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フレデリック・マルテル 『ソドム バチカン法王庁最大の秘密』 : 〈歪んだ聖域〉としての バチカン

書評:フレデリック・マルテル『ソドム バチカン法王庁最大の秘密』(河出書房新社)

本書は、日本語版単行本の帯文が印象させるような、スキャンダラスな本ではないし、暴露本などでは決してない。
カトリック教会の総本山であるバチカン法王庁の「現実」とその「問題点」を、その成り立ちにまで遡って研究した、瞠目すべき「キリスト教ルポルタージュ」であり、第一級の研究書である。
カトリック教会の将来を考える上で、今後、本書は決して無視しえない基礎文献となるだろう。

事実、本書は一流の作家・ジャーナリストにして社会学者である著者が、世界を飛び回り、多くのスタッフを駆使して、4年がかりで書き上げた大作であり、個人の書いた良書の域を遥かに超えた「圧倒的な著作」である。その「聖書」並みの分厚さは、決してダテではない。
しかしまた、本書が比されるべきは「聖書」ではなく、むしろダンテの『神曲 地獄篇』なのではないか。本書における、マルテルの長い旅は、バチカンという「人間的な世界としての地獄」を経巡るものだったからである。

本書が、どの程度の規模で、どのくらいの労力をかけて成ったものなのか、その一端を紹介しておこう。

『 本書では四年にわたり、イタリアおよび三十か国以上で現地調査を行った。全体で千五百人と会見し、そのうち枢機卿が四十一人、司教とモンシニョーレが五十二人、教皇大使、バチカン大使館書記官、外国大使が四十五人、スイス衛兵が十一人、カトリック司祭と神学者が二百人以上である。従って、本書に書かれている情報の大半は、現地で当事者から直接ききとった一次情報である(電話やeメールでのインタビューは行っていない)。
 総数百三十回以上の会見に応じた四十一人の枢機卿の大半は、ローマ教皇庁に所属している。以下はその一覧である。アンジェロ・バニャスコ、ロレンツォ・バルディッセリ、(中略)マッテオ・ズッピ(このほか七人の枢機卿にインタビューしたが、ここでは名前を挙げない。いわゆる「オフレコ」や「ディープ ・バックグラウンド(直接の引用や発言者の公表を避けるよう要求する協定の一種)」で話すのを求めたことから、匿名のままになっている。
 この調査を行うために、私は二〇一五年から二〇一八年にかけて、月に平均一週間程度ローマですごした。また、バチカン市国内に何度か滞在し、聖座がローマ市内に所有する二つの宿泊施設、パウロ六世国際会館(カーサ・デル・クレロ)とローマ聖職者会館に宿泊した。イタリアの十五か国ほどの都市でも取材を行った。そのうちミラノ、フィレンツェ、(中略)トリノにも足を運んだ。
 バチカン市国とイタリア以外にも、三十か国で現地調査を行い、複数回訪れたところもある。ドイツ(ベルリン、ミュンヘン、レーゲンスブルクに何度か滞在、二〇一五-二〇一八)、(中略)ウルグアイ(モンテビデオ、二〇一七)。(このほか、調査開始以前に二十か国以上、とくに南アフリカ、アルジェリア、カナダ、カメルーン、中国、韓国、デンマーク、エクアドル、インドネシア、イラン、ケニア、ロシア、台湾、タイ、ベネズエラ、ベトナムなどを訪れており、それぞれ調査の参考にした)
 『ソドマ』(※ 本書)は事実、引用、きわめて正確な情報にもとづいて書かれている。多くのインタビューは、相手の同意を得て録音するか、証人である調査員か翻訳者立ち会いのもとで行われた。全体で録音は四百時間近く(インタビューはノート八十冊、枢機卿の写真と自撮りは数百枚)にのぼる。引用箇所は、いまでは常識となったメディア倫理に従って、手直しすることなく、そのままの形で掲載してある。
 (中略)
 この種の調査はけっしてひとりで行えるものではない。効率的な調査を行うために、世界中に散らばった八十人以上の協力者、翻訳者、助言者、調査員からなるチームを活用した。彼らのなかから、ここでは、この長い冒険につき合ってくださったおもな調査員の名前を挙げ、お礼を申し上げたいと思う。まず、イタリアのジャーナリスト、ダニエーレ・バルティチェッリ。(以下略)
 (中略)
 本書には十五人ほどの弁護団についていただいている。弁護団のまとめ役は、筆者の弁護士であるフランス人のウィリアム・プールドンである。(以下略)
 (中略)
 最後に、本書では非常に多くの文字資料や文書類、千点以上の参考文献や新聞・雑誌記事からなる膨大なビブリオグラフィを使用した。スペースの都合により、本書には掲載できなかったが、研究者や興味のある読者はオンラインで、三百ページのドキュメントを無料でご覧いただける。』(本書P736〜742「情報源について」より)


