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内的な光の写真/森山大道「写真とは記憶である」/世界は内的な光を浴び、レンズによってその風景と光景が結像され物質化することになる。/写真についての短いメモ書き(ver.02/07/2022)

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写真についての短いメモ書き(ver.02/07/2022)/森山大道の写真について

目を閉じる。記憶の中で光が散乱する。目を閉じた内部の世界に記憶の光が満ち溢れる。その内的な光を浴びて輝くその風景/光景を記録し物質化して、目を開いてその風景/光景を眺めることを欲望する。記憶の中の外部の世界。内的な光を受けながら内部のものとして記憶として、内部に封じ込められた外部の世界。その風景/光景を内部から取り出し、再び、外部に持ち出すこと

森山大道の写真がそこに存在している。

No.1:森山大道の〈写真/写真術〉が如何なるものであるのか、そのことを語るためには二つの事柄を明らかにしておかなければならない。/はじめに〈写真/写真術〉について

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森山大道の写真/写真術が如何なるものであるのか、そのことを語るためには二つの事柄を明らかにしておかなければならない。そのひとつは〈写真/写真術〉について。そして、もうひとつは〈内的な光/外的な光〉について。

はじめに〈写真/写真術〉について

現在という時間を永遠の一瞬として切り取り、光と闇の物質として平面の中に封印する技芸(テクノロジー)、その魔術的秘儀。その技芸/術/方法/テクノロジーをありきたりの言葉で呼ぶならば〈写真術〉となる。写真という術

〈写真術〉は二つの自然の根源的なありように反逆する技芸/術/方法としてわたしたちの前に出現した。一つ目の反/超自然性。誰もその流れを押し留めることのできない時間を静止させ固定化することによって。二つ目の反/超自然性。誰もその移ろいを妨げることのできないその変化する光のありようをそのままのかたちで保存することによって。〈写真術〉の持つその二つの反/超自然性。自然の中の存在である人間の欲望の生み出した反/超自然性的術。

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〈写真術〉は人間が自然を分解し、その中から抽出した抽象化された自然性(法則/論理)を取り出し、その抽象化された自然性(物質界の法則)を駆使して、自然を解体/再構築する反/超自然的な技芸/術/方法だ。魔術を「超自然的な存在/神秘的力能を用いることによって欲望を実現させる行為/方法」とするならば、〈写真術〉は抽象化された自然性(科学/サイエンス)と言う反/超自然的な力能を用いる、人間の手の中から生み出された魔術なのだ。そのため〈写真術〉にはそれがどのような姿形をしてどのように振る舞ったとしても、そこには反/超自然的な魔術性が漂うことになる。魔術としての写真

生身の人間の身体という自然が抜き差しならない形で埋め込まれている絵画/絵画を描くことと、生身の人間が操作するシャッターとレンズと感光体から構成されたカメラという生身の人間の埒外の人工の装置(反/超自然)が不可欠なものとして否応なく介在し没入している〈写真/写真術〉。人間の身体と印をつける物質(絵具)さえあれば存在し得る絵画から、カメラというテクノロジーが必要不可欠な写真へ。物質(絵具)から装置へ。技芸が進化する

物質(絵具)がかたちを保存することができることを知り、人間は絵画を生み出した。そして、人工の装置が光を保存することを知り、人間は写真を生み出した。人はその手を伸ばし、かたちをつかみ、ひかりをすくいとった。

決定的に異なる世界を描写する方法としての、絵画/絵画を描くことと〈写真/写真術〉。一方がその手の中に世界のかたちと色彩の流れるさまをゆだね、一方は装置の中に世界の光のざわめきのありようをゆだねる。この二つは何方も光によって世界を描写する方法であるにもかかわらず、全く別の事柄としてわたしたちの世界に存在している。二つの世界を描写する方法/方術

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No.2:森山大道の写真/写真術について語るための準備として、/その二つ目のこと、内的な光と外的な光について

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内部と外部に世界が分かれているのであれば、あるいは、世界を内部と外部が分けるのであれば、そこに必然として、内部の光と外部の光が存在することになる。内部の光と外部の光、内側の光と外側の光、内的な光と外的な光私の内的な光と外的な光、あなたの内的な光と外的な光、わたしたちの内的な光と外的な光、彼、彼女の内的な光と外的な光、彼ら、彼女らの内的な光と外的な光、内部の世界の光と外部の世界の光。さらに、二つの光に寄り添うようにして、二つの闇/影もまた存在することになる。わたし/わたしたちの中の記憶に刻まれ沈殿している二つの光と闇。わたし/わたしたちの世界は二つの光と闇を抱えて生きることになる。内的な光と闇と外的な光と闇。

