堀 潤 JUN HORI
記事一覧
自分で自分の幸せを潰す、こと
昨年の成人の日、渋谷区の成人式でスピーチをした。
あれから1年が経つ。
会場にいた若者達との対話が今でも鮮やかな記憶となって蘇り、時に私を鼓舞してくれる。
「ここにいるみなさん全員が生まれた時から与えられている、あるものがあります。さてそれは何でしょうか?」
若者たちにそう問いかけると、会場の中程に座っていた金髪の若者がさっと手をあげて自分の思いを語ってくれた。
一瞬身構えたが、
朝鮮学校のいまと子どもの権利の報道をめぐって、堀の見解
本日、「堀潤モーニングFLAG」朝鮮学校報道を問う有志の会、早尾貴紀さん、(東京経済大学教員)、山本かほりさん(愛知県立大学教員)、板垣竜太(同志社大学教員)さんが、番組内容に関しての公開質問状をSNSで発信されていました。内容を拝見したところ、私が語った内容が一言も引用されず、誤った内容になっておりましたので、訂正させていただき、併せて私の見解を述べたいと思います。
公開質問状の中で、このよう
始まりの先にあるもの
いつ頃からそう思うようになったのかは、よく覚えていないのだけど
僕は「始まるとき」から「終わり」を考えるような生き方を続けてきた。
始まってしまったものには、必ず終わりが来る。
終わりが来ると、寂しさよりも期待の方がそれを上回る。
なぜなら、始まりをまた始められるからだ。
長く続くことは「申し訳ないこと」と、言葉を置き換え、自分への理解を促すことも少なくない。
「わたし」がそこに居座ること
映画「わたしは分断を許さない」予告
シリア、パレスチナ、朝鮮半島、香港、福島、沖縄…
ジャーナリスト堀 潤が出会い、寄り添い、伝えた、
人々の「生の声」とは———
堀 潤は「真実を見極めるためには、主語を小さくする必要がある」という。香港では“人権、自由、民主”を守る為に立ち上がった若者と出会い、ヨルダンの難民キャンプではシリアで拘束された父との再会を願い、いつか医者になり多くの命を救いたいと話す少女に出会う。美容師の深谷さんは福 もっとみる
疑いと信頼、その境界線で僕は思った
僕は、決して心が強い方ではないから、すぐにいじけてみたり、悲観的になったり、殻に閉じこもってみたり、どうせ自分なんてと卑下してみたりしてその場から立ち去ったりと、そんなに簡単ではない感情を常に抱きかかえてだましだまし生きてきた。
「意外ですね」
と言われることが多いのだけど、飲み会やパーティーは大の苦手で、「すみません、次があるので」などとあたふたしたそぶりを見せて、誰よりも先に会場か
あなたが疲れ果てた時、私は。
12年間勤めたNHKを退職して5年が経ちました。
退職直後は「喧嘩して出て行ったんですか?」「ニュース番組から《きょうの料理》に担当が変わるのが嫌だったのですか?」など色々と聞かれることも多かったのですが、そうではありません。
喧嘩なんては現場にいれば日常茶飯事、上司と部下がぶつかり合わない環境の方が不健全。新人の頃から言うときは言います!というスタンスを貫いていたのでそれが原因ではありません
手のひらをもう一度、見つめる
最近、自分の意識を変える出来事があった。
三重県の伊勢神宮では千五百年もの間、朝夕、欠かすことなく続けられてきた神事がある。
神職は自らの手で火をおこし、その火で飯を炊き、供え、祈りを捧げるのだ。
それを知り、私は思った。
「自分は火さえおこさなくなったのか」と。
私の暮らしは誰かがおこした火によって支えられている。
コンビニで食事を買い、暖房の効いた職場で、パソコンの画面をみながら、
片想いから、卒業する
インターネットやスマートフォンがとても便利になって、わたしはいま「誰でも発信できる時代」「あらゆる情報にアクセスできる時代」を生きています。
ソーシャルメディアも使いこなすことで、情報も、人脈も、そして必要な資金も頑張って手に入れようとすれば手に入れられる可能性が広がりました。
とても便利な時代です。
でも、ふと立ち止まって考えてみると、事実だと思って心の中にしまっておいたものが時折、
ゾンビになってみて思うこと
ハロウィンナイトから一夜明け、朝の8時半、渋谷センター街を歩いた。
二点悲しかった。
まき散らかった酒とゲロの匂いにまみれて、酔っ払って疲れ果てた若者たちが「うぇぇ、うぇぇ」と倒れて唸っていて、完全にゾンビだったこと。
量販店で買ったやっすいお面や流行り物の市販品を身に纏って一生懸命女子を口説こうとしている男子がカッコ悪かったこと。
「他人のクリエイティブに乗っかるな」
これは僕が
大川小裁判2審も遺族側の勝訴
先ほど仙台高裁で判決が出ました。
ご遺族の皆さんの勝訴です。
東日本大震災の津波で宮城県石巻市立大川小学校の児童74名、教職員10名が死亡・行方不明になった事故。
学校管理下で失われた大勢の命。避難指示が適切に行われず、事前の対策も怠っていたとして23人の児童のご遺族が石巻市と宮城県に対して訴訟を起こしていました。
「なぜ自分の子供が死ななくてはならなかったのか?」
切実な思いで踏み切った訴訟です