本書が、大変な規模で行なわれた、可能なかぎり厳密な「研究」であり「ルポルタージュ」であることが、実感としてご理解いただけたかと思う。

次は、著者について紹介しておこう。

『 著者のフレデリック・マルテルはフランス在住の作家、ジャーナリスト、社会学者で、本書で自ら述べているように「オープンなゲイ」である。アメリカに長期間滞在した経験があり、アメリカ文化やLGBTに関する著書がある(邦訳書『超大国アメリカの文化力』、『メインストリーム 文化とメディアの世界戦争』、『現地レポート 世界のLGBT事情』はいずれも岩波書店刊)。フランス文化省の職員として、一九九〇年代初頭にルーマニアの仏大使館、二〇〇〇年代前半にアメリカの仏大使館に勤務。二〇〇二年にボストン・グローブ紙が聖職者による未成年者への性的虐待を暴いたときも、現地でその一部始終を目撃していた。世界中に同種の告発が広がるきっかけとなった、「スポットライト」のスクープである。
 著者自身がゲイであることは、バチカンの同性愛の実態を調べる上で大いに役立ったに違いない。ひとつは、バチカンの同性愛者たちに受け入れられ、比較的容易に話をきき出すことができたこと。異性愛者や女性だったら、彼らもこれほど口を開かなかったかもしれない。もうひとつは、相手の同性愛のレベルがどれほどのものか、自らの経験をもとにある程度、推測できたことである』
 (P743〜744「訳者あとがき」より)

つまり、充分に信頼のおける著者である、ということだ。

以上のような理由から、本書が「イロモノ」などではなく、本格的な「バチカン研究書」であることが、ご理解いただけたかと思う。
したがって、キリスト教、就中、カトリック教会とその信仰に、真面目で現実的な興味を持つ者なら、読まずに済ませることなど、到底できない「重要な一書」。それが本書なのだ。

そう強調した上で、本書の内容を、あくまでも「簡単に」に紹介しておこう。

 ○ ○ ○

本書は「バチカン法王庁は、同性愛の悪徳にまみれている」と告発した書物ではない。

「男たちの世界」であるバチカンには、世の異性愛専制的世界を避けて男性同性愛者が集まる条件が、かねてより揃っており、すでにそれが一つの「システム」として完成している、と本書は指摘する。
だが、問題なのは、そのシステムが「健全な生としての同性愛」を擁護するものではなく、同性愛を「悪徳」であるとする「(聖書の記述的裏づけを欠いた)誤った伝統(的解釈)」のために、実際には同性愛者でありながら、同性愛者であることを自己否認し隠蔽し、さらには対外的な保身と自己正当化のために同性愛を攻撃する(ことさらに目の敵にする)といった「二重生活の偽善」が横行してしまっている、という現実なのだ。

著者自身が「オープンなゲイ」であることからもわかるように、「同性愛」自体は、神によって創られた人間の「自然な姿(の一態様)」なのだから、「悪徳」でもなんでもなく、隠す必要のないことだ、というのが本書を貫く「大原則」であり、そして正義である。
だが、聖書の記述に基づかない、キリスト教界の「誤った伝統」によって、「同性愛」が「悪徳」とされてしまったがための矛盾が、局限化されたかたちで表れているのが、今のカトリック教会の直面する各種問題(犯罪である児童虐待やバチカン銀行の資金洗浄事件など)なのである。

つまり、これは「同性愛」そのものの問題ではない。バチカンをめぐる各種の問題の根底にあるのは、「同性愛は悪徳であるから隠さなければならない」という「誤認」に由来する「自己欺瞞としての二重生活」の問題。「本質的偽善」の問題なのである。

したがって、「聖職者による未成年者への性的虐待」問題は「一部の不心得者が、たまたま犯した犯罪」などではなく、カトリック教会において「健全な性生活」が疎外されているために起こった「歪められた性欲の発露」であり、また、それ故の「システム的隠蔽」なのだ。

「犯罪者としての児童虐待者」が罰せられることもなく、長らく匿われ「隠蔽」されてきたのは、そこから先に真相究明の手がのびることを怖れた高位聖職者が大勢いたということであり、これは彼ら高位聖職者が「身内をかばった」という話ではない。それは、彼ら自身の「保身」のためだったのである。
自らに後ろめたさを感じている「二重生活者(口では同性愛を攻撃しながら、裏ではそうした性欲に身を任せている聖職者)」たちは、犯罪者たちを処罰することで、自分たちの「秘密」が暴露されることを怖れて、彼らをかばっただけであり、そこには「慈悲」や「赦し」などといったものはなく、あるのは徹頭徹尾「保身」のみだったのだ。

