可能なるコモンウェルス〈68〉

 アメリカ植民者たちは、自分自身の生活を維持し発展させ、その生活領域を保護し拡大していくことのために行使できる「《力と自由》を、それぞれ独自に所有し、かつそれぞれ独自に運用することができる」ということを、入植の段階においてあらかじめ知っていた。なぜなら彼らは「そのため」にこそ、わざわざ遠くこの地に赴くことを決断したのだから。
 しかしこのような「力と自由」は、彼らの誰一人として、それを「他の誰かから与えられた」わけではなく、また「他の誰かから奪い取った」ものでもない。彼らは、「自分たちはそもそも、あらかじめそのような力と自由を携えて、この新たな生活の土地アメリカに降り立とうとしているのだ」ということを信じて疑わなかった。いやむしろ、「それだけを携えて、今まさにこの未開の土地に足を踏み入れようとしているのだ」とさえ考えていた。そのことを「証拠づけている」のは他でもない、今まさに辿り着かんとするこの「誰にも所有されておらず、かつ誰からも妨げられていない、未踏未開の新世界アメリカそのもの」だった。そこには何ら「現存=既存のコモンウェルス=権力」は存在しない。
 だからアメリカ植民者たちは、その一人一人がいわば「それぞれに独立した権力=コモンウェルス」を携えた状態で、その新世界アメリカの地に降り立つことができるものと考えられた。つまり彼ら一人一人がそもそもから、「それぞれ独自の建国の権利」を携えて、新大陸アメリカの大地に足を踏み入れたのであった。
 しかしそのことが逆に、彼らに「ある恐れ」を抱かせもしていたわけなのである。

「…彼らは明らかに、いわゆる自然状態、境界線のない人跡未踏の荒野、法に拘束されていない人間の無制限のイニシアティヴを恐れていた。…」(※1)
 彼らアメリカ新大陸への移民たちは、もはやかつてのように「一つの権力=コモンウェルスの下にある国民」ではない。彼ら一人一人がいわば「独立した政治体=コモンウェルス」であり、しかし同時にいわばそれは「未だ領土のない国家」であり、すなわち「国境のない国家」なのでもあった。
 言われるように彼ら自身のそれぞれ独自の権力=コモンウェルスは「そのときすでにあった」のだとしても、「他のコモンウェルス=権力に対する主権」は、未だそこには見出しえなかった。逆に言えば、そのそれぞれが有する「権力=コモンウェルス」を、自身の思うがまま「無際限に拡大することは、未だ他の何者にも拘束=制限されていない」ということであり、つまりは全くもって「法外な世界」がそこにあったわけであり、彼ら自身もそれに対する「法外な自由」をふんだんに所有していたわけである。「自分自身の世界を思う存分作り出すことができる力と自由」が、まさしく自分らの目の前に「無限に広がっている」かのように、きっと彼らの誰もが思っていたのに違いない。
 しかし、「それぞれ一人一人が独自の力と自由を所有し、かつそれを行使することができる」というのは、それがそれぞれ独自に「一方的に発現されうるもの」だということを意味するのでもある。その発現の「可能性」は、境界を持たないがゆえに「他の力と自由の存在」を無視することが出来、かつ境界を越えて発現することができるがゆえに「他の力と自由を無力化する」ことさえできるものともなりうる「可能性を有する」ものでもある。「こちらの力と自由」がそうである分にはまだよい、しかし「あちらの力と自由」もまた同時にそうであることも、けっして無視することも斥けることもできない事実なのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アレント「革命について」志水速雄訳

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?