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宮口幸治 『ケーキの切れない非行少年たち』 : 「認知の歪み」の普遍性

書評:宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮新書)

本書がベストセラーになっているのは知っていたが、非行少年たちの知的な問題を、ことさらにあげつらう体のものなのではないかという予断的な印象があって、ずっと無視してきた。

非行少年たちが、いかに「異常であり、更生など不可能であるにもかかわらず、法によって過剰に保護されて、いずれ早々にシャバに戻ってきては、また犯罪を犯す」のかといったようなことを、悪意を持って強調したような本ではないかと、そう疑っていたのだ。

本書が「新潮新書」からの刊行であったであったことも、そんな推測の根拠になった。
新潮新書は、他の出版社の新書よりも「右寄り」の本を好んで出す傾向があったからである。

だが、少なくとも本書は、そのような「右寄り本」ではなく、むしろ典型的な「リベラル本」であり、「弱者としての非行少年」たちに寄り添おうとしたものだと言えるだろう。

私の、こんな誤った憶断を正して、本書へ導いてくれたのは、オタク系ライター・にゃるらの「note」記事であった。

にゃるらは、沖縄出身のオタク少年だったが、沖縄という狭い土地柄、オタクの彼がヤンキーたちとつるむということもあって、彼にはヤンキーに対する偏見がなかった。
そのことを、彼の自伝的著書である『僕はにゃるらになってしまった ~病みのインターネット~』を読んで知っていたので、その彼が本書を好著として推薦しているのだから、決して非行少年たちに対する偏見を助長するような内容の本ではないと思い、本書を読んでみたという次第である。

 ○ ○ ○

本書の内容については、Amazonの当該ページに詳細に紹介されているから、議論の前提として、それをそのまま引用しておこう。

『児童精神科医である著者は、多くの非行少年たちと出会う中で、「反省以前の子ども」が沢山いるという事実に気づく。少年院には、認知力が弱く、「ケーキを等分に切る」ことすら出来ない非行少年が大勢いたが、問題の根深さは普通の学校でも同じなのだ。人口の十数%いるとされる「境界知能」の人々に焦点を当て、困っている彼らを学校・社会生活で困らないように導く超実践的なメソッドを公開する。

目次

はじめに

第1章 「反省以前」の子どもたち
「凶暴で手に負えない少年」の真実/世の中のすべてが歪んで見えている?/面接と検査から浮かび上がってきた実態/学校で気づかれない子どもたち/褒める教育だけでは問題は解決しない/一日5分で日本が変わる

第2章 「僕はやさしい人間です」と答える殺人少年
ケーキを切れない非行少年たち/計算ができず、漢字も読めない/計画が立てられない、見通しがもてない/そもそも反省ができず、葛藤すらもてない/自分はやさしいと言う殺人少年/人を殺してみたい気持ちが消えない少年/幼児ばかり狙う性非行少年

第3章 非行少年に共通する特徴
非行少年に共通する特徴5点セット+1【/ 認知機能の弱さ 】見たり聞いたり想像する力が弱い「/不真面目な生徒」「やる気がない生徒」の背景にあるもの/想像力が弱ければ努力できない/悪いことをしても反省できない【/ 感情統制の弱さ 】感情を統制できないと認知機能も働かない/ストレス発散のために性非行/ “怒り"の背景を知らねばならない/ “怒り"は冷静な思考を止める/感情は多くの行動の動機づけである【/ 融通の利かなさ 】頭が硬いとどうなるのか?/BADS(遂行機能障害症候群の行動評価)/学校にも多い「融通の利かない子」/融通の利かなさが被害感につながる【/ 不適切な自己評価 】自分のことを知らないとどうなるのか?/なぜ自己評価が不適切になるのか【?/ 対人スキルの乏しさ 】対人スキルが弱いとどうなるのか?/嫌われないために非行に走る?/性の問題行動につながることも【/ 身体的不器用さ 】身体が不器用だったらどうなるのか?/不器用さは周りにバレる/身体的不器用さの特徴と背景

第4章 気づかれない子どもたち
子どもたちが発しているサイン/サインの「出し始め」は小学2年生から/保護者にも気づかれない/社会でも気づかれない「/クラスの下から5人」の子どもたち/病名のつかない子どもたち/非行化も懸念される子どもたち/気づかれないから警察に逮捕される

