不十分な世界の私―哲学断章―〔23〕

 人は、誰もが持ちうる欲望、他人の欲望でもありうる欲望を、「自分自身の欲望として」欲望する。それが他人にとっての欲望の対象でもありうるから、それは誰においても欲望の対象でありうるのであり、つまりそれは「自分自身においても欲望の対象である」ことができるものとして、その対象に対する欲望が、他者に、そしてまた一般的に、「欲望として承認されうる欲望」となる。
 『欲望』とは、まず「欲望というもの」があって、その欲望が対象を見つけ出す、というのではない。『欲望』とは、「欲望する対象との関係」である。対象があって、その対象との関係が「欲望として喚起される」ことになるものなのだ。ゆえに『欲望』とは、何ら生来的なものでも本能的なものでもなく、「意識的な意識」であり、「社会的な関係」なのである。その関係において欲望されるのは、他人がその対象と関係しうることに基づいて、自分もまたそのように対象と関係しうるものとして欲望される欲望なのである。

 一般に人が欲望する対象とは、「すでに誰かに欲望されている対象」である。それが「欲望することができる対象」だから、人は「それ」を欲望する。
 また欲望は、「その対象を指定する」ことになる。たとえば、夜店のヒヨコが可愛くて、買って帰ってきて大事に育てていたら、いつしかけたたましく鳴きわめくニワトリになってしまって困惑した、などという話はザラにある。もちろん、ヒヨコが育てばニワトリになるという事実あるいは常識は、誰でも知っていることだろう。しかし、「その欲望がそもそも求めていた」のは可愛いヒヨコなのであり、「その欲望の対象として指定されていた」のは、そのヒヨコの可愛らしさなのである。ヒヨコが育ってニワトリになるという生命運動の摂理を、「その欲望は求めていたわけではない」のだ。「その欲望の本心」は、実のところいつまでもずっと可愛いヒヨコのままでいて欲しいのである。なぜなら「そのように指定された欲望」をもって、その欲望は可愛いヒヨコを欲望したのだから。
 また、夏になったら大輪のヒマワリの花が咲くことを期待して、種を買って植えてみたら、早々に枯れてしまった。「その欲望が買った」のは、そもそもただ単に「ヒマワリの種という現物」ではなく、「夏になったら咲くはずだった、大輪のヒマワリの花に対する『期待』」なのである。そしてその欲望が対象として指定していたのは、ヒマワリの種を買った時点ですでに先取りされていた、大輪のヒマワリの花に対する『期待』である。それがもはや「期待外れ」に終わってしまえば、欲望は、一体自分は何を買ったのであったかわからなくなってしまう。現に買ったのはたしかにヒマワリの種だが、「指定された欲望の対象」であった大輪のヒマワリの花を、結果として獲得できなかった以上、彼は「何も買っていなかった」のに等しく、むしろかえって「失ってさえいる」のだとも言える。

 自分自身において何かが失われてしまった、あるいは何かあるはずのものが不在だと感じられるとき、人は「その喪失感あるいは不在感を所有している」のだ、とも考えることができる。つまり喪失ないし不在とは、「そこにないものとして、そこにある」のであり、「所有していないものとして、所有されているもの」だ、ということになる。
 また、人が「自分には何かが欠けている」というような感じを抱くとき、むしろ人はその、欠けている「感じを持っている、つまり所有している」と言えないだろうか?あるいは、人が「不満を抱く」とき、そこには「満足が欠けている」のではなく、むしろ「不満を所有している」のだ、と言えないだろうか?だから彼がもし「満足する」ことによって、彼の「所有していた不満」が解消されてしまったとしたら、むしろ彼は何かしら「失ってさえいる」のではないのだろうか?
 不満を失うことさえも損失であると考えることができるようになるとしたら、人はより一層「できるだけ多く獲得しようする」ことになるのではないか?いやむしろ「失うことさえも所有できる」と思えるのでないか?失敗談が武勇伝に変わるように、喪失=不在でさえ、その人の自我を表現できるものとなるのではないだろうか?

〈つづく〉

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