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「本歌取り」は元ネタを尊重しないといけない件

▼前号では、「令和」の出典には、〈人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ〉という意味は、一言も含まれていないことを確かめた。

■「令」と「和」の出典の意味 令=〈佳き〉、和=〈風はやわらか〉

■「令和」の意味 〈人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ〉

上の二つの意味をよみくらべれば、小学生の高学年でも理解できる話だ。総理大臣も、万葉集の専門家も、この漢字二文字の出典の文脈から離れて、独創的な解釈に解釈を重ねている。

▼そして同時に、そのことにわが国の人々はほとんど違和感を覚えていないことも確かめた。

この現象の、文化的な背景は何だろうか。

▼和歌の世界に「本歌(ほんか)取(ど)り」という伝統がある。

平凡社の『世界大百科事典』から当該項目を引用しよう。適宜改行。

〈古歌の1句または2句をとり入れ、表現効果の重層化を意図する修辞法。そのとられた古歌を本歌という。

長い歴史のうちで自然に成長してきた技巧で、たとえば《古今和歌集》巻二の紀貫之の歌

三輪山をしかも隠すか春霞人に知られぬ花や咲くらむ〉

は、《万葉集》巻一の額田王の歌

三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなもかくさふべしや〉

を本歌にしている。〉

▼「本歌取り」が大流行したのは『新古今和歌集』の時代だった。新古今に至って、日本の和歌の技巧は洗練を極める。それまでは、本歌取りは「盗古歌(こかをとる)」と言って嫌う向きもあったそうだ。今の言葉でいえば「パクリ」だろう。ほめられたものではないと思われていたのだが、のちに価値観が変わるわけだ。

本歌取りがパクリではないのは、流儀を守るからだ。

▼平凡社の百科事典には、本歌取りについての基礎文献が二つ紹介されている。藤原定家は次のように解説している。

〈春の歌をば、秋、冬などによみかへ、恋の歌などをば雑や季の歌などにて、しかもその歌をとれるよと、きこゆるやうによみなすべきにて候。本歌の詞をあまりにおほくとる事はあるまじき事にて候〉

▼もうひとつの基礎文献は、鎌倉時代最大の歌学書である『八雲御抄(やくもごしょう)』。味わい深い解釈が残されている。ちなみに、この『八雲御抄』の編纂者は順徳天皇である。

本歌取りには2種類あるという。

〈一には詞をとりて心をかへ、一には心ながらとりて物をかへたるもあり。詞をとりて風情をかへたるはよし、風情をとることは最も見苦し(中略)わざとめかしく耳にたちて、これをとりたるばかりを栓にて、わが心も詞もなき、返す返す此道の魔なり。最もこのむべからず。

▼世界大百科事典ではこの『八雲御抄』を要約していわく、〈すなわち、本歌取りを単なる技巧として考えることはできず、長い歴史に鍛えられた正統の言葉への信頼と尊重という文学史の基本的事象として理解すべきであろう。〉(奥村恒哉)

〈長い歴史に鍛えられた正統の言葉への信頼と尊重〉。もっと簡単に言うと、「元ネタを敬う」ことが、本歌取りを成り立たせる必要条件、ということだ。そうでなければ、「此道(和歌の道)の魔」である、とまで断じている。

▼「本歌取り」は、カタカナでいえば「オマージュ」や「トリビュート」といわれる手法の一つであり、文学でも、映画でも、絵画でも、演劇でも、すべての芸術作品で行われている表現技法だ。

元号づくりも、和歌の道とは直接の関係はないが、元ネタのオマージュという観点からみれば、似ていなくもない。

▼さて、この「本歌取り」という補助線を引いたうえで考えると、文化の文脈で気になるのは、「令和」を発表する際、発表する側に、元ネタへの「信頼」と「尊重」はあったのか、というところだ。

安倍総理は、令和の出典である『万葉集』の序文が、中国の出典をもとに書かれていることを事前に知っていたにもかかわらず、触れなかった。出典は『万葉集』単独説で固まった。

▼この点に関して、2019年4月2日付の各紙のなかで、最も見事な記事は読売新聞のコラム「編集手帳」だった。まず冒頭で、

〈仮名が生まれたのは10世紀頃という。したがってその200年ほど前に編まれた日本最古の和歌集「万葉集」は漢字ばかりで埋まった〉

そして「令和」の出典について、〈梅の歌32首を載せるにあたり、万葉集の中に添えられた序文の一節である。和語が背伸びをして文化の芽を出そうとしているとき、先輩の漢語が懐深く見守っているように思えなくもない。そこから2字を引き、新たな元号が「令和」に決まった。国書に由来する初めての元号といいながら、国際性も宿している〉と評している。

〈和語が背伸びをして文化の芽を出そうとしているとき、先輩の漢語が懐深く見守っている〉とは風情(ふぜい)のある表現だ。筆者もそのとおりだと思う。

この「文化の芽」と表現された『万葉集』の時代については、稿を改める。

▼それはさておき、これは読売のコラム担当者による解釈であり、安倍総理の解釈とは異なる。

たしかに「令和」は、読売記者の風情ある解釈によれば、〈国書に由来する初めての元号といいながら、国際性も宿している〉のだが、先に書いたとおり、当の安倍総理は国際性を有する選択肢を意図的に捨てた。

もっとも、これまでの安倍総理の行動原理に照らすと、おそらくは元ネタに「言及していない」だけで、「尊重していない」とは言っていない、という論理だろう。

もしも「出典は『万葉集』並びに中国の古典」と併記して発表していれば、令和は国際性を宿し、「世界の中の日本」の役割を示すメッセージたりえただろう。安倍総理はもっぱら国内事情の文脈と、「一億総活躍社会」の文脈で「令和」の意味を語った。

安倍総理の内向き志向は、千載一遇のチャンスに国際性をアピールするだけの国力と余裕が、わが国から失われていることの証明なのかもしれない。(つづく)

(2019年5月6日)

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