第5章 忘れられた人々
どうしてそんなことをするのか理解不能な人々/かつての「軽度知的障害」は人口の14%いた?/大人になると忘れられてしまう厄介な人々/健常人と見分けがつきにくい「/軽度」という誤解/虐待も知的なハンディが原因の場合も/本来は保護しなければならない障害者が犯罪者に/刑務所にかなりの割合でいる忘れられた人々/少年院にもいた「忘れ られた少年たち」/被害者が被害者を生む

第6章 褒める教育だけでは問題は解決しない
褒める教育で本当に改善するのか「?/この子は自尊感情が低い」という紋切り型フレーズ/教科教育以外はないがしろにされている/全ての学習の基礎となる認知機能への支援を/医療・心理分野からは救えないもの/知能検査だけではなぜダメなのか「?/知的には問題ない」が新たな障害を生む/ソーシャルスキルが身につかない訳/司法分野にないもの/欧米の受け売りでは通用しない

第7章 ではどうすれば? 1日5分で日本を変える
非行少年から学ぶ子どもの教育/共通するのは「自己への気づき」と「自己評価の向上」/やる気のない非行少年たちが劇的に変わった瞬間/子どもへの社会面、学習面、身体面の三支援/認知機能に着目した新しい治療教育/学習の土台にある認知機能をターゲットにせよ/新しいブレーキをつける方法/子どもの心を傷つけないトレーニング/朝の会の1日5分でできる/お金をかけないでもできる/脳機能と犯罪との関係/性犯罪者を治すための認知機能トレーニング/被虐待児童の治療にも/犯罪者を納税者に

あとがき  』

Amazonの『ケーキの切れない非行少年たち』内容紹介

簡単に言えば、非行少年として少年院などの更生施設に入ってくる少年には、少なくない割合で「認知能力に問題(弱さ)」を抱える者が見られるという事実を、知能テストなどの結果を示してわかりやすく示した上で、

「彼らに、自分の犯した罪についての反省を求めたところで、彼らはしばしば、その認知能力の低さゆえに、何をどのように反省しなければならないのか、それを理解することができない。だから、そもそも反省のしようなどないのである。したがって、まずは、彼らのこうした現実を直視し、そこを補った上で、本当の意味での反省と更生に導くということをしなければ、結局は、非行少年当人は無論のこと、被害者や世間にとっても、不幸の再生産にしかならない。だから私は、これまでの経験からつちかった、その具体的な処方箋を提供したい」

と、おおむねこのような内容である。

で、問題の、非行少年たちの多くに見られる「認知能力の低さ」の問題を典型的に示すのが、タイトルにもなっている「非行少年が〝三等分〟したケーキの図」である。

私たちは、この図を見たとき、思わず「えっ?」と驚き、その次に「でも、そういうこともあるだろうな」と納得するのではないだろうか。たしかに、非行に走る少年の中には「このような知的弱者もいるだろう」と。

だが、本書著者が言いたいのは、この問題は、決して「少数例外の話ではない」ということだ。
一見したところは「普通」に見えても、実は、認知的な問題を抱えているがゆえに、普通人には想像できない苦労を強いられ、人から「誤解」されてしまう者が、少なからず存在している、という事実である。

つまり、著者が問題としているのは、何も「非行少年」だけではないのだ。

認知能力に問題を抱えて苦労しながら、しかし、世間の理解がないために、能力以上の努力と忍耐を強いられ、その結果「犯罪に走る」者も出てくるという、「構造的な問題」がある。
これは、「少年院」入りや「刑務所」入りといった、不幸なかたちでの結果が出てしまう以前、つまり、小中学校の段階から取り組みを始めなければ解決されない「教育の問題」だというのが、著者の主張なのである。

『 これまで多くの非行少年たちと面接してきました。凶悪犯罪を行った少年に、何故そんなことを行ったのかと尋ねても、難し過ぎて、その理由を答えられないという子がかなりいたのです。更生のためには、自分のやった非行としっかり向き合うこと、被害者のことも考えて内省すること、自己洞察などが必要ですが、そもそもその力がないのです。つまり、「反省以前の問題」なのです。これでは被害者も浮かばれません。』(P22)

