もない時は別にお腹に対して何も感じない。

それぐらい「好き」な感覚って見失いやすい。

オタ活をしている人がキラキラ見える。
それほど愛を注げるものがあるなんて
なんて素敵なんだろう。

私もかつてジャニーズにすべてをささげていた時期があった。
嵐についてだったら意味分からないぐらい語れて
気持ち悪いぐらいだった。

でも私が求めている「好き」って
そのレベルじゃなくてもいいことにも
気付いた。


ライブ当日はハイテンション
次の日の学校が仕事が
だるい。

ライブの日のような「好き」に埋まる
テンション高い日。

前からそんなに毎日その色だったっけ?

つい、好きが分からなくなって
必死に語れるものを探していたけど
私が求めていたのは
凪の状態な気がする。

好きなことメモを始めた時、
「好きってなんだっけ」「見つけなきゃ」「分からない」
というネガティブな気持ちが側にいる日程
メモの量が多かった。

特に後半の日。

「好き」について考えるのがどうでもよくなったので
メモの数が少なくなっていった。

ハイレベルの好きを求め過ぎていたのかもしれない。

毎日って実はちょっと好き、とか
好きを認識しているから
常識、当たり前レベルまで昇格した物事に
意外にあふれていて

ジェットコースターのような
ダウンがセットのアップが続く毎日ではなくて
小波の凪な状態が
私が求めていたものな気がした。


ここで終わるのも気持ち悪く
なんだか消化不良だったので
タイトルを
この後やりたいこと」にしてみた。

→続く…

。。mina。。



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