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映画「クライ・マッチョ」映画に愛されし者の痛ましく美しき映画への愛の 歌/映画の子供にして、母であり、父であるクリント・イーストウッド

1:映画、その愛を巡る物語、一方的で残忍なまでの冷淡さ、あるいは、映画の奴隷の刻印

どれほどの数え切れない多くの人々が映画を愛し、映画にその総てを捧げて来たのだろうか?

その人生の総てを映画に捧げた無数の有名、無名の者たち。その人間たちの光と闇と富と飢えと幸福と不幸と喜劇と悲劇と皮と肉と骨と心臓と血と涙と歓びと哀しみと痛みと震えと、そして、その全記憶と深き魂。その人間の全てが映画の祭壇に供儀の如く惜しげもなく捧げられて来た。しかし、映画はその全身全霊の献身に見合うだけのものを、映画を愛する者たちへもたらしただろうか? その全ての愛を受けるだけ受け入れ与えられるだけ与えられ、全てを飲み込んだその後に、映画は、映画を愛した者たちが映画を愛したと同じように、映画を愛した者たちを愛しただろうか?

ささやかな幾つかの贈り物を、映画はその者たちへもたらしたのかもしれない。恩寵とも呼ぶべき、映画の朽ちることのないひかり輝く不滅の贈り物。その映画を愛する者たちの辿り着くことできない深く遠い場所に、焼き付けられる映像の閃きとしての映画の記憶。一瞬にして永遠の時間が凝固したかのような、甘美で痛切な透明なる時間の壊れ物としての映画の記憶。季節の中を横断する風に吹かれ、木の葉のように渦を巻き漂う言葉の切れ端としての映画の記憶。

映画を愛する者たちに贈られるその光彩と音響で形作られた映画の記憶さえあれば、人は生きることができる。汚泥で象られた腐敗した崩れ行く魔都の瓦礫の濁流の中で、その明けることのない漆黒の闇の中で、生存するものたちの全てが息を潜め沈黙する灰色の世界の中で、夢を見ることができる。

映画の記憶。それさえあれば、人は目を開いたまま眠り、目を閉じまま覚醒することができる。つまり、人は映画の記憶を携えてさえいれば、嘘と真実の混濁を潜り抜け、その生を全うすることができる。人間が人間として生き延びるために必要不可欠なものとしての映画の記憶。

しかし、映画は、場合によっては、何ひとつ、その見返りを人々に与えることなく、深い失望しか人に与えなかったこともあるだろう。それも、悪びれることなく、平然として。あたかも、愛することなく愛されることが、当然のことであるかのように。映画を愛する者たちの拭うことさえできなかった溢れ出る涙の乾き切った後、吐き出すことしかできないぶちまけられた血の塊りを、前にしても。

映画は人間を必ずしも愛してはいない。一方的で残忍なまでの冷淡さを示すエゴイスティックなその顔。まるで、自身が沈黙する神であるかのように振る舞う無慈悲なる映画。その傍らで、どれほどその頬を叩かれても、どれほど酷い裏切りをされても、どれほど苛烈な罵倒と嘲笑を浴びせかけられても、映画を愛し続けることしかできない者たちの、その愚かさとその見返りを求めることのない無上の愛。

その愚かさと愛を美しいなどと形容し賞賛してはいけない。その愚かさと愛は、その者たちが映画の奴隷であることの証であり、その身体に刻み込まれた刻印なのだから。そして、わたしもまたその奴隷のひとりであることをここに告白しなければならない。わたしの体には映画の奴隷の番号が刻まれ印されている。決して消し去ることの出来ない映画の奴隷の刻印。わたしは映画がなければ生きてゆくことができない。わたしは映画の奴隷なのだ。

2:クリント・イーストウッド、映画に愛され映画を愛した者、あるいは、映画の子供であり、母であり、父である者

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〈映画に愛された者たち〉のひとり、クリント・イーストウッド。

映画に愛され映画を愛し映画によって生まれ出た者、クリント・イーストウッド。クリント・イーストウッドは例外的存在として存在する〈映画に愛された者たち〉のひとりだ。その傍若無人な神である映画が限られた者たちを指名し、その者たちを愛する。映画に愛された者。無数の映画を愛する者たち、その絶え間ない献身と愛を蹴散らして、映画の神々に選ばれし者、クリント・イーストウッド。

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クリント・イーストウッドは、映画に愛され、映画を愛し、映画から誕生し、映画を産み育てた、映画の子供であり、母であり、父であり、そして、その守護者である。