例えば、そうした「能力不足」がどういうものなのか、次の図を見てほしい。
例示された図を見て、それを「模写する」というテストの結果である。

(P20の図)

たしかに、この程度の図(下のような図)しか描けない子供がいるというのは、理解できるだろう。
だが、私たちの多くは、この図が意味しているところを深く考えたりはせず、たいがいの場合は「絵が下手な人もいるよね」くらいの感覚で、スルーしてしまうのではないだろうか。

しかし、著者は、この図を見て、次のように考えたのだ。

『 勤務して直ぐ、私は少年院の中で最も手がかかっていた少年の診察を頼まれました。少年院で「手がかかる」というのは、学校で「手がかかる」というのとは次元が違います。その少年は社会で暴行・傷害事件を起こし入院してきました。少年院の中でも粗暴行為を何度も起こし、教官の指示にも従わず、保護室に何度も入れられている少年でした。ちょっとしたことでキレて机や椅子を投げ飛ばし、強化ガラスにヒビが入るほどでした。いったん部屋で暴れると非常ベルが鳴り、50人はいる職員全員がそこに駆け付け少年を押さえつけて制圧します。制圧された少年は、トイレしかない保護室に入れられ大人しくなるまで出てこられません。そういったことを週に2回くらい繰り返していた少年でした。
 そんな情報が耳に入っていたので、内心びくびくしながら診察にのぞみました。どんな凶暴な少年が来るのかと思っていたら、実際に部屋に入ってきたのは、小柄で痩せていて、おとなしそうな表情の、無口な少年でした。こちらの質問にも「はい」「いいえ」くらいしか答えません。ときどき「え?」と聞き返していました。あまり会話が進まないので、私はこれまで(※ 勤務していた精神科の)病院での診察の中でルーチンとして行っていたRey複雑図形の模写という課題をやらせていました。これは次頁の図1ー1にある複雑図形を見ながら手元の紙に写すという課題です。神経心理学検査の一つで認知症患者などに使用したり、子どもの視覚認知の力や写す際の計画力などをみたりすることができます。
 彼は意外にすんなりと課題に一生懸命取り組んでくれたのですが、そこで生涯忘れ得ない衝撃的な体験をしました。彼は黙々と図1−2のようなものを描いたのです。

(※ 見出し略)
 これを見たときのショックはいまだに忘れられません。私の中でそれまで持っていた発達障害や知的障害のイメージがガラガラと崩れました。
 ある人に見せて感想をもらったことがあるのですが、彼は淡々と「写すのが苦手ですね」と答えました。確かにそうかもしれませんが、そんな単純な問題ではないのです。このような絵を描いているのが、何人にも怪我を負わせるような凶悪犯罪を行ってきた少年であること、そして、そしてReyの図の見本が図1−2のように歪んで見えているということは、〝世の中のことがすべて歪んで見えている可能性がある〟ということです。
(※ 先に示した、P20の図)
 そして見る力がこれだけ弱いとおそらく聞く力もかなり弱くて、我々大人の言うことが殆ど聞き取れないか、聞き取れても歪んで聞こえている可能性があるのです。
 私は、〝ひょっとしたら、これが彼の非行の原因になっているのではないか〟と直感しました。同時に、彼がこれまで社会でどれだけ生きにくい生活をしてきたのか、容易に想像できました。つまり、これをなんとかしないと彼の再非行は防げない、と思ったのです。』(P18〜21)

著者が、この図を示した「ある人」が『淡々と「写すのが苦手ですね」と答え』た、というのは、前述のとおりで、私を含む多くの人の反応でもあろう。

私たちが、子供の頃、美術の授業で「写生」をさせられた際、はっきりと、上手い子と下手な子がいたのだが、それはただ、それだけのことだった。後になれば「才能の違いだから、仕方がない」と納得して済ませていたのである。
そしてこれは、「運動能力」においても同じだろう。明らかに「能力の差」が存在し、それは多くの場合「持って生まれた能力の差」であろう。