むろん、現ローマ教皇であるフランシスコがそうであるように、「同性愛」や「既婚司祭の登用」を認めようとしている、リベラルな高位聖職者もいる。
しかしここで勘違いしてはいけないのは、彼らは単なる「自由解放主義」なのではなく、カトリック教会における諸悪の根源である「偽善としての二重生活」を無くすためには、「性の現実」に対して、まず正直でなければならず、そのためには「自然な性生活のあり方」の現実を直視し、「誤った伝統」を考え直さなければ「カトリック教会に未来はない」という危機意識がある、ということなのだ。

ところが「偽善的な二重生活」が常態化してしまった者は、今更その「都合のいい生活」を捨てることなど不可能になっている。「人間としての良心」そして「信仰的良心」をいったん麻痺させてしまうならば、「二重生活」ほど楽なものはないからだ。彼らは、表向きは「聖書と伝統に忠実な、清廉な信仰者」としてふるまい、その「権威」と「力」によって「私生活を隠蔽する」。

一方、彼らの偽善を知るリベラルな聖職者の多くも、だからと言って、彼らの「裏の生活」を暴くようなことはできない。そんなことをして、潰し合い(あいつもこいつもそうだ)になれば、カトリック教会そのものが保たないからだ。

そのために「偽善者が、正統主義者として権威を振りかざす」その一方「現実を直視して、偽善を改めていこうとする改革者が、伝統破壊者呼ばわりされてしまう」という、皮肉な逆転現象が惹起されてしまう。
現代のカトリック教会における「保守とリベラルの抗争」の根底には、「性愛という人間の根底的要素」をめぐっての「建前と現実との抗争」が、このように伏在していたのである。

私たちが、カトリック教会について「なぜ?」と思ったり、微かに感じる「違和感」の陰には、「性愛の問題」が隠されていた。
健康な人間であるなら、誰もが避けて通れないこの問題について、それがさも「避け得ている」かのように見せている、その「見せかけ」という「偽善」が、カトリック教会の少なからぬ高位聖職者を、「二枚舌」の偽善者にしてしまっている。

プロテスタント・ルター派の神学者ディートリヒ・ボンへッファーは、「贖罪の告白」について、その意識にのぼりにくい「偽善」を、次のように戒めているが、これはバチカンの偽善的高位聖職者の意識を、そのまま指摘批判するものともなっている。

『私たちにとってしばしば、神の前での罪の告白の方が兄弟(※ 神父)の前でのそれより容易なのはなぜだろうか。神は聖であって罪なき方である。神は悪に対する正しく裁き主であって、すべての不従順の敵である。しかし兄弟は私たちと同じ罪ある人間だ。彼(※ 告白者)は自分の経験から、(※ 他の神父にも)隠された罪の夜のあることを知っている。〔だから〕私たちは、兄弟への道を、聖なる神への道より容易だと考えるのが当然ではないだろうか。しかし実際はそうでないとすると、次のように自問しなければならない。私たちは、神の前での罪の告白をもってしばしば自分自身を欺いていたのではなかったか。また私たちは、むしろ自分に対して罪を告白し、自分で自分の罪を赦していたのではなかったか。繰り返し起こる〔罪の〕再発、私たちのキリスト者としての服従の力の弱さは、おそらくまさに、〈私たちは自分で自分を許すことによって生きており、実際に〔神による〕罪の赦しによって生きているのではない〉ということにその原因を持っているのではないか。自分で自分を赦すことによっては、決して罪から解放されることはない。それができるのは、裁きを行い恵みを与える神の言葉だけである。』
 (『共に生きる生活』森野善右衛門訳)

現教皇フランシスコの取り組んでいる「教会改革」の問題とは、「人間の根底的な要素」に由来する難問であり、けっして一朝一夕に解決できるようなものではない。問題のある偽善者たちを、端から処分して済むような問題ではない。なぜなら、カトリック教会には、そうした「問題」を生むシステムがすでに完成しており、それそのものを解体しないかぎり、本質的な解決は、決してもたらされないからである。

そして、この問題の解決は、ローマ教皇一人が頑張って済むようなものではない。
なにより、すべてのカトリック信者が、この「人間と教会の現実」を直視し、それと向き合うことから始めなければ、教皇フランシスコとて、やれることは多寡が知れているのである。まただからこそ、彼はしばしば「私のために祈ってください」と言うのだ。

私は本書を、すべてのカトリック信徒に薦めたい。勇気を持って、本書を手に取れと言いたい。フランシスコを見殺しにするなと言いたい。

イエスの信仰は、けっして人間の現実を否定するものではないし、現実逃避のためのものではなかったはずなのだから、怖れることなく、勇気を持って「信仰における難問」に向き合え、と言いたい。
イエスの信仰は「自己保身」のためではなく、「弱者」救済のための信仰であったことを、もう一度ここで思い出すべきなのではないだろうか。

カトリック信者よ、いまこそ信仰者として、真に「受肉」せよ。

初出:2020年6月3日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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