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島田裕巳 『捨てられる宗教 葬式・ 墓・ 戒名を捨てた 日本人の末路』 : ここまで来ている 〈葬礼意識〉

書評:島田裕巳『捨てられる宗教 葬式・墓・戒名を捨てた日本人の末路』(SB新書)

数ヶ月前、会社の後輩が法要のことで嘆いていたので、助言してあげた。
彼岸法要の開催について、寺から連絡があったのだが、その日は仕事で参加できないと返事したところ、住職から「法要代だけ支払って」欲しいと言われ、それが5万円だかなんだかするというのだ。

私は「宗教」を捨てた人間だから、もちろんそういう法要は一切しないし、元創価学会員だから、定例法要の連絡をしてくる寺などもないので、そういうことは詳しくないのだが、要は、寺として檀家の祖霊について、全部まとめての彼岸法要をするということらしい。だから、現存の子孫が法要に参加しようがしまいが、墓に納められて祖先の霊に対しては追善供養をするのだから、その「代金」を支払ってほしい、ということらしいのだ。

当然、私は、そんな「やらずぶったくり」みたいなことに「金を払う必要はない」と言った。
しかし、その後輩が寺の住職に対して「うちは追善供養に含めてもらわなくても結構ですから、お支払いはできません」などと強く出られるタイプではないことはわかっていたので「その日、私は参加できないし、うちはもう家で家族だけで法事をすることにしましたから、そちらでの法要は結構です、とでも言って断ったらいい」と助言した。
すると数日後、後輩から「先輩に言われたとおりに言ったら、半分でも良いからと言うので、支払うことにした」との報告があって、私はいささか呆れてしまった。交渉次第で半額か、と。

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そこで私は、その後輩に「供養なんてものは、そもそも気持ちが大事なんだから、坊さんにやってもらわなければできないというようなことではない。それに今の坊主というのは、たいがいは世襲で、特別に優れた見識や法力なんてものがあるわけでもない。袈裟を脱いだら、ただの人なんだから、そんなものを食わせるためだけに、金を支払う必要などない」と言うと、後輩は「でも、寺には先祖代々の墓もあるし、これからも世話にならないといけませんから、そう強くは出られません」と言うので、私は「今どきは、墓自体を作らない人も多いそうだし、墓を改葬して縮小する人も多いそうだ。うちも昔、創価学会員だった頃に、兵庫の山の奥に作られた霊園に墓を買ったし、父の遺骨はそこへ納めたけど、俺は創価学会も辞めたし、それ以来、墓参りなんかしてないから、もうその墓もいらないと思っている。まあ、父には悪いけど、うちの仏壇に手を合わせているから、それで納得してくれるだろう。それに、もう放ったらかしにした墓は、すでに整理されて無くなってるかもしれないしな。永代供養と言っても、長い間お参りもないような墓は、一定の期間が過ぎたら潰されて、遺骨は合葬になるそうだから。所詮、骨なんて、物なんだよ。だから気にすることはない。なんなら、墓を整理して、遺骨の入った骨壺は押入れの奥にでもしまっておけばいいし、邪魔なら、こっそり庭でも河原にでも散骨したらいい」などと説明してあげた。

ここまで言ったところで、この後輩が、私の言ったことを、そのまま実行することなどできないというのは、もちろんわかってはいるが、こういう人間もいるんだよ、こういう現実もあるんだよ、ということを教えてあげれば、彼を呪縛している「宗教的慣習」を、少しは緩めてあげることができると考えたのだ。

ともあれ、私の個人的見解による助言だけでは「あの先輩は、特別に過激な人だからなあ…」と思われるのもわかっていたから、その手の本を紹介してやろうと考え、思いついたのが島田裕巳の本であった。

以前に『宗教消滅』を読んだけれど、「華美な葬式などいらないし、減ってきている」という趣旨の本を出していることも知っていたので、その手の本を後輩にプレゼントしてやれば、私の助言の説得力も増すだろうと考えて、本書を「ブックオフオンライン」で安く手に入れ、一読し(レビューを書い)た後に、プレゼントすることにしたのである。

ちなみに、本来であれば、本書よりも『葬式は、要らない』や『0葬』『葬式格差』の方がよかったのかも知れないが、たまたま目についたのが、本書であったため、本書を購ったのである。

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本書は、サブタイトル「葬式・墓・戒名を捨てた日本人の末路」にあるように「葬式・墓・戒名」といった、葬送や先祖供養をめぐる慣習の、近年における「合理的な変化縮小」の事例が紹介されるとともに、メインタイトルである『捨てられる宗教』の現実が、分析的に紹介されている。
しかし、後者の方については、旧著『宗教消滅』を若干補足するような内容だったので、個人的には『「葬式・墓・戒名」といった、葬送や供養をめぐる慣習の、近年における「合理的な変化縮小」の事例』の方が、実用的でもあり、断然面白かった。

無論、「葬式なんて要らない」とか「戒名に金を払うなんて、逆に信仰冒涜だ」といったことなら、ずいぶん前から私自身が主張してきたことなので、特に目新しい話ではなかったのだが、死者が出た場合、葬儀をせずに、直接火葬場へ持っていく「直葬」において、焼いた後の「遺骨」を「引き取らなくても良い」場合がある、というのは初めて知ったので、驚きだった。さすがの私も、「遺骨」は引き取るものだし、引き取らされるものだろうと思い込んでいたのだ。
島田も注記しているように、それが全国どこでも容易に可能だということではないようだが、遺骨の引き取りは、絶対の義務ではなかったのである。

『 0葬とは、火葬したとき遺骨は火葬場に引き取ってもらい、持ち帰らないというやり方のことをさす。これなら、墓を造る必要はない。散骨による自然葬の必要さえない。もっとも、0葬が可能なのは、もともと遺骨を引き取る量が少ない西日本の火葬場である。東日本では、かなり難しい。これについて詳しくは、拙著『葬式格差』(幻冬舎新書)を参照していただきたい。
 直葬で0葬にすれば、葬式の費用は限りなく0に近くなる。少なくとも、葬式には金をかけない。そうした時代になっていることは間違いない。』(P43)

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こうした「合理主義的葬礼観」に対しては、仏教寺院は無論のこと、宗教関係者やそうではない人からでも、強い反発が寄せられることはあるだろう。当然のことだが、「葬送儀礼」というのは「心のこもった懇切なもの」であるべきだ。

だが、私たちがここで反省しなくてはならないのは、葬送が華美になった原因の一つは、私たちの中にある「見栄」であり「世間体」であって、決して「故人への思い」そのものではなかったのではないか、ということである。

また、忘れてはならないのは、華美な葬送ができなくなったのは、端的に人々が経済的に貧しくなったからに他ならない。もはや「身の丈に合わない見栄」に、金を遣っている余裕など無くなってきたというのが、現に「生きている私たち」の現実なのである。

だから『葬式には金をかけない』というのは、単なる「吝嗇(ケチ)」ではない、ということだけは是非とも押さえておかなくてはならない。故人や先祖を供養するために、生者が金銭的に苦労するような「見栄」や「無理」を、まともな故人や先祖ならば、喜ぶはずもないのである。

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