しかし、私たちは、こうした「理不尽な(生まれ持った)差別」を、大した問題にはしない。何故なら、それは「どうしようもないこと」だからだ。

しかし、そうした差が、「どうしようもない」で済ませられる範囲に収まっておればいいだろう。
だが、そうではない場合も当然あるし、「模写の能力」のようにやらせてみれば、その「違い」が歴然としていても、日常生活の中では、そうした能力の差は、決して他人には、見えないし、わからない、といったものである場合も少なくはないのだ。

例えば、私自身の場合も、「短期記憶」能力が低い、という自覚がある。本書で語られている専門用語だと「ワーキングメモリ」が「低い」ということになるのであろう。
どんな能力かというと、見たり聞いたりしたことを、(長期的に記憶するのとは別に)しばらくの間は覚えておける能力だ。
パッと見て記憶し、その記憶を直ぐに利用する。「記憶のための(長期)記憶」ではなく、「今ここで利用するためにだけ必要な、短期の記憶」だからこそ「ワーキングメモリ」と言われるのであろう。

このわかりやすい例が、トランプゲームの「神経衰弱」だ。
プレイヤーが、伏せたトランプカードをめくっていき、最初にめくったのと同じ数字のトランプを次にめくると、そのプレイヤーは、その2枚のトランプを獲得することができる(手元に取り除ける)。同じ数字でなければ、その2枚のトランプは、その場に、また伏せて置かれ、次のプレイヤーがカードをめくる。

つまり、他のプレイヤーがめくったのち、伏せて戻したカードの位置を記憶しておけば、自分がある数字のカードをめくったときに、「さっき、あの人がめくった、同じ数字のカードがあそこにある」と、その位置を「思い出して」、それをめくり、数字を合わせてカードを獲得することができる。
このようにして、カードの獲得枚数を競うゲームが「神経衰弱」なのだが、このゲームの勝因は、決定的に「短期記憶」能力の強さだというのは明白だろう。

この場合の「カードの位置」記憶は、そのゲームをやっている間だけで十分であり、そんな記憶を一生覚えている必要は、まったくない。まさに、ゲームという「ワーク」を行っている短時間だけ記憶できれば、その後はすっかり忘れてしまっても良いような記憶であり、そのための能力なのだ。

ところが、私はこれが苦手だった。
私があるカードをめくり、その数字と同じカードを、他のプレイヤーが、ほんの少し前にめくった、という記憶ならある。しかし、それがどの位置であったのかが思い出せない。と言うか、(自然に)記憶できていないのである。
だから、私は「神経衰弱」が弱かったし、おのずと苦手意識を持ち、このゲームを嫌うようになった。
しかしまた、これは所詮「お遊び」だったから、さして重要な問題ではなかった。

ところが、小学校に入って、同様の問題が起こった。「漢字の書き取り」テストである。
平たく言うと、漢字を憶えるのが苦手だったのだ。

今でこそ私は、たくさん本を読んだおかげで語彙も豊富だし、しかも文章を書く場合にはパソコンを使うから、個々の「漢字」を正しく記憶していなくても、かなりの語彙を駆使することができる。漢字の「映像記憶」は曖昧であっても、語彙を「音」として知っていれば、いろんな漢字を駆使することができるのだ。

例えば、先日レビューを書いていて、ふと「渺渺(びょうびょう)たる」という形容詞が思い浮かび、これが適切だと思って使ったのだが、当然、私はこの言葉の「漢字」を記憶してなどはいなかった。
ただ、「音」として「びょうびょうたる」という言葉を記憶しており、この形容詞を意味をおおよそのところで知っていたから、「びょうびょうたる」と打ったあと漢字変換しようとしたのだが、それらしい語句に変換されない。それでネット検索したところ「渺渺たる」と出てきたので、これをコピペしただけなのだ。
だから、もしもこれが手書き原稿で、辞書さえ使えず、記憶だけで書けと言われたら、私はこの形容詞を、決して使えなかったということだ。

ともあれ、私は「漢字の書き取り」が苦手だった。これは、これまでにも何度も書いてきたことで、それほどのトラウマになっているということだ。

根が真面目な私は、翌日「漢字の書き取りテスト」があると言われると、前夜に出題範囲の漢字を、ノートに何度も繰り返して書き写した。それでなんとか記憶したつもりであったのだ。
一方、クラスメートの中には、そうした勉強などしてこず、テストの直前に、集中的に暗記する者がいた、一夜漬けならぬ、30分前漬け、である。

