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〈奇跡の人〉 中村哲の35年 : 劇場版 『荒野に希望の灯をともす』

映画評:谷津賢二 撮影・監督:『荒野に希望の灯をともす 医師・中村哲 現地活動35年の軌跡』


「顔くらいなら見たことがある」という人なら、少なくはないだろう。この、一見したところ冴えない、小男の医師は、しかし、国内規模の有名人でもなければ、単なる世界規模の有名人でもない。彼は、世界レベルの、まさに「偉人」なのである。だから有名であり、多くの人が、顔くらいは見たことがあるのだ。

だが、彼の、そのあまりにも「偉大な事績」を知っている日本人は、それほど多くはないだろう。
なぜなら、彼の活躍の舞台は、日本国内ではなく、「戦争」でも起こらないかぎり、日本人が興味を持つこともない、パキスタンとアフガニスタンであったからだ。

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それでも、そんな彼の「勇名」が、国内にまで轟いたのは、彼の「活動」が、あまりにも、そう常識はずれなレベルで、まさに「偉大」だったからに他ならない。
誰も、彼の真似などできない。まさに彼は、「偉人」と呼ぶしかない、稀有の人だった。
だから、彼の「事績」はともかく、「勇名」だけは、嫌でも国内にまで届いていたのである。

『2019年、アフガニスタンで用水路建設に邁進するなか武装勢力に銃撃されて死去した医師・中村哲の足跡を追ったドキュメンタリー。アフガニスタンとパキスタンで35年にわたり、病や貧困に苦しむ人々に寄り添い続けた中村哲医師。現地の人びとにその誠実な人柄が信頼され、医療支援が順調に進んでいた2000年、アフガニスタンの地を大干ばつが襲う。農業は壊滅し、人びとは渇きと飢えで命を落とす中、中村医師は医療で人びとを救うことに限界を感じる。そこで彼は医療行為のかたわら、大河クナールから水を引き、用水路を建設するという事業をスタートさせる。これまでにテレビなどで放送された映像に、未公開映像、最新の現地映像も加えて劇場版として再編集し、中村哲の生き様を追った。』

「映画.com」所掲「解説」

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もともと彼は『登山と昆虫採集が趣味で、1978年に7000m峰ティリチミール登山隊に帯同医師として参加し』て訪れたパキスタンで、医療から遠ざけられた多くの現地住民に頼られながらも、一人でできることは限られており、泣いてすがりついてくる人たちを振り払うようにして帰国した後、ずっとそのことが忘れられずいた。

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そして『国内病院勤務ののち、1984年、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)から派遣されてパキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任。以来、20年以上にわたってハンセン病を中心とする医療活動に従事する。』。
ハンセン病(正式名称が「らい」)を専門としない彼が、この病気の治療にあたったのは、現地の医療事情に配慮したしたためである。ペシャワールにも、それなりに病院もあれは医師もいたのだか、医療資源に乏しい現地では、治療に時間と手間のかかるハンセン病は、言うなれば後回しの置き去りにされており、ごく少数の医師が奮闘していたため、中村は、現地で出来ることに出しゃばるのではなく、現地で足りないところを補おうと考えたのである。

1983年に、中村のハンセン病治療を支援する民間組織「ペシャワール会」が設立され、中村は同会の現地代表になって、ハンセン病治療に止まらず、無医地区に病院を設立する活動を始める。
しかし、これとて、問題は資金だけではなかった。現地の文化を理解し、それを尊重して、現地住民たちからの理解を得ないかぎり、病院を建てることなど出来なかったからである。

もしも中村に、よくある「可哀想だから助けてあげる」といった意識があったなら、現地の人々の理解は得られず、この活動も長続きはしなかっただろう。現地の人たちは言った。「そんなことを言うが、どうせすぐにいなくなってしまうんだろう。それなら最初から、かき回しになど来ないでくれ」と。
だが、中村は「対等の人間」として、根気よく現地の人々と向き合い、彼らを心から尊重して話し合う中で信頼関係を築き上げて、病院設立の事業を進めていった。つまり、中村は、単なる医者ではなかったのである。

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無論、中村の活動は、当初「医療」にあった。だが、『2000年の大旱魃』時に、清潔な飲み水の枯渇と自作農の壊滅による飢餓、さらには「赤痢」患者の急増によって、多くの子供や老人の命が失われた。

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水を確保しないことには、もはや医療では対応しきれないと判断した中村は、井戸掘り活動を始め、年間に600を超える井戸を掘ったが、うちつづく旱魃によって、その井戸さえ枯れ始めた時、彼は大胆にも「用水路建設」に乗り出す。

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土木にまったくの素人である一人の医師の大胆な発案は、当初「無謀」とも言われたが、それでも自ら土木学を学んでまで動き始めた中村に引きづられるようにして、多くの現地民たちが協力した結果、幾多の困難を乗り越え『約7年かけてガンベリ砂漠を潤す総延長25・5キロに及ぶマルワリード用水路を整備』し、65万もの人の命を救ったのである。

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中村は、もともと目立つことが嫌いな、無口で訥弁な人であった。
しかし、そんな彼が、カメラに向かって、あまりにも正統派の「ヒューマニズム」を語ったのは、活動継続のためには「カネ」が必要だったからに、他ならない。
できるなら、人前にも出たくはないし、カメラなど向けられたくはないが、必要な寄付を募るためには、そうした広報活動や活動報告が是非とも必要だったから、中村はカメラの前に立って、人々に訴えたのである。

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無論、彼は現地で、現場に立って、人々の共に活動したから、個人的にカネをつかう暇もなかった。それどころか、国内に残してきた10歳の次男が、癌の闘病生活を送っていた時も、次男のために家庭に戻るというわけにはいかなかった。
中村の代わりが務まる者などおらず、彼がいなければ活動が停滞し、その結果、何百、何千という現地の子供たちの命が失われることになる。
だから中村は、現地に止まって用水路建設を続けないわけにはいかなかった。心の中で、次男に「すまない」と手を合わせながら。一一そして、中村は、次男と失うことになる。

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2010年に刊行された、澤地久枝との共著のタイトル『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』は、中村の現に生きた信念をそのままに語る、真っ直ぐなものである。
こんな言葉を「普通の人」が語れば、およそ「臆面もない偽善の言葉」にしかならないだろう。だが、中村の場合は違った。この言葉どおりに、生きて実践して見せたからである。

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だから、こんな生き方を「奇跡」と呼ばずして、何と呼ぼう。彼を、文字どおりの「偉人」と呼ばずして、この言葉を使う機会などないのではないだろうか。

この、あまりにも偉大な人の、あまりにも真っ直ぐな豪速球の前に立って、私は、その球を打ち返せるなどとは、とうてい思えない。
ただ、バッターボックスに立つことから逃げることだけはしたくない。そこに立って、その豪速球の恐ろしさにうち震え、我が身の小ささを実感することくらいは、しなくてはならない。そう思うのだ。

その圧倒的な存在感の前に、私は恥じ入るばかりではあるけれど、しかし、こんな偉大な人が、現に、同時代に、存在したという事実だけは、私に中に、喜びと新たな責任意識を、蘇らせてくれるのである。

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(2022年8月13日)

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