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そして、その二つの光と闇は内部と外部を隔てる壁を擦り抜け潜り抜け、相互に浸透することになる。内的な闇が外的な光の中に忍び寄り、外部は白から灰色へとその色彩を変貌させる。外的な闇が内的な光に秘かに混ざり込み内部は揺れ動く暗闇へと変容して行く。内的な光がそれを閉じ込める壁を壊し内部から外部へと洩れ出し、外的な闇の中でそれを切り裂く稲妻のように煌めく。外的な光がその内部へ通じる頑なに閉ざされたドアを抉じ開け、灰色と黒の沈黙で塗り潰された内部を照らし出し、その白の光に満ちた場所に暖かな風が吹き渡る。内的な光と闇、そして、外的な光と闇が世界を揺らす

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だから、人は満ち溢れる外部の白い光の中で、その内部の薄明の光と漆黒の闇の中に溺れることもあれば、その一方で、人は渦巻く漆黒の闇と微かな淡い光に包囲された灰色の外部の中で、その内部に強く激しく瞬く閃光のような発光を驚きと歓喜と伴に確信することができるのだ。二つの光と闇の撚り糸が織り成す織物(タピスリ)のかたちをしている人間の物語何時もつねに。人の生は、闇に覆われた外部の光の中を内部の中で揺れるランタンの小さな灯で足許を照らしながら歩み、その闇を潜り抜け、白い光溢れる場所へ辿り着く、あるいは、その光の場所に到着することなく迷路を彷徨する、二つの光と闇が入り交じり溶け合った、黒と白と灰色の斑模様のものとなる。

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No.3:森山大道の写真は、「外的な光を照射された外部の世界の事物/出来事/物質の像(イメージimage)の物質化されたもの」ではない。

森山大道の写真/写真術を語るための二つの事柄、写真/写真術についてと内的な光/外的な光についての話を前提として、以下に語られることになる。

写真を「カメラと呼ばれる装置(テクノロジー)を駆使して行われる写真術によって、物質化された事物/出来事/物質の光の像(イメージ/image)である」と仮定/規定するならば、森山大道の写真は写真ではない。それは写真のような姿をして現れ写真のように見えるものとして存在してなのかもしれないが、それは写真ではない。森山大道のそれは従来の意味での写真ではない

その写真術が物質化したものは「事物/出来事/物質の像(image)」ではない。その写真は「事物/出来事/物質の像(image)の物質化されたもの」ではない。正確に精密にその事態を述べるなら「森山大道の写真は、外的な光を照射された外部の世界の事物/出来事/物質の像(イメージ/image)の物質化されたもの」ではないとなる。それは全く別のものなのだ。異形の写真。

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No.4:「内的な光を照射された外部の世界の事物/出来事/物質の像(イメージ/image)の物質化されたもの」としての写真、あるいは、写真が記憶となる。/超魔術的憑依的霊媒装置(テクノロジー)としてのカメラ

森山大道の写真とは「内的な光を照射された外部の世界の事物/出来事/物質の像(イメージ/image)の物質化されたもの」だ。内的な光の物質の写真。

森山大道の写真が固定化し物質化したその光は内的な光なのだ。それは外的な光ではない。そこに外部の世界の事物/出来事/物質の像(image)が存在しているとしても、その像を描写する光は自然の光あるいは人工の光を問わず、外的な光ではない。それは内部にしか存在することのない、内的な光、内側の/内部の光なのだ。彼はカメラで内的な光を掴まえようとするのだ。

森山大道の写真術において、カメラ装置が内的な光を照射された外部の世界の事物/出来事/物質が散乱/反射する内的な光をレンズによって感光体の上に結像させる超魔術的装置となる。それは内的な光と外的な光を操るレンズと感光体を媒介する、内的な光のための憑依的霊媒装置(テクノロジー)。

そのことによって写真は記憶となる。写真が記憶となる瞬間。写真が記録から逸脱し超越し記憶となる。内的な光を浴びた世界が写真という物質となる

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No.5:「内的な光を照射された内部の世界」ではなく「内的な光を照射された外部の世界」であるということ。/はじめて人は外部の世界についての記憶を物質化する術を手に入れる。

決定的に重要な事は、それが「内的な光を照射された内部の世界」ではなく「内的な光を照射された外部の世界」であるということ。そして内的な光が描写する外的な世界を技芸(テクノロジー)で取り出し記録するということ

森山大道は「外部の光を受けた外部の世界を記録する装置であるカメラ」を用いて、その外部に向けられたレンズを通して、世界を内部に取り込み、内的な光を浴びた外部の世界を、物質として外部へ取り出すことに成功する。