だが、その結果がどうであったかというと、私があれほど苦労し時間をかけたにもかかわらず、テスト結果としては、30分前漬けしたクラスメートに負けてしまったのだ。そして、そういうことが一再ならずあったので、私は、この「理不尽」に、とうてい納得がいかなかった。
「どうして、努力した者が報われないのか。要領のいいやつが、うまくやって褒められるのか」と腹が立って仕方がなかった。「努力は報われる」はずではなかったのかと、幼くして「根源的な疑問」をおぼえ、怒りを感じたのである。

だから、私は「暗記もの」が嫌いになった。はっきりと苦手意識を持つようになり、その一方で「頭というのは使うものであって、丸暗記なんて意味はない」と、そう考えるようになった。心理学で言うところの「合理化」であろう。

実際、私は、小学生時代は、かなり優秀な方だった。予習復習なんてことを一切しなくても、それなりの結果を出せたのである。
ところが、中学生になると、まず「記憶」しなければ、応用も何も、およそお話にならない学科が増えた。
「歴史」の「年号」などはその典型だが、例えば「数学」や「科学」も、公式や方程式や法則といった、いわば「決まりごと」を憶えないことには、問題の解きようがなかった。「英語」も同じで、「単語」を覚えないことにはお話にならないし、「文法」も覚えないわけにはいかない。英語圏の国に移住して、生活の中で英語を体得するのならばともかく、日本の学校授業の科目としての「英語」において「暗記なんて意味がない」などと言っていては、授業についていけなくなるのは当然。私の成績が見る見る下がっていったのは、必然の結果だったと言えるだろう。
そんなわけで、学生時代の私は、「勉強」が嫌いだったし、苦手でもあったのだ。

それが現在、読書を中心として「勉強」することが好きになったのは、ひとえに「記憶しなければならない」という枷が、無くなったからだ。
本をたくさん読んで、徐々に理解すれば、それでいい。そのうちに無理なく少しずつ必要な用語も記憶できるし、完全な記憶ではなくても、中身を理解してさえいれば、必要に応じてネット検索したりなどして不足部分や曖昧な部分を補強して、各種の知識を駆使することもできるからである。

そして、今や「記憶」の多くは、外部化されるようになった。
例えば、昔は、めぼしい電話番号はぜんぶ「記憶」していたが、今は誰もそんな努力はせず、スマホに登録して終わりだろう。それを「知的怠惰」だと責める人などいないはずだ。そんな時代になったのである。

だが、話を本書に戻すと、私の場合の「短期記憶」の弱さは、学業成績の低調さというかたちでマイナスにはなったものの、それでも「私には、短期記憶の才能がないだけで、物事を考える力ならある」という「自己理解」は、可能だった。
だから、私は「努力が報われない理不尽」という現実があっても、非行に走ることはなかった。少なくとも、自分の感じている「理不尽」が、何に由来するものなのかを「理解する能力」なら、あったからである。

ところが、この、より根本的な「理解能力」が劣っていた場合は、「理不尽」を合理化することができず、その人は、ずっと「理不尽」に取り巻かれ苛まれて、その苦しみの中で、ストレスを溜めて続けていかなければならなくなる。当然、それにも限度があるから、ついには「犯罪に走る」ということにもなるわけだ。

つまり、その人にとってのその犯罪は、「世間にはびこる理不尽」からの「自衛」でしかなく、それをしないでは生きられないから、それをしたまでなのだ。

だが、それが、「世間の人」には理解できない。
「そんなことをしなくても、他に方法はいくらでもあったはずだ」と簡単に言ってくれるが、そもそも「他の選択肢を見つける能力」が無ければ、それは「選択肢など無い」ということに他ならないのだ。

だが、多くの人は、自分の能力(程度)は「当たり前=普通」であり、特に努力などしなくても「みんなが備えているもの」だなどと、漠然と考えている。
「普通の人」には、その「当たり前の能力」を持たない者の苦しみが、どうしても理解できない。

