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スマホ離れ1日目

今回は昨日の体験を、
私の思考回路そのままに
書いてみたいと思う。

最後まで付き合っていただけると
ありがたい。



昨日はあることを試した。

それはスマホを持たずに
カフェで本を読むことだ。


この試みに至った理由は
とても単純だ。

スマホを使い過ぎていたから。



iPhoneにはスクリーンタイム
という機能がある。

これはアプリやサイトに
どれだけ時間を使っていたかを
集計してくれる機能だ。

一週間ごとに使用時間と
先週との差異を通知してくれる。


私はなんと平均4時間使っていた。

最近テニスゲームに
はまったせいかもしれない。

それを差し引いても多すぎる。

その時間の多さに驚き、
思わず内訳を確認してみた。

グノシーとテニスゲームが
トップシェアを占めていた。

グノシーはニュースアプリだが、
実のところまとめサイトもあり、
私はそこをよく見ていた。

もちろんニュースも見ているが。

その次のシェアがsafari、LINE
noteと来ていた。

それらはあまり
使っている自覚はなかったが、
データとして出ている以上
受け入れるほかない。



スクリーンタイム機能により、
私は反省した。

noteを初めて以降、
時間は非常に重要なものと
自覚できたのにこの始末。

まるでnoteに書いたことの
説得力が生まれない。

それよりも問題なことがある。

百歩譲って長時間使うのは
許したとする。

問題は自分がどれだけ使っているか
自覚できていない点だ。

すなわち自制ができていない。


そこで私は考えた。

どんな時にスマホを使うか。

考えていると、
四六時中近くにスマホがある
という状況に恐怖を覚えた。


スマホのアラームで起床。

連絡が来てないかチェック。

ニュースもスマホで見る。

暇つぶしにゲームもする。

何かあればスマホで検索。

音楽アプリで曲を聴く・・・


挙げたらきりがないが、
少なくとも私の生活において
スマホが中心といっても良い。

外に行くときも必ず
右ポケットにスマホはある。

むしろスマホがなかったら
非常に焦る。


もはや病気だと思い始めた。

スマホがないと
外出すら不安になってしまう。

親がいないと不安になる
子供のようだ。

いや、そのほうがましだ。

子供はまだ保護される立場で、
不安に陥る正当性がある。

たかが電子機器がないだけで
不安に陥る我々とは違う。

スマホ依存症の我々とは。



どうしたものだろうか。

現代病を患ってしまった私は
なんとか治したいと思った。

1日のうち4時間も
スマホに使っているのは
余りに勿体無い。

睡眠を差し引くのであれば、
約30%は使っている。

これは治療をしなければならない。

しかしどうすればいいか。

現代人はスマホともはや
運命共同体レベルであり、
切っても切れない関係だ。

完全にスマホと
お別れするのは厳しいだろう。


ここで私は他の依存症と
スマホを比べてみた。

例えばアルコール。

アル中と言われる者は
四六時中飲んでいる。

だが、酒を飲むだけでは
依存症とは言えない。

四六時中ではなく
例えば飲みの席だけや、
稀に晩酌をする者は
果たして依存症だろうか?

答えは否である。


つまり、スマホも
必要な時に使う分には
素晴らしい物となる。

何事も使い過ぎは
禁物なのだ。


そうとなれば
不必要な時に使わないよう
心がければいい。

それで解決するなら
こんなにも悩まない。

スマホにここまで人々が
依存するにはそれなりの
理由がある。

便利すぎることと
連絡ツールとしての側面だ。

前者は単純明快。

小さくてなんでもできて、
とにかく最高なのだ。

後者は中々に厄介だ。

スマホの登場により、
実際に合わなくても
コミュニケーションを取れる。

おかげで一人の時間が
非常に作りにくくなった。

そして繋がっている状況を
通常と思い込んでしまい、
スマホを常時持ち歩いていないと
不安になってしまうのではないか。


解決方法はないか。

そこで私が試みたのが
最初に言ったことだ。

物理的にスマホを使わせない。

こうして徐々に慣らしていく
という方向で決まった。


やってみて分かったのは、
私が思った以上に
重症であったことである。

カフェに向かう途中、
右手のポケットに無意識で
手を突っ込んでいた。

もちろんいつもならスマホがある。

しかし今は治療中。

スマホがあるはずもない。

私は習慣の恐ろしさを
感じながら入店した。


読書も中々に手がつかない。

スマホがないことに起因する
不安のためだろうか。

はたまたこの本に
没入感を覚えないためか。

きっとどちらの意見も
真である。

もう少し興味のある本に
すれば良かったかもしれない。

そうした後悔の念を抱くも
家に着く頃には2時間経っていた。


どうやらスマホの為に
帰宅するという程では
なかったらしい。

今回の試みで得られた
良い収穫と言えるだろう。

しかし、本すら2時間まともに
読むことができないとは。

げんなりする気持ちはあるが、
現状は把握できた。

あとはこの結果を
どう活かせるかだ。



今後のことを思案していた時、
前書いた記事のことを思い出した。

内容は今を生きれば楽しくなる
と言ったようなことだ。

例えばスポーツなどをやっている時
スマホをいじっている暇はない。

今やっている事を
思いっきり楽しんでいる。


それを思い出してから、
私はスマホに対して
改めて注意を散漫にする
力が強いなと思った。


例としては
歩きスマホがいいだろう。

歩きスマホが危険なのは、
歩くという行為に
集中できなくなるからだ。

スマホを見る為には
歩行に必要な視覚情報を
削らなければならない。

そのリスクと引き換えに、
歩きスマホは成り立っている。

スマホを見る事に集中してしまい、
結果事故になってしまう。

或いは会話でも言えることがある。

スマホをいじりながら
人と話すことは可能だろうか?

可能ではあると思うが、
少なくとも集中はできていない。

聞きもらしたり、返答が雑だったり。

会話とスマホを両立する為には、
注意を分散させなければならない。



こうした事実を加味すると、
私の目標はこうなる。

日常生活において
スマホに注意を奪われない事だ。

スポーツをする時は
スマホをいじらないのと同じく、
不必要な場面ではスマホに
注意を向けずにいたい。


この目標はすぐに
達成することはできないだろう。

こういうのは継続
肝心なことなのだ。

毎日スマホを持たない時間を
作って慣らす。

いつ治るか分からないが、
根気よくやるしかない。

今日もスマホを持たずに
どこかへ行ってみよう。






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