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絵画が可能にした「内的な光を照射された内部の世界」の描写と絵画において不可能であった「内的な光を照射された外部の世界」の描写が森山大道によって乗り越えられる。その写真/写真術は世界の描写の形態を変更させる。

その写真/写真術の特異性。森山大道によってはじめて世界は内的な光で写し撮られ、内的な光が装置(テクノロジー)の中のレンズによって結像し物質化することになる。はじめて人は外部の世界についての記憶を物質化する術を手に入れる。森山大道はカメラの中に内的な光を取り込んだ写真/写真術の革命家なのだ。森山大道によってカメラの中で内的な光と外的な光が同時に流れる回路が見出されることになる。森山大道の写真以後、カメラ装置(テクノロジー)の中を内的な光と外的な光が自由自在に行き交うことになる。

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No.6:光の記憶であり光の記憶のための術/記憶としての写真の内的な光の独白(モノローグ)性と普遍的なるもの、あるいは、反写真の古典

森山大道の写真が現実の外部の世界に向けられたカメラを用いて撮影されているにもかかわらず、独白(モノローグ)のような孤独を帯びた内密的なものになってしまうのは必然なのである。その極私的な眼差しの向こう側に、普遍的なるものが存在しているのは言うまでもない。それはわたし/わたしたちの記憶であり、そこにはわたし/わたしたちの内的な光が存在している。

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森山大道の写真/写真術は光の記憶であり光の記憶のための術なのである。そのことをもってして、その写真が外部の光に照らし出された外部の世界の事物/出来事/物質を何一つ捉えていないこと、その独白(モノローグ)性を自閉的/閉鎖的として捉え指摘し、それを批判することは容易なことでもある。「これは本当に写真なのだろうか? これはカメラを用いた写真の振りをした絵画なのではないだろうか? これは世界を描写する方法としての写真の進化ではなく、写真の退化ではないだろうか?」/「写真こそが人間が求めていた内的な光を排除した、外的な光のみで世界の姿を捉える純粋描写ではないのか、森山のそれは後退以外の何ものでもない。」という疑問と非難を口にする者さえいるだろう。あるいは、「そこには視線はあるが、事物は存在しない。」との指摘もあるだろう。それらの批判は必ずしも的外れなものではない。純粋描写としての写真を信奉する者たちの批判を全面的に否定するつもりは私にはない。その写真の純粋描写がひとつの幻影であるとしても。

だが、しかし、私はそうした批判の根底のある「写真/写真術とは外部の光についての技法であり、それは外部の光で外部の世界を描写し記録するものである。」との認識こそ写真/写真術の可能性を限定する偏狭な誤りだ、と言うに留めたいと思う。世界は外部の光だけで満たされているのではないのだ。

思い起こして欲しい。世界に内部と外部が存在し、そこに内的な光と外的な光があり、わたし/わたしたち人間はその内的な光と闇、そして、外的な光と闇の織り成すタピスリの物語の中を生きていることを。森山大道の写真は絵画から写真へ、そして、写真から反写真へと変転する人間の光を巡る世界の描写の方法の流れの中で、写真と反写真の間に位置する歴史的メルクマールなのだ。この話は遥か数十年前に決着がついた昔話でしかない。すでに森山大道の写真/写真術はクラシック(古典)なのだから。それは反写真の古典。

あとがき:世界と私とをつなぐ透明な通路としての写真、あるいは、写真について語ること、その倫理性

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写真について感じていること思っていること考えていることを言葉にしようとすると、いつも、とまどい、立ち尽くしてしまうことになる。写真について語ろうする言葉がその写真についてではなく、その写真に写し出された世界についての言葉になってしまうからだ。写真がその世界と私をつなぐドアとして窓として透明な存在として、わたしに前に現れ、そのドア、あるいは、窓について語る間を私に与えることなく、その写真の中の世界に私を導いてしまうからだ。写真について、ではなく、世界について語ろうとする私

写真はいつもそれ自身の姿を人の前から消し去ろうとし、自分自身を語ることを拒み、誰からも語られることを拒否する。写真の持つ世界と私とをつなぐ透明な通路性こそが写真の本質であるかのように。写真の全面的透明性。

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それを写真の巧妙な欺きとするのか、それとも写真の厳粛なる慎ましさとするのか。写真というテクノロジーの主体性と客体性、そして、記憶性と記録性。ここにはその何れもが存在し、そこに写真を巡る言葉たちの誠実と不誠実が存在する。写真について語ることは倫理的なことなのだ。必然として。

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