クリント・イーストウッドとは、映画が映画として生き延びるために、映画に選ばれた、映画の嫡子にして家長なのだ。

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3:映画「クライ・マッチョ(Cry Macho)」、 総てが収まるべき所へ収まる御伽噺のようなストーリー、あるいは、極上のスイーツのような幻影

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映画「クライ マッチョ(Cry Macho)」。製作2021年。2020年の後半にニューメキシコ州でクランクイン。監督、製作、主演、クリント・イーストウッド。1930年5月31日生まれ。現在91歳。原作「クライ・マッチョ」(N・リチャード・ナッシュ1976年)。脚本ニック・シェンク(「グラン・トリノ」、「運び屋」の脚本担当)。

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御伽噺のようなストーリー。わかりやすい物語とわかりやすい登場人物たち。わかりやすい悪役とわかりやすい味方。弱い敵と強い味方。わかりやすいシンプルな裏と表。舞台は1970年代後半のアメリカとメキシコ。地平線の見える褐色の荒野。その中の道を走る古ぼけた車。カウボーイ・ハット。調教前の野生の馬の躍動。宿場町のような佇まいの小さなメキシコの町。その中の小さなレストラン。小屋のような小さな教会。子供たちと馬たちと、そして、ひとりの女性。その失われた神の加護と父なき子供たちと夫なき女。

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物語が幾つか反転する。しかし、物語は逸脱することなく、すべては収まるべき所へ収まる。その結末の奇跡的な歯切れの良さ。溜め息の洩れそうになるラスト・シーン。まるで、極上のスイーツのように甘く、最高の蒸留酒のように切なく、シエスタに見る夢のようでもあり、大いなる幻影のようでもある。

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でも、この映画を観た人によってはその呆気なさにがっかりした人もいるのかもしれない。解きほぐすことの出来ない運命の糸の茫漠とした絡み合いとしての現実。だが、クリント・イーストウッドはそうしなかった。彼はこの映画を、現実を抉り出すものとして作らなかった。そのことを以てして、この映画を無意味な非現実的なものとして現実に拘泥する人たちには、残念ながら、この映画の素晴らしさを味わうことはできない。意味と現実を見出すために、人は時に、その両方を忘れなければならない。空白にこそ意味が宿り、虚構にこそ現実(Real)が出現するのだから。

この映画は、ひとつの御伽噺であり、ひとつの幻影なのだ。
映画館の闇の中で観る、スクリーンの中の映画という夢。
映像というフィルム製の物質が現実の中に穿った、非現実的な空白。

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4:クリント・イーストウッドの映画、痛ましく、そして、美しい愛の歌、あるいは、映画に愛された者の宿命

クリント・イーストウッドが首を少し垂れ背中を曲げて荒地の道をよろよろと歩く。瞳の奥に小さな火を灯しながらも、その顔と手には深い皺が刻まれている。その弱々しい姿に思わず目を逸らしたくなるかもしれない。かつての猛々しいクリント・イーストウッドの姿をその記憶に鮮明に留めている人なら尚更。それでも、クリント・イーストウッドは躊躇うことなくその弱さを曝け出す。よろよろ、よろよろと。クライ マッチョ(Cry Macho)。

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クリント・イーストウッドは、その身体が炎に包まれ燃え尽き灰となり崩れ落ちるまで、その姿をスクリーンの中で見せつける。弱かろうが醜くかろうが老いていようが。誰もがその痛ましさに目を背けようが。人の生の形を映画の光と影で描き続けてきたクリント・イーストウッドは、その力の限りを尽し余すことなく隠すことなく、その存在が潰えるまで、その姿の全部をスクリーンに描き出す。映画に愛された者の宿命として、そして、映画を愛した者の宿命として。

クリント・イーストウッドは映画を信じている。ひとかけらの疑いもなく。
クリント・イーストウッドは映画を愛している。あらゆるものを投げ出し。

そこに、エゴイスティックで無慈悲な映画が、なぜ、クリント・イーストウッドを愛したのか? その理由が存在している。映画はクリント・イーストウッドのその愛に溺れてしまったのだ。映画がクリント・イーストウッドにその裸の心と身を捧げることは愛の証なのだ。

クリント・イーストウッドの映画が、映画への愛の歌だとするのであれば、それを美しいと言わずに何と言えよう。クリント・イーストウッドの映画、それは、痛ましく、そして、美しい愛の歌。

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