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【短編】『名前というジレンマ』

名前というジレンマ


 人間はこれまで様々なものに名前を与えてきた。車のエンジンの名前から、化学現象の呼び名、古来に存在した恐竜の名前まで。そして名前はものに新たな価値を与えた。反対にいまだに名前のないものは価値がないということになる。なぜ人間は対象に名前をつけるのだろうか?そしてなぜ外部のものだけでなく自分の名前さえ持つのだろうか?

 一般的に名前をつけることには、その存在を認知し個人が現実を捉える上でより広い視野を持つことを可能とする側面があるが、一方で共通認識を持つことで他人とのコミュニケーションが円滑に進むという側面もある。もし仮に名前が存在しない世界があったとするならば、人間はどのようにコミュニケーションをとるのだろう。言語の発達によって人間同士のコミュニケーションはよりラクになった。しかしそのラクさによってコミュニケーションの本質が失われていっているように感じられることもしばしばある。コミュニケーションとは本来自分と相手との間で意思疎通をすることが目的で行われる行為である。より具体化すると、心と心が通じ合うことで自己から解放されることが真の目的である。しかし、それは不可能なことなのである。そこでその穴をできる限り埋めるべく、言語が誕生した。

 昨今のコミュニケーションでは、最終目標が自分の言葉を明確に伝えること、相手の言葉を明確に理解することになりがちである。言葉を介することで完璧に相手の気持ちを理解できると思い込んでいるのである。しかし実のところ言葉はそこまで万能ではない。それは今ある社会問題が証明してくれる。むしろ言葉が存在しない方が相手の気持ちを察することができるのではないだろうか?本来「わからない」ことが当たり前だったはずが、言語の誕生によって「わかる」ことが当たり前になりつつある。情報に無駄に価値を見出す今の社会はさらにそれを加速させる。

 その反面、言語というものは芸術的である。言語を使うことは一種の才能であり能力であり一つの自己表現方法でもある。画家が絵を描くことで自己を表現するように、また映画監督がストーリーと映像を使って自己を表現するように、人々も言語を使って自己を表現するのだ。だからこそ皆自分にはセンスがないと芸術の道を諦める人が多いが、そもそも我々は言語を巧みに使える芸術的な生き物だということを思い出すべきである。ものに名前を与え、人間独自の視点でそれを見ては、また別の名前のものと比較をして、さらに深い領域の現実を捉えていくのだ。しかし、我々はものに名前を与えるだけでなく不思議なことに自分自身にもそれが存在する。

 なぜ人間は外部のものだけでなく自分の名前さえ持つのだろうか?それは、対象に価値を見出すのと同様に自分自身にも価値を見出すためではないだろうか?確かに「実用性」を考えれば、お互いに名前を呼び合うために自分の名前を持つことは必要不可欠であるが、むしろ実用性の領域を遥かに超えて、自分だけを表す言葉という「独自性」や「主体性」に重きを置くことの方が名前を持つ意味があるのではないだろうか?ここで言う独自性とは通常の固有名詞の持つ「実用性」の側面以上にこだわりを求めた側面のことである。

 人名以外で独自性や主体性を目的に名前を持つものはあるのだろうか?例えばぬいぐるみや、アニメキャラクター、金魚などがあげられるが、これらは人間と同じく独自性と主体性を持たせる目的で特定の名前をつけているように思えるが、実は主体性には欠けている。ぬいぐるみもアニメキャラクターも金魚も自分の名前を呼ばれて、自己を確立するわけではない。それはトイストーリーやニモの世界だけである。逆に特定のペットや動物に対してはむしろ独自性のみを求めて名前を呼ぶが、返って向こうは名前を呼ばれることに主体性を感じるのである。

 自分は何者なのかと問われた時に、瞬時に答えるのが名前であるように、名前というのは自分と切っても切り離せないものである。おそらく名前のない者、あるいは何らかの理由で名前を失った者は自己認識に困難を要するであろう。芸能人や役者などもまた同様である。元々の自分の名前に加えて別で名前を持つためだ。自分や家族が認める元の自分の名前があるのに対して、社会が認める別の名前もあるという状況下で、自分とは誰だという自己認識が二方で揺れ動く。つまりは自分の名前を一時は失うため自己認識に苦難する者も出てくることが当然である。

 ここまで名前の持つ特性について話してきたが、これだけ見ても名前がもたらす人間への影響は絶大であり、名前によって人類が存続していると言っても過言ではないほどである。しかし、その名前が存在することによって失うものも多い。この世界には言葉や名前では表現できないことが数多とあるのだ。人類は言語の発明と同時に名前を使うようになったが、今もなお名前の誕生を全面的に肯定することはできない。自己から解放されるために名前を使い、しかしかえってその名前によって自分で自分を縛るのが人間である。したがって名前を持つかぎり自己からは解放されないのだ。人間とはつくづく可哀想な生き物である。


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