「30分前漬け」で高得点を取れる人には、前夜必死に勉強してきて、それでも劣った点数しか取れなかった者の苦しみや悔しさがわからない。
6段の跳び箱を、最初から当たり前に跳べる者には、3段くらいですでに跳べない者の苦しみは、決してわからない。「なんで、あんなものが跳べないんだよ、鈍くさいなあ」というのが、正直な感想だろう。

だが、彼にだって「苦手なもの」はあるはずだ。
彼は、「体育」は得意でも、「算数」は苦手かもしれない。だから「僕が、算数が苦手なのと同じように、彼は体育が苦手なんだろうな」と考えれば良いようなものだが、人はなかなか、そのようには考えられない。

なぜなら、自分にできることは「できて当たり前。できない方がおかしい(努力不足、やる気がない)」というふうに考えがちだからであり、その一方、自分ができないことについては「才能がない(努力ややる気の問題ではない)」などと、都合よく考えてしまうものだからだ。
人は、自分を「基準」にして、物事(の難易度)を図りがちなのである。

そして、こういうことは、私自身にも大いにある。決して、他人事ではないのだ。

例えば、ネット右翼などを見て「なんでこいつらは、自画自賛の自国讃美が恥ずかしくないのか。客観的に見たら、どこの国の人だって、自分の国を愛しており、その意味で、簡単に〝わが国が世界一すばらしい〟なんて言えないことなど、分かりきった話なのに」とか、宗教信仰者を見て「こいつらは、本当にバカだな。原始人じゃあるまいし、今どき本気で神や仏の実在を信じるなんて、頭がどうかしている。それが、現実逃避の自己欺瞞だというくらいのこと、中学生にでもなれば分かりそうなことなのに」と思ってしまう。

「それくらいのことは、学歴や学識なんか無くたって、常識があればわかるはずだ(難しい話ではないはずだ)」と、そう思うわけだが、しかし、彼らの見ている世界が、先に紹介した『Rey複雑図形の模写』の図のようなものであったとしたら、一一つまり、認知能力の弱さによる「認知の歪み」があるのだとしたら、彼らに「日本が世界一輝いている」ように見えたり、「日常のそこここに、神仏の姿を幻視する」としても、何も不思議はない、ということになるのである。

私が苛立つのは、基本的には「これくらいのこと、普通はわかるだろう」と思うからだ。そして、その時に基準となっているのは、「私」自身である。
「高卒の私にわかるんだから、立派な学歴をお持ちの皆さんに、この程度の常識論が、わからないはずがない。わからないのは、あなた方が、自分を甘やかしており、知的に横着怠惰だからだ」と、そう感じているから、腹も立つ。

この時の私は、「上から目線で物を言っている」のではなく、「私ですらわかるんだから」わからない方がおかしいと、むしろ「謙虚」に「下から」要求しているのだ。「あなた方にも、その能力があるのに、当たり前の努力を怠っている」と、そう考えているのである。

だが、本書が教えてくれたのは、外見上は「普通」に見えても、じつのところ「認知の困難」や「歪み」を抱えており、それゆえに「道を誤ってしまう」人というのが、私たちが思う以上に、少なからずいる、という事実である。

だとすれば私も、「私がわかるんだから、これくらいは誰にだってわかるはずだ」という前提で「他者」を見るのではなく、「ああ、この人は、私に暗記能力が無かったのと同じように、現実をそのまま見る能力が無いんだな」と、そう理解し、そうした理解を持って「寛容に」接するべきなのではなかったか。

これは、理屈では理解できても、感情としては、たぶん相当に難しいことだろう。

だが、この事実を教えられ、「気づき」を与えられた以上、私はもはや、知らなかったふりをして、これまでどおりに振る舞うことは許されないはずだ。「なんで、わかっていながら、是正できないんだよ」ということになるからである。

そして、この問題は、単に「認知的に困難な人たちがいるから、それを理解して接しなければならない」などという「上から目線」だけで済まされる話ではないというのも、もはや明らかであろう。
なぜなら、彼らは「私たちの似姿」だからである。

そして、私にこのように指摘されるまで、本書の提示した問題が「劣った人々についての話」だと思い込んでいる読者がいたとしたら、その人こそが「認知能力に劣った人」なのだと、そう自覚すべきなのだ。

本書が、提起している問題とは、それほどに射程の広く深いものなのである。


(2023年6月28日)

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